書いたもの/稲妻

ただ 還らぬ日々を想え*


敗北というものを知らなかった俺に、初めて「劣等感」という感情を教えたのは、紛れもなく名前だった。

最初に遭遇した時には、訳がわからない奴だと思った。二度目に出逢ったときには驚異を感じた。三度目でやっと互いが「同期生」という生ぬるい関係性で結ばれたが、それによって俺はますます分からなくなった。

お前という、人間が。


俺が要らないと思ってとうの昔に切り棄てたものを、お前は後生大事に抱え込んでいた。その癖、俺がどれだけ求めても得難かった沢山のことを、お前はさも当然のようにその手の内に収めていた。


けれどお前は決してそれをひけらかさず、増してや声高に誇ることもしなかった。まるで自分が影の存在であるように振る舞い続け、何かにつけて他者を評価した。それが、お前に比べたら取るに足らないような輩であっても。

気に喰わなかった。


(お疲れ様。やっぱり本気出したバダップには勝てないや…)

忘れもしない。野外訓練で、お前は全体2位のスコアで全過程を終え、一足先にゴール地点に辿り着いていた俺の背中に向かって はにかんだ笑顔でこう言ったのだ。

俺は知っていた。お前が、捻挫した右脚を庇いながら今日の訓練に参加していたということを。

それを聞いた瞬間、今まで素手で触られたことすらなかった自尊心に わずかな亀裂を入れられた気がした。名前が、そんな意図で言ったわけでは無いというのは、疑うことに慣れすぎたこの頭でさえすぐに判った。判っていたが。

しかし沸き上がったこの卑しい感情は何だ。何故お前が俺にそれを言う。負傷しているお前に勝ったところで、その結果には意味など欠片も無い。俺は、知りたくもなかった己の矮小さに愕然とした。


俺に嫉妬という感情を抱かせたのは 後にも先にもお前一人だ。そういえば 70年前の世界で出逢った円堂守も、お前とよく似た眼をしていた。








取り返しの付かない事態はいつでも、何の前触れもなく起こるものだ。

目の前に落ちたもの。それが何かを察知したのは、恐らく同時だった。だが飛び出したのは名前の方が僅かに早く、しかもその細い腕は、渾身の力を以て俺の身体を突き飛ばして そして


(お前…死ぬつもりか―…!)

体勢を崩しながらも、視界の端で捉えたその背中。やめろ そんなことをしたら 無事で済むわけが…―

耳をつんざく爆音と共に俺は、たった今この瞬間まで名前の一部だったものがその胴体から離れ、千切れ、肉片となって壁に 床に叩きつけられるのを、見た。びちゃりと音をたてて粘度の高い血の飛沫が飛散し、視界を覆った。

俺の中の、理性と名の付くものがことごとく砕け散った瞬間だった。

もう何も考えられなかった。銃を握った自分の脳裏にあったのは、恐怖でも憎悪でも使命感でも苦痛でも絶望でもない、ただ生々しく研ぎ澄まされた獣の殺意だけだった。

あの時お前の掠れた叫びが耳に届かなかったら。俺は奴を蜂の巣にし、その頭が原形を留めなくなるまで 引き金を引く手を止められなかったに違いない。


無力な俺の腕は、目の前で溢れ出す命の速度を緩めることすら叶わず、名前の呼吸は少しずつ弱まっていく。

血は、こんなにも熱いものなのか。生命とはこんなにも脆いものなのか。名前、これがお前の望む「終わり」か?

そんな訳がない、ふざけるな

「お前はこんなところで終わるような器じゃない…―!!」

冷えていく身体が恐ろしかった。お前が此処で死んでいくという現実が恐ろしくて堪らなかった。あの時の暗闇に突き落とされていくような感覚を、俺は一生忘れることが出来ないだろう。






(傍にいても…いいの)
俺の言葉に、名前は泣いていた。その涙の意味を俺はどのように受け止めるべきだったのか。

鎮痛剤と睡眠導入剤を投与され、名前は今、静かに呼吸をしていた。ベッドの外に出ていた右手を握る。心臓の音 血液がその身体を巡る音。確かな鼓動が、自分の手にも伝わってくる。

もうこれ以上、傷付けない



守ってみせる。今度は、俺が。

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