書いたもの/稲妻
5.



知っている。



この感情の名前を俺は確かに知っている。

羨望と背中合わせの失望。苦い嫉妬と自己嫌悪。

自分が、眼前にはためく「赤色」の影を執拗に追っていたように、名字は形の無い不安の影に迫られ、必死で走っていたのだ。

『気付いたらね、サッカーは楽しいものだってことさえ、忘れかけてた。』

鏡見るのとか、怖かったよ。だって、みんなはだんだん、男の人の体になってくのに、私の体はその逆をたどろうとする。

自分の意思も、なにもかもお構い無しに、胸が膨らんで、声が高くなって、凹凸のある身体が造り上げられていく。


キモチワルイ、って思った。大人になるってことがこんなに怖いなんて、知らなかった。


堪えきれなくなったように彼女は俺の肩に額を付けて、小さく息を継いだ。そして呟いた。

『私が男の子だったら、もっと皆と一緒にいられたかな。』

一瞬言葉に詰まって、胸の奥が、ぎゅっと絞まるように苦しくなる。次の瞬間、名字の目からこぼれ落ちた最後の一滴が、自分の手の甲ではじけるのを感じた。

『どっちに生まれるかなんて選べないんだもんね、仕方ないよね。』

彼女はまた、自分に言い聞かせるように笑った。この状況で「もっと頑張れ」だの抜かす奴がいたら馬鹿野郎だな、と思った。

名字はサッカーのために、今までの生きてきた時間の多くを費やしてきた。
しかしその道程を今、諦めようとしている。

サッカーは、過酷なスポーツだ。数年前、女性プロ野球選手がメディアにもてはやされたこともあった。

だが、サッカーは、運動量や総じて身体に掛かる負担も段違いになる。性別の差を越えてプレーを続けていこうとするのは、本当に困難なことだ。

根本的に土俵が違うのだ、と、大抵の女子選手は、中学に上がる前に袂を分かつ。
つまり女子チームに転身する。

もしくは、サッカーそのものから離れていく。

進学しても男子に混ざってプレーしている名字のような例は稀だ。しかも彼女の場合は第一線で今も戦っているのだから、むしろ快挙と呼ぶべきかもしれない。

けれど、ゆくゆくは…。



その選択が彼女にとってどれだけ重く、辛いことだったのか。今日に辿り着くまで、どれだけの時間を要したのかは、想像に難くない。


この決断に至るまでの一日一日、名字は祈るような思いで練習を続けてきたのだろう。眠れない夜を一人で越えてきたのだろう。


限界まで。

ハンデがある状況でも尚、自分の能力がどこまで通用するのか試したい、行けるところまで行ってみたいという気持ちは、勿論あるに違いない。

その気持ちこそが今まで彼女を駆り立て、悩ませてきたんだろう。

しかし、今まで積み上げてきたものへのプライドと、常に高いレベルのプレーによってチームへの責任を全うしようとする名字の強い意志が、そうさせることを許さなかった。


彼女がサッカーを始めたのは4歳の時からだという。それからの10年間を俺は見てきたわけではない。でも何故か、知っているような気がしていた。

彼女のたどってきた日々のこと。その日々が彼女に与えたものを。

俺と彼女の二人が、同じフィールドで戦った日々は、彼女の10年間の中ではほんの僅かな時間だ。


それでも少なくとも。


俺は名字の努力する姿を知っている。彼女がとても優秀なプレイヤーだということも、最高のチームメイトだということも。一人の人間としてかけがえのない存在だということも知っている。



…言わなくてはならないことがある。


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あきゅろす。
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