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07
 柔らかな日の光が小さな窓から部屋の中へと差し込む。
 あれから数日の時が過ぎた。
「……まだ…癒えない…か」
 ムストの腹には白の包帯。混ざり気のない銀は不浄の者を昇華させる力を持つため、鉄や鋼、鉛で付けられた傷に比べて治りは遅い。
「当分はイェツィラーの屋敷には戻れそうにないな」
 そうは言いながらも、ムストはどこか楽しそうに表情を崩した。
 此処はアッシャー。天使も悪魔も神ですら存在しない物質の世界。生物は此処に在り、此処で小さな幸せを探し育む。そのアッシャーに存在する小さな家。
「ムスト」
 名を呼ばれドアの方へと視線を向ければ、未だ複雑だという表情を浮かべたブランが此方を見て立っていた。手には暖かな湯気を立てるスープとパンの乗ったトレイが一つ。
「飯だ。ナミルが」
「そうか、悪いな」
 サイドボードに置かれたそれに目をやると、随分と良い香りが鼻を擽る。
「美味そうだ」
「…そうだな」
 対になるのは白と黒。
「それは…ジプシーカードか?」
 ふとムストの手元に視線を落としたブランが、ムストの手が遊ぶ数枚のカードの存在に気付き指を指した。
「ああ。知っているのか?」
「それなりには」
 何処までも穏やかな時間。数日前声を張り上げ争ったことが嘘のようだ。
「なあ…聞きたい事があるんだが、答えてくれるか?」
「何をだ?」
 ベッドの縁に腰掛けたブランが、ムストの方を見て問いかける。
「アイツは…一体何者だ?」
「アイツ…ってナミルの事か?」
「ああ」
 真剣に問いかけてくる表情に、ムストは思わず吹き出しそうになった。その衝動をぐっと堪えると、手の中に有ったジプシーカードの中から一枚を引き抜きそれを手渡す。
「何だ?」
「ナミルはさ、これだよ」
「これ?」
 手渡された一枚のカード。見ると其処には「9」の数字を宛がわれた杖を持ちカンテラを翳す白いフードの老人が描かれている。
「The Hermit……隠者のカード」
「そう」
 小さな小さなヘルメス・トリスメギストス。未だその知識未熟ながら、真理の探究を求めてやまぬ。積み重ねた経験が多重の豊かな発想へと変わり、常に朧気な法則を一つ一つ紐解き組み立てていく。
「人が迷い道を見失う事が有るように、また天使や悪魔も迷い道を見失う事も有る。見えなくなった道の先を照らす焔を掲げる者が、必ずしも神の使いであるとは限らない。そういうことさ」
 廊下の突き当たりから玄関を叩く音が聞こえる。
「誰だ?」
 廊下を歩くナミルの足音。開かれた扉の向こう側に居たのは、どうやら彼の友人らしい。
「これ、今日ウチの畑で取れたんだけど、ナルが持っていけって」
「ああ、悪いな。オネ」
 楽しそうな声に耳を傾けながら、ムストは再びカードを切った。
「ブラン、アンタ、イェツィラーに戻らなくてもいいのか?」
「ん? ああ…それなんだが…実は迷っている」
 おずおずと伸ばされた手。ムストが不思議そうに首を傾げると、包帯の巻かれた腹の上にそっと乗せられ傷口を撫でられた。
「俺にはもう、何が正しいのか判らなくなってしまった。少なくとも、俺の考えて居たことは絶対ではないと言うことが立証されてしまったからな」
「ふうん」
 傷口を抉られるのだろうか? そうなるとベッドが血で汚れるな。なんて妙な事を考えて居ると、ふと心地よい暖かさを感じ目を見開く。ブランの手に集まる緑色の柔らかな光。
「傷…治してくれんの?」
「……銀で付けた傷は治り難いんだろう? こうすれば多少は回復が早くなるはずだ」
 変わり始めた一つの心。
「変な天使。悪魔を助けるなんて聞いたことねぇや」
 ムストは楽しそうにクスクスと笑う。
「俺だって、悪魔を助ける天使の話を聞いたことねぇな。悪魔にかける慈悲なんて、俺達は持ち合わせてねぇもん」
 それに釣られるようにブランも自然と表情を崩した。
「なあ、天使さん」
 治療自体はそんなに時間が掛かるものではないらしい。だが完治に至るのはまだまだ先だ。未だ完全に癒える事のない傷口から手を離したブランの腕をムストはしっかりと捕まえて言う。
「これでアンタも堕天使だ。どう? 墜ちてみた感想は」
「……謀った…のか…?」
「まさか!」
 嫌悪に表情を歪めたブランに、ムストは慌てて否定した。
「アンタが望んで墜ちてきたんだ。俺はただ其処に居ただけにしか過ぎない。でもさ…イェツィラーに居たときよりもずっと心地が良いだろう? 完全に理解は出来なくとも、人の心を一つ知る度に、自分が変わっていくのが判る。そう言うのって楽しいと思わないか?」
「……まぁ、確かに」
 一人の人間が一人の悪魔を喚び出した。小さなヘルメス・トリスメギストスは悪魔に知識を得る手伝いをしろと願った。悪魔は暫し考えて、その話に乗る。芽生えた興味に楽しみを求めて。
 一人の人間が奏でる音に一人の天使が誘われた。小さなヘルメス・トリスメギストスは天使に疑問を投げかける。天使は暫く考えて、判らないと首を振る。芽生えた疑問に答えを求めて。
「あっ、The Star」
 何気なく引いたカードの図柄は星の絵。
「見ろよ、ブラン」
「ん?」
 ムストが差し出すカードを受けとると、ムストは嬉しそうに笑いながらこう言う。
「希望が出た。きっと未来は明るいってことだぜ」
「……そうかな?」
「きっとそうだ」
「…ああ、そうかもしれないな」
 最後に引くカードの図柄は判らない。それを引くのは今ではないだろう。だがその絵の形は如何様にでも変えていける。
「ブラン! 一寸手伝ってくれ!」
 玄関から響くナミルの声。
「ああ! 一寸待て」
 ベッドから腰を上げたブランが、その声に答えながら歩き出す。
「白い翼が穢れても、手に入れたものが尊い事だってあるんだぜ。アンタにはそれを見つける事は出来るか?」
 部屋を出る間際投げかけられた質問に、ブランは一度ムストの方を振り返ると笑いながらこう答えた。
「見付けてみせるさ。後悔はしたくないからな」
 小さな窓から広がる空。それにムストは視線を移す。何処までも続くそれは、透き通るほどの青い色をしていた。

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