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03
 シャワーヘッドから吹き出る生温い水で漸く冷静さを取り戻す。
「……何だったんだよ…アイツ…」
『よぉ』
 突然現れた一人の悪魔。
『もう一度、その歌を聴かせてくれないか?』
 悪魔にしては珍しく粗暴ではない態度に酷く驚いたのは言うまでもない。それどころか、ブランが口ずさんでいた歌をもう一度聴きたいと頼んできた。
「……訳……判らねぇや…」
 悪魔のことは理解出来ない。そもそも理解などしたくない。善悪ははっきりし、その理念に従い行動するブランにとって、悪魔とは討ち倒す対象でしか無いからだ。
「変な奴だったな」
 今まで会った悪魔達とは違う雰囲気に、ブランは頭を抱えて悩む。
「忘れよう」
 幾ら悩んだところで所詮相手は悪魔なのだ。許容する必要も享受する必要も有りはしない。流れゆく水に身を任せその流れを感じながら頭の中を空にしていけば、染みついた汚れが流れ出し消えていく感覚に陥って心地がよい。
 バスルームから響く水音は、その後暫く続いた。
 次の日もブランはアッシャーへと赴いた。ヴェルテューには小言を言われたがそれはのらりくらりと躱し日の光を楽しむ。
「ヴェルテューが言うほど、アッシャーも悪い場所じゃねぇのにな」
 確かに鉄とオイルの匂いは苦手だ。工場の煙突から立ち上る煙で翼が黒く汚れることも好きじゃない。だが、それと同じ世界に有る緑や青はブランがとても好きなものの一つだった。何時ものように地に降りて翼を畳めば、集まってくる小さな動物たち。
「おっ? 元気にしてたか?」
 ブランの肩に止まった小鳥が甘えるようにその小さな身体を擦り寄せてくる。
「くすぐってぇよ。ははっ」
 足下には兎や栗鼠がちょこんと立ちブランの事を見上げていた。
「そうだなー…今日は何をしよう」
 今日の計画を頭の中で組み立てていると、どこからとも無く不思議な音色が風に乗ってブランの元へと響いてきた。
「これ…は…?」
 その音に導かれるようにして足を進める。暫く歩き続けて辿り着いたのは小さな小屋の前。
「あっ…」
 耳を擽っていた心地よい不思議な音色が突然途切れる。
「……誰だ?」
「えーっと…」
 井戸の縁に腰を掛けてギターに似た楽器を操っていたのは一人の青年。彼が気配に気付き演奏の手を止めると顔を上げてブランの方へと視線を向ける。
「邪魔…したか?」
「ムスト?」
 『ムスト』。聞いたことのない名で呼ばれ、ブランは不思議そうに首を傾げた。
「何だ? 忘れ物でもあったのか?」
「一寸待て。俺はムストって奴じゃない。俺の名はブランだ」
「ブラン…だと…?」
 青年の目の前に立つ男は顔なじみの悪魔とそっくりな見た目をしていた。
「冗談はよせ」
 ナミルは始め、相手が自分の事をからかっているのだと思いそう呟く。
「からかってなど居ない。俺はムストって奴が誰なのか知らない」
 しかし、ブランと名乗った男は困った様に眉を下げると「ムストではない」と否定し続ける。
「本当にムストではないのか?」
「だから何度も言っているだろう? 俺の名前はブラン。ムストって奴じゃねぇよ」
「…………」
 こんなにも似ているのに違うと言われナミルは軽く混乱したが、やがて拘るのに疲れてきたのかブランから視線を逸らすと持っていた楽器の調弦を始めてしまう。
「……なぁ、それって」
「何だ?」
 楽器に興味を示したブランがナミルの方へと近付いてきた。
「不思議な音色が出るんだな。何て楽器?」
「これか? ウードだ」
「ウード?」
 ブランの知っている楽器で一番近いものはギターだ。だがナミルの持つ楽器は明らかにギターと形が異なる。
「ウードかぁ…何処の楽器だ?」
「……アラビア」
 何故そんな事を聞くんだ? ナミルの目がそう訴えていたが、ブランは気にせず話し掛けた。
