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06
「痛みを知らない者に誰が救えるんだ! 傷を持たない者に、他者の痛みは分からない! 何故人に心があるか知っているか!? 何故人が悪魔の囁きに耳を傾けると思う!? 貴様達が耳を貸さないからだ! 何故それに気付かない!!」
「どういう事だ! お前の言っていることは理解出来ない!」
 そう言って耳を塞ごうと手を動かすブランの両腕を、ナミルは強く握り込んで動きを阻止し怒鳴った。
「人が悪魔を喚び出すのは、何も己が欲のためだけではない! 其処に救いを求める事も有るんだ! それは何故だ!? 神が人の声に応えてくれないからだろう! お前達が人の声に耳を傾けないからだ! お前達と違い、悪魔は人を唆す。だがそれが例え命と引き替えという条件だとしても、救いを求めて差し伸べた手を悪魔は振り払う事は絶対にしない! 自分の欲求を満たすための行為だと判っていても人が悪魔に願いを請うのは、人の叫びを悪魔は確実に聞き取り願いを叶えてくれるからなんだ!!」
 一気に言葉を吐き出し終わり上がる息。肩を大きく動かしながらナミルは荒々しく呼吸を繰り返す。
「…………悪魔の中には心を持っている者も居る。人とその感情を共有出来る者も居るんだ。お前達には判らないだろう?」
 ゆっくりと離れていくナミルの手。掴まれていた部分が小さく痛みを放った。
「何故…天使が穢れを知ると地に墜ちるのか考えた事はあるか?」
「………いいや…無い…」
 ムストの元へと戻ったナミルが、そっと汗に濡れた亜麻色の髪を掻き分けながら再び自分の膝の上へとその頭を戻す。
「お前達は神の調度品なのだろうな。口答えせぬ完全なる愛翫用の道具。何処までも潔癖で何処までも高慢で。醜い物を憎み許す事は有り得ない。だがな…人はお前達のように綺麗な部分だけで出来ている訳では無いんだ」
 ナミルの手がそっとムストの血を吐き出す傷口へと触れる。翳された手に集まる小さな光の粒子。
「人は悪魔のように、欲や嘲り、怒りや嫉みと言った感情も併せ持つ。美徳を重んじながらも、内に宿る背徳を手放すことは出来ない。それは人に感情と言う物があるから。お前達のように割り切れる潔さは人にはない。お前達の望む神の求める清らかな魂など、人の中には有り得ないんだよ」
 中々癒えない傷口に不安そうに瞳を揺らしながらナミルは訴えるように口を開いた。
「お前達が悪魔を殺す事に躊躇いを感じ無いのは、感情の一部を神が与えなかったからじゃないのか? お前達は人を救済すると言っている割には、余りにも心がなさ過ぎる。視野が狭すぎるんだ。二言目には神の名を掲げることで、自分達を正当化し他者の意見に一切耳を傾けようとしない。…墜ちた天使の一部は昔お前達と同じものだったのだろう? そいつ等にはあってお前達には無い物が何だか判るか? それは…人と同じ感情…背徳を享受出来る視野の広さ…だ」
 昨日、お前も聞いただろう? この悪魔が紡ぐ柔らかい詩を。あれは、昔、神に愛された天使が人の心を知ったことにより神の怒りに触れ、闇に墜とされたという話の件だ。闇に墜とされた天使が一体何なのか…もう、説明しなくとも想像は付くよな。そう呟いたナミルの言葉が妙に重い。
「悪魔だって、殺すときに相手に慈悲をかけることもある。相手を愛し労る心を見せることだってあるんだ。もし…お前達が不浄なる者に対して慈悲を掛けることが出来ず、殺す事を躊躇わないのならば、天使と悪魔…どちらがより残忍であると言えるのだろう」
 ブランにはもう何がどう正しいのか判らなくなり始めていた。自分の信じていた全ての事が、音を立てて崩れ落ちていく気がする。
「俺は天使のことは余り詳しくは知らない。だが、俺自身、グリモワールを携える者で在る以上、悪魔という存在は極身近に在る者として認識はしている。…確かに、お前の言うように純粋に欲求を満たすために醜い事を平気でするような奴等も彼等の中には多く存在するだろう。だがな…ブラン…」
 崩れた仮面。今まで気丈に振る舞ってきたナミルの表情が、不安そうに涙を浮かべる子供のようなものへと変化する。
「全てがみんなそう…という訳では無いんだ。少なくとも、ムストは俺に色んなものをくれた。始めはただの退屈凌ぎの為のからかいの道具だったのかも知れない。それでもコイツは、俺の事を見捨てることはせず、俺の事を育ててくれたんだ。俺に取ってはたった一人の家族なんだよ…それを…アンタは奪おうっていうのか? どうなんだ…答えてくれ…」
「俺…は……」
 人を救おうと思って取った行動が、救うべき人を傷つける。良かれと思って行った行為が最悪の結果を招き寄せる。
