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 あれは夏の暑い日だったように思う。日曜で学校は休み。だからヴァルは何時ものように、誘いに来た友人と共に外へと出かけていった。何も変わらない。毎日が同じ事の繰り返し。
 その生活がマンネリでつまらないと感じていたことは否定しない。欲しかったのは小さなスリルで。ほんの僅かな好奇心を満たすための刺激が欲しかった。それでも矢張り子供の考える事だ。それ程大きな事を成し遂げることは非常に難しい。成長して行くにつれ身体だけは大きくなるのに、中味は何時までも少年のまま。もう暫くするとそれも多分無くなり、一気に大人との距離が縮まり自分が今という時間に手を振らなければならない状況が来ると判っている分、ヴァルは今を必死に楽しんで居た。
 そんな日常が呆気なく崩壊したのは、たった一匹の犬を妹が拾ってきた事が原因。
 母親の買い忘れた砂糖を買いにヴァルの妹のアイラは家を出る。お使いは遊びに出てしまった兄の代わり。向かうは近所のコンビニエンスストアだ。そんなに難しいことは何一つなく、それは何事も無いまま終わる小さな仕事。頼まれた商品を間違えることなく手に入れると、彼女はお使いのお小遣いとして手渡されたお金で買った飴玉を舐めながら帰路を歩いていた。
「クゥン」
「?」
 耳が捕らえた小さな音に、無意識に足が止まる。暫く耳を澄ませて音を探るが、それは只の一度きりで耳に届かず、彼女は始めその音を気のせいだと思い再び足を動かした。
「クゥン」
「あれ?」
 空耳などではない。今度ははっきりと聞こえた音。アイラは首を傾げながら、再び足を止め音の発生源を探す。
「どこ?」
「クゥン」
 彼女の声にその音は答えた。今度は耳を澄ませていたからそれが何処から聞こえてくるのかを見つける事が出来る。
「…こ…いぬ…?」
 植え込みの茂みの中。その犬は寒そうに震えながら小さく蹲って居た。
「どうしたの?」
 動物は好きだ。それを見つけて笑顔になった彼女は、静かにその犬の側に近寄ると、その場にしゃがみ子犬へと視線を落とす。
「けが…してるの…?」
 彼女の言葉に子犬が答える事は無い。代わりに聞こえてくるのは苦しそうな呼吸で、それを繰り返しながら、子犬はその場に蹲るだけ。体調が芳しくない事は間違いが無さそうだ。
「どうしよう……」
 どうしよう。そう言って思い付いたことはこの子犬を家に連れて帰ること。家でペットを飼うのは特に禁止はされていなかったはずだし、何よりも見付けてしまった以上放っておく事は難しい。
「だいじょうぶ?」
 なるべく子犬を刺激しないようにそっと腕を伸ばし近付く。小さな指先が子犬の身体に触れても、子犬は大きな反応を示すことなく震え続けているだけ。揺れた指先で軽くその身体を撫でた後、子犬の身体をそっと抱き上げ腕の中にしまい込む。子犬は実に大人しく彼女の腕の中に収まった。
「早く帰らなきゃ…」
 立ち上がり、足を速めて帰路を急ぐ。気持ちの焦りから次第にそれは駆け足へ。子供の足だ中々家は見えてこない。その為、余計に気持ちは焦ってしまう。そうやって小さな足で必死に駆け足を繰り返し漸く見えてきた我が家。安心するのは未だ早いが、家に着いたという気持ちから、速度が少しずつ遅くなり、彼女の顔に安堵の色が浮かんだ。
 自転車を漕ぐ足は軽快で、そのスピードを楽しむようにしてヴァルは帰宅する。本日の収穫品はやりたいと思っていたゲーム。友人がクリアしたと言って貸してくれたそれを、一分、一秒でも早くやりたい。事故に気を付けながらブロックを左に曲がりストリートを突っ切る。見えて来る家の外観に小さく出た口笛は、頬に当たる風に掻き消されるようにして消える。
「たっだいま〜」
 玄関の扉を開け、乗っていた自転車を廊下の定位置に収めると、肩に掛けていたリュックサックを背負い直しながらヴァルは声を上げた。
「かあさーん、お腹空いたー! おやつの残りあるー?」
 何時もなら自分の声を聞いて嬉しそうに顔を出す妹も、優しそうに微笑んで自分の事を出迎えてくれる母親の姿も、何故だか今日は見当たらない。
「ん?」
 そのことに覚えたのは強烈な違和感で。ヴァルは一人首を傾げると、そのまま自室へは戻らずキッチンへと足を進めた。