「なあ、もう一回弾いてみてくれるか?」
「…何故?」
「俺が聞きたいから」
 人懐こい笑顔を浮かべて「頼む」と催促され、暫し無言の睨み合いが続く。結局はブランに根負けしたナミルが仕方無いと小さく呟いた後、調弦の終わったウードを構え直し弦を弾いて音を奏でた。
 ウードの奏でる独特の音色が空気を震わせ辺りに広がる。その不可思議な音階にブランは瞼を伏せ聞き入った。
 暫くはそうやってナミルの奏でる音楽を楽しんでいた。芸術は好きだ。絵画でも彫刻でも演劇でも何でも。勿論音楽も例外では無い。美し物は心を癒す事の出来る不思議な力を持っている。其処から感じる様々な感動をブランはとても好んだ。一曲が終わると次をと新たな曲を催促する。青年の奏でる音楽は、何処かの国の長い詩の一部らしく、曲の一つ一つに表情があって面白い。穏やかな凪の海のように広がるときもあれば、荒れ狂う高波のように音がうねることもある。そういった様々な表情を楽しんでいると、辺りはすっかり夕闇に包まれてしまっていた。
「あ…いっけね…」
 朱と紺が混ざる紫の空を見上げブランが表情を曇らせる。
「拙いな…夜が来る…」
「どうした?」
 持っていたウードを下ろすとナミルが不思議そうに首を傾げる。
「あー…いや。暗くなると帰れなくなるんだ」
 ブランの白い指が色の変わってしまった空を指差した。
「確かにこの森は暗い。だが、危険生物に分類される特定の動物は生息していないはずだが?」
「夜目が効かないんだよ」
 困ったね。そう言って渇いた笑みを零すブランに、ナミルは明かりを貸してやると提言してみた。
「うーん…どっちにしろ明かりがあっても帰れないからなぁ…」
 今日は野宿しかないか。そう呟いたところで、面倒臭そうに立ち上がったナミルが手を差し出す。
「泊めてやる。大したもてなしは出来ないぞ」
「え? いいの?」
 この人間は思った以上に良い人間だったようだ。
「そう言って貰えるなら是非に!」
 夜になると翼がだせないためゲートにまで移動が出来ない。イェツィラーに戻る事を早々に断念したブランは素直にナミルの誘いに乗ることにし、招かれた家の中へと足を踏み入れた。
 通された室内。簡易的な家具しかない殺風景な部屋の中央に置かれた食卓に腰掛けると、ブランはキョロキョロと辺りを見回す。
「肉のストックがもうそろそろ無くなる。そんなにふんだんに振る舞えないが問題はないか?」
 一度炊事場へと姿を消したナミルが、食材を持って戻ってきた。
「あっ。俺、肉って苦手。野菜で良いよ」
「………そうか」
 持ってきた籠の中に有るブロック肉に視線を落とし何か考えた後、ナミルは再び炊事場へと姿を消す。
「人間の住む家に入るのって初めてだなー…」
 イェツィラーの建物とはまた違った雰囲気にブランは子供のようにはしゃぐ気持ちを必死に抑える。見る物全てが目新しい。何もかもが新鮮で見ていて飽きが来ないことがとても嬉しいと感じる。
「そう言えば…名前…何だっけ?」
 一番大切な事を聞き忘れていることに気付き、ブランは「あっ」と小さく零した。
「…まぁ、後で聞けば問題無いか」
 炊事場から雪崩れ込んでくる食欲をそそる良い香り。
「そう言えば、アッシャーでの料理って初めて食べるかも」
 何が運ばれてくるのか判らないという感じが、ブランの楽しみをより一層煽り刺激する。
「早く食べてみたいぞー」
 その言葉に反応するかのように、自分の腹の虫が小さく鳴った。

「ネクロノミコンの修繕はどれくらい捗ってんのかねぇ?」
 漆黒に染まった空の下。ムストは通い慣れた道を歩く。
「取り敢えず良質な魚が手に入ったから、珍しく奮発してみましたよっと」
 手に持った籠の中には二尾の大きな魚。
「これをどう調理してくれるのか楽しみだ」