「美しき物しか許容出来ない潔癖な神の救いなんて要らない。そんなものなら、消えてしまえ。俺が欲しいのは、家族だ。返してくれ…俺の家族を返してくれよ…頼む…」
 そうやって身体を小さく折りたたみ咽び泣くのは一人の人間。彼から全てを奪い取り上げたのは天使の方で、彼が助けを求めそれに応えて安らぎを与えたのは悪魔の方だった。何という皮肉だろう。だがそれが彼の見た真実。ブランに突きつけられた現実だった。
「歪んでいるのは神の方だ。俺達はただ、必死になって生きているだけなのに、何故こんな風に扱われなければならない。何故…」
 どう答えて良いか判らずただ呆然と立ち尽くしていると、ふとナミルの腕の中でぐったりと項垂れていたムストの腕が持ち上がり、柔らかな黒い猫っ毛の髪の毛を優しく撫でた。
「泣くな…まだ死んじゃ居ねぇ…って…」
「……っ……ト……ム……ストっ…」
「まだ生きてるよ…まだ死ぬつもりはねぇから…安心…しろっ……っっ!」
 辛そうに一度ゆっくりと息を吐いた後、ムストは何とか身体を起こしてブランを見据える。
「見たか? これが真実だ……アンタが俺の事をどう思おうが構いやしない。だがな…天使様」
 ムストの腕がナミルの背に回され、護るようにしてその身体を腕の中へと閉じ込めた。
「どんなに性根が腐った悪魔でも、自分の好意を寄せる相手や、大切だと思って居る家族を傷つけられて笑っていられる程腐ってるって訳じゃ無い。俺達にだって感情はある。大切な者を護りたいと思う心がある。お前達みたいに汚いから壊すなんてそんな理由で破壊を行えるほど、俺達は器用じゃない。大切なものがこの手の中に有るのなら、それを命を賭けて守りたいと思う心が俺達には確かにあるんだ」
 今までは穏やかだったムストの雰囲気が徐々に荒々しいものへと変化していく。それは悪魔の腕の中で必死に感情を抑えながら涙を堪えるたった一人の人間が引き起こした現象。
「言ったよな? コイツは俺の弟みたいな存在だって。正直、争うこと自体は好きじゃない。面倒臭いから。だけどな。アンタがナミルを傷つけるんだって言うんなら話は別だ。ナミルは好まないかもしれないが、もしそうなった場合俺はアンタを許さない。全力で殺してやる。その彫刻みたいな身体に生える純白の翼をもぎ、皮膚やその下にある肉を切り裂き、テメェの中にある全ての臓物を引き摺りだしてやるからな!!」
 牙をむき真っ直ぐに向けられる殺意。
「判ら…ねぇ…よ…」
 そう呟いた後、ブランは膝を折り地に崩れ落ちた。
「お前達…一体…何…なんだ……なんでそんな事を言うんだよ…」
 ヤハウェは何時だって正しい。ヤハウェが悪魔を汚らわしいと言えばそうなるものだし、それを消し去れと言えばそうなるべく動く。それがブランにとっては当たり前で、疑念など抱いたことすら無かった。
「ヤハウェや俺達を否定して、堕落した闇の眷属に救いを求めるなんて…そんな……そんなことが…」
 人を護り人を導く。全ての罪を浄化し、魂の穢れを落とした人はやがて罪を許され楽園へと帰る。
「何故それを拒む……何故ソイツを選ぶんだ…?」
 そうなることが人の幸せだと信じて疑わなかったのに、何だって目の前の人間は頑なにそれを否定するのだろう。
「ヤハウェが全て赦して下さる…魂が救われれば、みんな…幸せに…」
「そんな偽りの幸せは要らない。俺が欲しいのは確かにこの手で掴み取れる目の前に有る絶対だ」
 力を失い崩れるムストの身体。それを支えるように肩を貸したナミルが、乱暴に涙を拭うとハッキリした口調でそう言った。
「死んだ後の約束された楽園よりも、生きている今で手に入れられる幸せを渇望して何が悪い。それを与えてくれたのが悪魔だったとして、それの何処に罪がある。望むべき幸せの形が魂の救済だと決めつけるな。全ての人間がアドナイの元へと導かれることを望んでいるなんて誰が決めた。少なくとも俺はそんなものは望んじゃ居ない。俺は自分の欲しい幸せを自分の手で掴み取る。お前なんかに魂を救済して欲しい等とは思わない!!」
 ブランの目から溢れ出した涙が、頬を伝って地に落ちる。
「俺は…どうしたら…」
「そんな事は、自分で考えるんだな」
 ナミルが言った一言が、ブランの胸に深く刺さり傷を作った。

 崩れていく世界の法則。
 妄信的に信じていた絶対の価値観は、小さく付けられた罅により呆気なく崩壊してしまった。
 其処に現れたのは一つの疑問。
 暗き道に小さな灯り揺れる。
 その焔を追い進む先には何が待つのか。
 今はただ、暗き道を歩き続けるしかないのだろう。


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あきゅろす。
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