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07
 手のに握られたナイフの刃先。それがハイエナの眼球に触れた。
「ガァァァァァァッッッッッッ!!」
 ハイエナは大きく背を逸らし身を倒して悶える。顔を押さえる指先からしたたり落ちる紅い滴。それを見てブラッドは口角を吊り上げ獰猛な笑みを浮かべる。
「どうだぁ? テメェが狩られる側に回る気分っつーのはよぉ」
 狩りを楽しむ獣が一人。狩られる側に回ってしまったハイエナがじりじりと後退し始めた。
「堪んねぇだろ? このスリル。ゾクゾクするよなぁ? なぁ、ソウだろう? クソ野郎」
 確かにブラッドは腕が良い。だが頭のネジは大量に吹っ飛んでいる。後衛でバックアップに対応出来る様にスタンバイしていたヴァルは小さく呟き舌打ちを零す。
「Bullshit!」
 こうなったら、彼の気の済むまで相手はいたぶられる。ヴァルがそれを止め様ものなら、その狂気の対象はヴァル自身に向く危険性も孕んでいた。それを痛いほどよく理解しているからこそ、余計な手出しは無用というもの。
「心から相手に同情をするよ。まぁ、せいぜい頑張んな」
 ヴァルが小さな溜息を吐いたと同時。ブラッドが次の攻撃を繰り出すべく動き出した。

 男は廊下でリズムを取っていた。最近手に入れたばかりの音源。そのメロディを口ずさみながら、必死にフレーズを覚えようとしていたのだ。
 伏せていた瞼を開き、一度署長室の扉の方へと視線を向ける。閉ざされた扉の向こう側には、自分の上司と客人が居るのは判ってはいたが、男には特に興味も無いことだった。何故なら男は歌を覚えるのに忙しかったから。
 男の足が忙しなく動き一定のリズムを刻む。それに併せながら鼻歌が口から零れ自然と揺れ出す身体。
『良いぞ、その調子だ』
 男は自分の中でそう呟くと段々自分の世界へと思考をシフトさせていく。プレイヤーとイヤホンは残念ながら無い。だが、男の脳はまだ記憶に新しい覚え立ての音を忘れては居なかった。一つ一つのコードを思い出しながら脳内でそれを再現していく。そうやって気持ち的に大分ノリが付いて来た時だった。
「ガァァァァァァッッッッッッ!!」
「!?」
 突然、目の前の署長室から獣の吠えるような声が響いてきた。
「なっ、何だ!?」
 男は一瞬、自分の耳が何の音を捉えたのか理解出来なかった。この音は何だと必死に考えを巡らせるが判らない。尤も似ているものとして考えられるのは動物の叫び声だが、生憎この施設のこの場所には犬も猫も居らず、人間と呼べる生物しか居ないはずである。
「何が起こって居るんだ?」
 本来なら、状況を確認すべく行動に移るべきだ。仲間に無線で連絡を寄越し、武器を携帯して署長室の扉を叩く。サポート要員が到着した後で両サイドにそれぞれ人員を配置し、ドアを開いて部屋に突入。署長の安否を確認し保護するのと同時に、凶悪犯を取り押さえ拘留する。その動作は速ければ速いほど状況は寄り迅速に集結するだろう。だが男は動けなかった。頭では自分のやるべき事が判っているのに、身体が言う事を聞いてくれない。
「な……何が……」
 本能が危険を察知する。この扉は今、パンドラの箱の蓋になったのだと言う事を。
 口の中に溜まった唾をゆっくり飲み込むと、男は静かに席を立つ。目の前の扉を睨み付けたまま、手にした武器の感覚を確かめ扉に一歩ずつ近付くべく踏み出した足。
「此方ヒューストン。署長室で何か起こった模様。中の様子を確かめたい。何人か此方に寄越してくれ」
 無線機のボタンを押し送話口にそう呟けば、ノイズに混ざった聞き取りにくい声で無線機の向こうにいる相手が応答を返す。
『判った。二、三人人を送る。其奴等が来るまで待機だ。判ったな?』
「了解」
 防音のなされている壁は厚い。獣の咆哮以来、中の音は完全にシャットアウトされてしまっている為、様子が全く伝わってこない。
「署長は……無事なのか?」
 男は壁に背を預けると、静かに目を伏せゆっくりと息を吐いた。
 男が応援を要請して数十分。武器を携帯した同僚が数名、男の待機していた場所へと駆け寄ってくる。
「エド!」
「ああ、ゲイリー。こっちだ!」
 名を呼ばれた男は軽く手を挙げ同僚を呼んだ。
「状況は?」
「それが、さっぱり判らない」
 今し方自分が聞いた声のことを同僚達に説明し男は呻る。
「どう…思う?」
「……さぁ……俺には何とも」
 男が聞いた声を説明出来る人間は、この場所に誰一人として居なかった。廊下に沈黙がおり皆不思議そうに首を傾げる。
「兎に角、署長が無事かどうかを確認しないと」
 今は咆哮を上げたものが何であるかよりも先に優先すべき事が有る。そう主張した同僚の言葉に男は小さく頷き持っていた武器を構えた。
「それじゃあ……開けるぞ」
「ああ」
 緊張はより一層高まる。男の手がドアノブに触れる。ゆっくりと倒して扉を引こうとした時、再び耳障りな咆哮が響いた。
「ガァァァァァァッッッッッッ!!」
 今度は男だけではない。この場に居る全ての人間がその声に耳を押さえる。
「今の声は何だ!?」
 誰かがそう叫ぶ。
「俺が知るかよ!!」
 また誰かが叫んだ。
「こんなの、人の声って言えるのか!?」
 今度は別の人間が声を上げる。
「まるで化け物じゃねぇか!!」
 その言葉に、その場に居た人間は動きを止め互いに顔を見合わせた。
「……こんな事って……あるのかよ?」
 未だ閉ざされたパンドラは、向こう側から開く気配が無い。答えを知るためには矢張り、此方側から蓋を無理矢理こじ開けねばならないだろう。
「……どうする?」
 だが、誰もその役を進んで買って出ようとはしなかった。
「どうするも何も……」
 男と同じ様に、同僚達も本能的に感じているのらしい。この扉が開けてはいけないものだと言う事を。
「……俺はゴメンだ」
 だからこそ臆病風に吹かれてしまう。徐々に全員の足が扉から離れていく。
「だが、開けなければ署長が…」
 確かに上司の安否は気になる。だがそれを開けて向こう側にあるモノを対処出来るのかどうかはまた別問題なのだ。
「そんな事言ったって、お前は出来るのかよ!? 俺は恐い!! この扉の向こう側を見るのが恐いんだよ!!」
 狂った人間の上げる叫び声とはまた違ったそれは、地の底から響き、腹の中をぐちゃぐちゃに掻き回すような違和感を持っている。
「そんなに署長の事が気になるなら、お前が開けろよ!! ほら、バックアップはしてやるから!!」
 仲間割れをしている場合じゃ無いのはみんな判っていた。だが自分の身は大事なのだ。怖じ気づいたメンバーは扉から視線を逸らし一歩ずつその場所から離れていく。
「……肝っ玉小せぇなぁ、みんな」
「ビクター!?」
 そんな中、たった一人の男だけ呆れた様な表情を浮かべそう呟いた後、渇いた笑い声を上げ扉に一歩近付いた。

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あきゅろす。
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