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君に届く歌
菫青石の憂鬱
 ウィスタリア=セレス=ノーザンライツ。それがウィスタリアに与えられた名だ。
 自分たち始竜は生まれながらに己の真名を知っている。誰に教えられた訳でもないというのに。ウィスタリアが受け継いだ名は蒼穹の君とノーザンライツ。後の名は同じ蒼穹の始竜であっても皆違う。
 ウィスタリアの場合、セレスは古い言葉で天空を表し、ノーザンライツは極光――つまりオーロラを意味するという。

「主様、如何なさいましたか?」

「……何でもない、イシュリア」

 自分を案じるような響きに、ウィスタリアは心配ないと言って首を振る。
 窺うようにこちらを見つめてくるのは一人の女性だ。年の頃は二十代前半ほどだろう。
 肩に届くほどの髪は灰色に近い銀で、切れ長の瞳は青紫。どこか騎士を彷彿とさせる裾の長い衣に、具足と篭手を身に付けている。

 彼女はイシュリア。自らの名の一部を分け与えたウィスタリアの眷属だ。
 彼女らは始竜の力を受け取った存在で、自分達が死なない限り、彼女らもまた死ぬことはない。家族、という概念がない始竜たちにとって、我が子同然の存在である。

 リオンが己の眷属の己の名の一部、『ヴァーミリオン=フレイア=フィーニクス』から、フィーを与えたように、眷族の殆どは始竜の名の一部を貰い受けるのだ。
 何でもない、そう言っているのに、イシュリアの表情は晴れない。相変わらず、案じるようにウィスタリアを見据えている。

「ですが、それにしては憂いを帯びた表情をしていらっしゃったので」

 ウィスタリアとイシュリアは、一年前の騒動の原因であるエスメラス王国の王都を見渡せる丘にいた。
 柔らかな風がウィスタリアの長い髪を揺らし、人々の声を届けてくれる。ウィスタリアは彼女の言葉には答えず、静かに街を見下ろしていた。
 あの騒動から一年。始竜たちにすれば、ほんの瞬きほどの時間であったが、そんな彼らにとっても、この一年は濃密といっていいだろう。

 世界という鎖から解き放たれ、ウィスタリアたちは真の自由を手に入れた。
 自分達はもう世界の監視者でも傍観者でもない。この世界に生きる命の一つだ。それを嬉しいと感じる反面、不安になる時があった。
 こうして少し『視た』だけでも人々の中に何体かの竜が混ざっていることが分かる。

 本当に人と竜は分かり合えるのだろうか。あの悲劇は二度と起きないのか。
 今は心配ないとしても、この先――人竜大戦のような悲劇が起こらない保証はどこにもない。いつか人は忘れてしまうのではないか、そう思ってしまう。
 人は忘れる生き物だ。忘却が悪いと言っている訳ではない。忘れなければ生きてはいけないのだから。

 始竜たちのように記憶を引き継ぐわけではない。彼らは輪廻の輪に戻ると同時に、生前に負った魂の傷を癒し、新たな生を歩む準備をする。その過程で、前世の記憶は失われるのだ。

「……今はいい。だがこの先、人と竜は本当の意味で心を通わせ、共に生きていけるのだろうか」

「どうでしょう? 私にもウィスタリア様にも、先のことは分かりません。今はよくても、いつか人々は忘れ、悲劇を繰り返してしまうかもしれない。理想郷はまた穢れ、人と竜が憎み合う。そんな未来が来ないとは誰にも保証できないでしょう。ですが、きっと大丈夫。この世界は理想郷(アルカディア)なのですから」

 強大な力を持つ始竜でさえ、未来のことは分からない。
 未来は不確定で、これからの人々や竜の行動で如何様にも変化する。今は良くても、いつか記憶が風化し、悲劇を繰り返す可能性もないとは言えないだろう。

 絶対などない。人竜大戦のように人と竜が殺しあう未来がくるかもしれないのだ。
 だがそれでも、イシュリアは信じたいと思う。何故なら、この世界は理想郷(アルカディア)。人と竜の夢の具現。信じることもまた大切なのだ。
 悲劇が繰り返されようとしていた時、竜と心を通わせるルカが全てを救ってくれたように。

「……そうかもしれないな。イシュリア、我は思い違いをしていたのかもしれん。未来を描くのは他でもない我らだ。先をただ憂うのではなく、悲劇を二度と起こさぬよう、我らは記憶を継いでいこう」

 創世の時のように、世界が真の姿を取り戻すのも、そう遠いことではないのかもしれない。ルカという人間がウィスタリアたち始竜を救ってくれたように。
 ただ先を憂うのではなく、悲劇を二度と起こさぬように自分達はその記憶を後世に伝えてゆこう。それがウィスタリアたちの役目。

 この道の先がどこに続いているのか誰も知らない、分からない。
 けれど、それでいいのだ。真っ白な未来を描くのは人だけでも竜でも、ましてや始竜だけでもない。人であり竜であり、始竜だ。
 ウィスタリアはもう一度だけ王都を振り返ると、イシュリアと共にゆっくりと歩み出した。



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あきゅろす。
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