[携帯モード] [URL送信]
06
 今までは一人で寝ていたベッドの上。今はライアンの腕に抱き込まれながらノアは小さく欠伸を零す。
「……いきなりで悪かったよ」
「ん?」
 ノアの事を宥めるようにゆっくり背中を叩きながら、ライアンが唐突に口を開いた。
「今日…仕事でミスをして相手に怪我をさせてしまったんだ」
「…けが?」
 若干震えているライアンの声に、そのミスが余り良い結果を生んだ訳ではないことを感じ取ったノアは、顔を上げてライアンの頬に触れる。
「…傷の具合がさ…あんまり良くなくて、ひょっとしたら命の危険があるかも知れなくてさ……でも、俺には何も出来なくて、謝ることしか出来なくて悔しくて…」
「それで、不安を感じていたんだな」
 のそりとベッドに座り直すと、今度はノアが宥めるようにライアンに口付けた。
「大丈夫。きっと状況は良い方向に向かうよ」
 それは只の気休めにしか過ぎない。そんな事は判っては居る。
「でも、悪いのは俺なんだよ?」
 自分を責めるようにそう言うライアンに、困った様な笑みを浮かべて小さく溜息。
「俺には何が起こったのか判らないから誰が悪いとは言い切れないよ。例えライアンが悪かったとしても、アンタはこうやって相手の痛みを受け入れようとしているだろう? 大丈夫。まだ何も結果は出ていないんだから」
 判ったような口を利くな。そう言われても仕方がないだろう。だが、そう言ってやることしか今のノアには出来ない。
「…ノアは優しいんだな」
 それがライアンのためになるとは思わなかった。それでもライアンが感じた不安が少しでも軽くなるならとノアは必死に言葉を探す。
「違うよ。俺は狡いだけ」
「いいや。そんなことはないよ。ノアは優しい……酷いくらいに…」
 腰に回されたライアンの腕。感じる不安に比例するように強くなる抱擁にノアが驚き目を見開く。
「……幸せになりたい…ノアと一緒に…」
「ライアン?」
 この人は一体何を言っているのだろう。唐突に言われた言葉の意図が分からず、狼狽えたノアにライアンが我に返り身体を離した。
「…すまん。忘れてくれ」
「…………わすれ………る…」
 多分その呟きはこの先ずっと忘れることは出来ないだろう。だが、そこで無理に嫌だと主張するとライアンが酷く傷付く様な気がして、ノアは自分の本音を押し殺し素直に頷く。
「ありがとう」
 その選択肢は間違ってなかったことが、ライアンが安心したように吐いた息から感じ取れる。
「…抱きしめたまま…寝ても…良いか?」
 シーツを被りノアの頭を自分の腕に乗せた状態でライアンは伺いを立てる。
「駄目って言う理由がないんだけど」
「そっか」
 了承を得られたと同時にノアの身体がライアンの腕の中に閉じ込められた。直ぐ近くで聞こえる心音。その規則正しいリズムが段々と微睡みを連れて来る。
「…こうして…誰かを抱きしめて寝るのはどれくらいだろう…」
 小さく呟かれた言葉。降りてきた眠気に意識が囚われた状態でノアは小さく動いた。
「暖かい…」
 その言葉を最後にライアンが寝息を立て始める。眠るタイミングを失ったノアは伏せた瞼の裏に広がる闇の中で暫し考えに耽った。
「……昔…恋人が居たんだ…ライアン…」
 誰かを抱きしめて眠る。その言葉に含まれる意味はきっとそんな事だろう。ライアンだってそれなりの歳である。実年齢は判らないが、多分自分と同じくらいなのだろう。肌を合わせた事で気付いたが、セックスの経験はあるようだった。確かに唐突ではあったが、ノアの身体を気遣う様に丁寧に扱われるその仕草は、女性の身体を相手にしているような雰囲気が漂って居たような気がする。
「……俺は一体、何人目なのかな? アンタにとって…」
 本当に些細な事ではある。でも、ライアンの過去の相手に覚えた軽い嫉妬。自分の知らないライアンが居るのは当然なのに、その手に入らない時間を共有した顔も知らない相手の事が羨ましいとも恨めしいとも思いノアは軽く唇を噛んだ。
「俺はね……アンタが初めてだよ、何もかも」
 普通の人と異なるせいで殆どが引き籠もり。必要最小限しか家を出ないため、女性経験も全くと言って良いほど無い。キスにしたって親や兄妹でやる親愛の証のものや、友人が巫山戯てくれた軽い冗談の頬にするキスしか経験したことはなく、こんな風に恋人がくれるそれの味をノアは知らない。
「キスも、セックスもライアンが初めてなんだ。そう言ったら信じてくれる?」
 遅れてやって来た気持ちの自覚。気が付いてしまうと途端に止まらず暴走が始まってしまった。ライアンの腕の中に確かに居るのに、今この場に居ないライアンの過去の相手のせいで言い様のない程強い寂しさに囚われてしまう。心臓が小さく軋み痛みを訴える。
「アンタが好きだ……女として抱かれても良い……だから、他の人を好きにならないでよ…」
 自分を一番に見て欲しい。そんな気持ちが強く出るのは、自分が負ったハンディから来る劣等感のせい。欲しい物が手に入ってしまった。そのせいで失うのが前以上に恐くて仕方無い。どうやったら自分を一番として捉えて貰えるのか方法が判らず、ノアは顔を覆い声を押し殺して涙を流す。
「アンタの傍に居たい……俺の事だけを見てよっ…ライアンっ…」
 多分面と向かって本人にこの言葉を言う事は出来ないだろう。言ってしまうことで捨てられる事の恐怖が強くなるのが恐いから。だからせめて今だけは、涙と共に湧いて出てくるこの感情を吐き出してしまいたかった。
「目が見える人間になりたかった…どうして……俺には視力が無いんだろう……視力さえあればライアンの事、もっと近くに感じる事が出来たのにっ…」
 隣で聞こえる安らかな寝息。その寝息が何を意味するのかに気付くことの出来ないノアの気持ちがライアンのそれと擦れ違っていく。互いに何も言わない関係。それは小さな歪みを確かに其処に生み出していた。

