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02
「気にしなくても大丈夫ですよ」
 その事を感じ取ったのだろうか。ノアが困った様に表情を崩した。
「貴方の疑問は当然のことだと思います。俺も言われて嫌だと感じている訳では無いので、気を楽にして下さい」
「…すいません…」
 案内された椅子に腰掛け部屋の中に視線を巡らせると、飾り棚の上に置かれたフォトスタンドに視線が止まった。
「写真? 見ても?」
「構いません」
 了承を得て棚に近寄りフォトスタンドを持ち上げる。
「家族と住んでいたというのは本当なんだな」
 其処に収まっているのは幸せそうな家族の写真。切り取られた時間の中で幸せそうな人達がカメラに向かって笑顔を見せる。両サイドに両親と、真ん中に男の子が一人、女の子が一人。
「これが…ノアかな?」
 男の子よりも一回り小さな女の子は多分彼の妹なのだろう。
「家族…か…」
 その小さな絵の中にある時間が羨ましいとライアンは寂しそうに笑った。
「こんなもてなししか出来ずに申し訳無いんですが」
「あっ、いえ。構いませんよ」
 フォトスタンドを置いて席に戻ると良い香りを立ててカップの中で紅茶が揺れる。
「それじゃあ頂きます」
「ええ」
 最近は酒と水と栄養ドリンクしかまともに飲んでいなかったせいで、久しぶりに味わう紅茶の味の柔らかさに思わず緩む表情。
「駄目…でしたか?」
「いいえ。美味しいです」
 そう言えば、こうやって誰かとティータイムを過ごしたのは一体何時が最後だったのだろう。ふとそんな事を考えクスクスとライアンは笑う。
「楽しそうですね」
「ええ、判ります?」
 何時の間にか外されているサングラス。瞼を閉じたノアが穏やかな笑みを浮かべ此方に顔を向ける。瞼が開かれることがないのを少し寂しく感じながらも、ライアンは余りそのことに気を向けずに二口目の紅茶を口の中に含んだ。
「…こうやって、誰かを家に呼んだのは始めてかもしれません」
「え?」
 すっと持ち上がるティーカップ。それに口を付け喉を潤した後、ノアはほうっと息を吐き出す。
「この家には余り人が訪ねて来ないんです。俺がこんな風だから、遊びに来てくれる友人も滅多に居ません」
「…そう…なんですか…?」
 確かにこの空間には余り人の気配は無い。ただ静かな時間だけが流れている。それが随分と寂しいと感じるのは事実だ。
「それを寂しいと感じる事は無いんですか?」
 失礼だとは思いながらも気になり問い掛けた言葉。
「寂しいですよ。だからなるべく外に出歩くようにして中に居ることはしない様にしています」
 ハッキリと言われた寂しいという言葉。ノアは困った様に眉を下げた。
「ご友人を招いてパーティーでもしてみたら如何です?」
 そんな事出来るのならとっくにやっているだろう。何故それをしないのかが気になりライアンは問い掛ける。
「相手に気を遣わせてしまうでしょう? それが嫌なんです」
 成る程。それは一理あるだろう。そう納得して頷くと、ライアンは再び紅茶を口に含んだ。
「目が…見えれば良かったんですけどね…」
 ゆっくりと開かれる瞼。色の濁った瞳が一瞬だけライアンを捉えて顔を逸らされる。
「目が見えれば、俺も普通の人と同じ様に生活が出来た。もっと自由に動くことが出来たんでしょうね。この家だって、もう少し賑やかにしてあげる事だって可能だと思います。でも、俺にはそれが出来ない。悲しいけど、それが事実なんです」
 愁いを帯びた横顔が今にも泣き出してしまいそうで胸が痛む。机の上に戻されるカップが、机の表面に触れ小さな音を立てた。
「迷惑でしたよね? こんな話」
「いいえ。そんな事は有りません」
 だがその言葉を最後に会話は途切れる。少しの間の沈黙。気まずくなったライアンは腕に付けていた時計で時刻を確認する。
「……四時…か…」
「そろそろ帰りますか?」
「…ええ、申し訳無いのですが」
 長居しても何も出来ないことを悟り、ライアンは静かに席を立った。折角招いて貰ったのに碌な話も出来ずに立ち去るのは心苦しかったが、これ以上気の聞いた会話が出来るとも思えず唇を噛む。
「今日は楽しかったです。有り難う」
 玄関まで見送ったノアが去り際にそんな事を呟いた。思わず振り返ると寂しそうに笑う相手の表情が目に入る。
「俺がっ…」
「どうかしましたか?」
 閉ざされようとしていた扉に手を掛け思わず声を上げれば、ノアが驚いた表情を浮かべて固まる。
「貴方の友人として、また遊びに来ても良いですか? 此処に」
 断られても構わない。そう思いながら吐き出した言葉。するとノアは一瞬だけ嬉しそうに笑った後、困った様に眉を下げて呟く。
「迷惑ではないんですか?」
「迷惑なんてっ、そんな事無い!!」
 頼むから拒まないで欲しい。そんな願いを込めてそう訴えると、恥ずかしそうにノアは笑い小さく頷いて微笑んだ。
「貴方が迷惑でなければ、是非何時でもいらして下さい」
 交わされた小さな約束。閉ざされた扉が開かれることは無かったが、もう一度会えるかもしれない可能性にライアンは嬉しそうに表情を崩す。
「また、直ぐに会えるといいな」
 小さく芽生えた興味。偶然が起こした出会いで知り合った不思議な相手の事を思い出しながらライアンは歩き出した。

 閉ざされた扉の向こう側でノアは小さく息を吐く。
「…不思議な人だったな…」
 雰囲気は悪くない。性格も申し分ない。ただ、一つだけ気になることがある。
「少しだけゴミの匂いと…あれは…硝煙…かな…?」
 目が見えない分、他の感覚器が妙に鋭いノアにとって、日常的に嗅ぎなれない匂いには非常に敏感に反応を示してしまう。
「手の感じも、何か普通と違ってた」
 始めに名前を言う事を躊躇ったことにしても何かがおかしい。
「…どんな仕事をしている人なんだろう?」
 敢えて言葉にすることで今日出会った人間が自分とは違う世界に住んでいる人間で有ることを否定したいと願う。
「本当に…」
 閉められた扉を後ろ手に撫でるとノアはそっと瞼を伏せた。
「本当に俺に会いに来てくれますか? ライアン…」

 少しだけ遅い起床時間。ノアにしては珍しく寝坊したその日に、何故か朝からインターフォンの音が鳴り響く。
「……え?」
 滅多に来客の来ない家に一体誰が来たのだろう? 不思議に思いながらベッドから抜け出すと、杖を片手に階段を下りる。もう一度インターフォンを鳴らされたところで漸く扉を開けたノアが驚きで声を上げた。
「お早う御座います!」
「……ライアン……さ…ん?」
 聞き覚えのある声と数日前に嗅いだ事のある記憶に新しい香り。薄れてはいるが僅かに硝煙の匂いも混ざっているから本人に間違いは無いだろう。
「な…んで…?」
「遊びに来ても良いって言われたんで、早速遊びに来ました。今日、丁度仕事が休みだったんで」
 彼は一体どんな表情をしているのだろう? だが、声が弾んでいることから機嫌が良いことだけは判る。
「…えっと……」
「お休み中でしたか?」
 半トーン下がった声。どうやらタイミングが悪かったことを気にかけてくれているようだ。
「いいえ。今起きたところです」
 それに対してノアが面白そうに笑う。
「着替えてくるので、上がって下さい」
「じゃ、じゃあ、失礼します」

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