 それと併せるように自分用に買った白ワインを片手に、ムストは目的地へと急ぐ。漸く見えてきた掘っ立て小屋。一度扉の前に立ち決められた回数をノックすると、随分立ってから漸くその扉が開き家の主が顔を出した。
「よっ!」
「ムスト?」
 明らかに何時もとは違う反応にムストは違和感を感じ眉間に皺を寄せた。
「どうしたんだよ、お前」
「……いや…それじゃあやっぱりあれはムストじゃ無いのか」
「あれ?」
 不思議に思い室内に視線を向ければ、ナミルの他に人の気配があることに気付く。
「もしかして、来客か?」
「帰れなくなったやつを泊めている。まあいい。入れ」
 促されるままに室内へと足を踏み入れると、案内される部屋の前。
「外で何か喰ってきた…訳では無さそうだな」
「んー? ああ。ナミルに何か作ってもらおうと思ってお土産」
 持っていた魚を差し出すと、それを素直に受けとったナミルが僅かに表情を崩して笑う。
「最近肉ばっかりだったからな。それって俺に併せてくれてたんだろう? お前、こっちの方が好きだって言ってたから、偶には、な」
「姑息な真似を」
 そう言いながらも何処か嬉しそうな彼は、普段は中々見せない表情を見せてくれる。
「その手に持っているものは何だ?」
 渡された魚の他にムストが手に持ったボトル。それに気付いたナミルが何だと聞いてくる。
「酒か? 酒は飲まないぞ」
「こっちは俺用。大丈夫、ちゃんと判ってるって」
 白ワインのボトルを掲げて軽く振って見せたところで、扉の向こう側からナミルを呼ぶ声が聞こえて来た。
「なーあ、俺、腹減ったよー。何時まで待てばいい−?」
「ああ。済まない。今行く」
 安っぽい木製のドアがナミルの手によって開かれる。
「あっ」
「なっ!?」
 廊下と部屋と。異なった空間でほぼ同時にあげられたのは驚きの含まれた短い言葉。
「何だ? 矢張り知り合いなのか? お前達は」
「お前…はっ」
 始めに反応したのはブランの方だった。静かに席を立つと警戒心を剥き出しにムストの事を鋭い視線で睨み付ける。
「知り合いっていうか…その…」
 対してムストは、気まずそうに視線を逸らした後小さく溜息を吐いて俯いてしまった。
「……人間」
「人間…とは、俺の事か?」
 人間と言われたナミルが、確認するかのようにそう聞けば、ブランは肯定の意を込めて首を縦に下ろした。
「何故、悪魔と一緒に居る?」
「悪魔…それはコイツのことか?」
「ああ」
 再び縦に振られる首。
「ならば簡単だ。コイツは俺の友人。そう言う理由で共にいる。何も可笑しい事は無いだろう?」
 それが当たり前の事だとあっさりと答えるナミルに、納得のいかないブランは食いついてきた。
「ソイツは悪魔だ! 人をそそのかし人の魂を喰らう不浄の者! 何故そんな奴を家に招き入れる!?」
「だからさっきも説明したと思うが、コイツは俺の友人だ。友人を家に招き入れて何か不都合でもあるのか?」
「大ありだ!」
 頑なにムストを否定する態度。それに違和感を感じたナミルは暫し考えを巡らせてその原因を探る。
「人同士の友情とは勝手が違うんだぞ! 判ってるのか!? ソイツは友人の顔をして、お前の魂を喰らう機会を覗っている! そうだろ!? 答えろ! 悪魔!!」
「……ムスト、もしかしてコイツの正体は天の使いと言う奴か?」
 天使か人間か。その判断に多少迷いはしたが、必死にムストの存在を否定するところを見るとムストと同眷属であることは無さそうだとナミルは思う。
「………ああ。純白を翼を持つ天使様だ。昨日、ここに来る途中で会った」
 昨夜ナミルの元を訪れた際に浮かべていた寂しげな表情。それと同じものを浮かべながら絞り出すように答えるムストに、何かいざこざがあったことを理解する。

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