 再び戻ってきた日常。以前のように穏やかに時間は進む。
「ほら、出来たぞ」
 ただ、以前とは一つだけ異なる事が二人の間には有った。
「今日は紅茶?」
「そう」
 差し出されたマグカップを受けとりながら顔を上げれば、屈んだライアンに軽く唇を重ねられる。
「ごっそうさん」
 そう言ってノアが腰掛けたソファの隣に腰を沈めると、ライアンは持っていた自分のマグに口を付けた。
「本当にキスが好きなんだな」
 ライアンが触れた其処を軽く指でなぞった後、ノアも同じ様にマグカップの縁に口を付ける。
「勿論だ。だってノアとキス出来るんだぜ? これ以上幸せなことは無いだろう?」
 脇から伸びる手。それがノアの肩に掛かりそっと引き寄せられる身体。
「こうしてノアに触れられる事が俺の小さな幸せ。ノアはそう言ったら信じてくれる?」
 今度は額に軽くキス。くすぐったさに軽く身動ぐとしつこくもう一度其処にキスを落とされる。
「アンタは嘘吐きだからね。どうしようかな?」
「あっ、酷でぇ! 信じてくれないって顔してる!」
 一度肩から腕を外すと、持っていたカップをテーブルの上に置く。ノアの手に握られたカップも取り上げ自分のカップの隣に置くと、今度はノアの腕を引っ張り腕の中に閉じ込める。
「捕まえた!」
「ライアン!?」
羽織っていたブランケットが床に落ちる。ブランケットの暖かさは消えたが、今度はライアンから伝わる温もりがノアの事を包み込む。
「今、俺の腕の中には誰が居るでしょう?」
 楽しそうに弾む声。そっと耳元で出されたクイズの答えは一つしかない。
「さぁ? 誰だろう?」
「判ってる癖に」
 答えは分かっている。でも答えたくない。そんな風にノアが笑うと、少しだけ頬を膨らませてライアンが拗ねてみせた。
「俺の腕の中に居るのはお前だよ、ノア。俺は今、ノアの事を抱きしめて幸せを噛み締めてます」
「……言ってることが中々恥ずかしいね」
「別に良いよ。本当の事だもの」
 ライアンの言葉は何時だってストレート。飾り気が無い分本当に質が悪い。そんなんだからついつい勘違いしてしまいそうになりノアは時々表情を歪める。
「ノア?」
「ん。何でも無いよ」
 感じる不安を気付かれないように唇を重ねて甘えることで誤魔化す本当の心。もしかしたらライアンにばれているのかも知れなかったが、ライアンが特に何も言ってこない。
「ノアは俺の事好き?」
 あの日以来、暇があるとライアンは良くそんな質問をノアに投げかけた。
「好きだよ」
「どれくらい?」
 腕の中でノアの事を甘やかしながらライアンはそっと囁く。
「…分かんない。だって比べる対象が居ないもの」
「俺は世界で一番、お前の事を愛してるよ」
 その言葉は嘘だろうか。それとも本当なのだろうか。どちらを信じればよいのか本当の所判らない。
「ノアとずっと一緒に居たいな。こうしてずーっと……ノアとの時間を過ごしたい…」
 まるでそれは叶わない夢だ。そんな風に聞こえる呟き。
「一緒に居ればいいだろう?」
 離れていって欲しく無いからライアンにしがみつきそう小さく強請れば、余り芳しくない反応で「そうだな」と答えが返ってくる。これは何時だって一緒で変わる事がない。
「本当は…俺から離れたいって思ってるんだろ? ライアン」
 恐くて言えないそんな言葉。だから代わりに別の言葉をノアは呟きライアンに擦り寄る。
「俺は此処に居たい。ライアンの腕の中に」
 その願いは何時になったらライアンに届くのだろう。精一杯の甘えに少しだけ強くなる抱擁は、まだライアンが自分の事を見て居るのだと勘違いしても大丈夫だと言う事だろうか。

[*前へ][次へ#]

6/51ページ

[戻る]


あきゅろす。
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!