「母さん?」
 キッチンに近付くにつれ異臭が漂い始める。その匂いは余り嗅ぎ慣れないもの。普段は食欲をそそるような甘い匂いが漂ってくるはずなのに、何故今日に限ってこういう匂いがするのか分からずヴァルは戸惑う。
「かあ…さ……」
「ぐるるるるる……」
 足を踏み入れた先。ヴァルはその場で立ち尽くした。
「なに……してる…んだ……あい…ら………」
 肩に掛けていたリュックサックが音を立てて床の上に落ちる。
「かあさんは……」
「ぐぐ……」
 そこに広がっていたのは一面の紅で。天井まで届いた色に思わず息を呑んだ。それが何であるかは知っているはずなのに、それが何であると言うことを知ることはしたくない。相変わらず母親の姿は見えず、目の前に居るのは妹で。しかし、その妹は何時も通りの可愛い彼女ではなく、全く違う別の何かにしか見えず戸惑う。
「あいら……かあさんは……?」
「がぁぁっっ!!」
 突然、目の前の妹が大きく体を揺らし吠えた。感じた危機感にヴァルが急いで身を翻し走り出す。その動きに気付いたのだろう。彼女もそれほど素早い動きではないがヴァルの後を追い走り出した。
 一瞬だけ視界が捕らえた物体。妹の足下に転がっていたのは壊れた人形のような母親だった。見間違いだと思いたかったが、自分の事を追ってくる化け物のように変わってしまった妹の存在でそれが夢ではないと言うことが嫌でも判る。このままではやられてしまう。そう思うと身体は無意識に動いた。
「がぁぁぁぁぁっっっ!!」
「うわぁぁぁぁっっっ!!」
 玄関に後一歩と言うところで背後から変わってしまった妹の咆哮が響いた。無意識のうちに伸びた手がアンティークの置き時計を掴む。状況を確認しようと振り返ったところで感じた絶望。伸ばされた腕が自分の身体に届くよりも早く、ヴァルは妹だった物の頭に固い置き時計の角を振り下ろした。
「うわぁぁっっ、ああ! あああぁっっっっっっっっっ!!」
 その置き時計は子どもが持つにしては重たい物で、普段なら絶対にそれを持ち上げたりしようとは思わなかっただろう。だが、人間、自分の生命が危機に追い込まれるとその場限りで大きな力が働くことがある。狂ったように叫びながら、何度も、何度も、妹だった物の頭に振り下ろされる鈍器。潰れた蟾蜍の様な声を上げぐちゃぐちゃに壊れていくその器に、涙と鼻水が溢れ出す。力の差は明らかだった。だから一度自分が優位に立てればその化け物を壊す事は出来るという直感は確かに有る。それでも、上手く壊すことが出来ないのは、その化け物が数時間前までは自分の大切な兄妹だったという事実の為。
「うぅ……う……」
 一つ鈍器を頭に振り下ろす度に嫌な音を立てて破壊される頭蓋骨。何故かコレを完全に破壊しないといけないような気がして身体は自然とその行為を繰り返してしまう。心は「もうヤメロ!」と何度も叫ぶのに、腕が機械的に動き続けその動きを止めようとしても止まってはくれない。そうやって…何度、妹の頭を殴りつけただろう。
「………はぁ……はぁ……」
 ヴァルの手から離れて床の上に落ちるアンティークの置き時計。足下には頭を滅茶苦茶に潰された妹だった物が転がっている。
「うぁ……あ………」
 誰か、この状況が嘘だと言って欲しい。
「あ………」
 今、自分は悪い夢を見ていて、朝になったら母親に「遅刻よ! ヴァル! もう起きなさい!!」と叩かれて起こされる。
「あぁぁ………」
 階下のダイニングに顔を出せば出勤前に新聞を広げてコーヒーを口にする父親が居て。「おはよう、ヴァル」。そう言いながら困ったように笑うしっかりしすぎた妹に朝から小言を言われる。
「うあぁぁ……」
 今、目の前に広がる光景は自分の見た悪い夢。
「あぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっ!!」
 誰か、これが全て現実ではないと自分に言って欲しい。折れた膝が地面とぶつかり鈍い痛みを放つ。自分で壊した自分の妹。それの前で蹲り、大きな声を上げてヴァルは泣いた。どうして良いか判らず、ただ叫ぶように。

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