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今日のかて

聖書の言葉は生きていてそれだけでいのちを与え、人生を祝福されたものへと建て上げていくのに、最も力を持つものです。
今日のかてをぜひご活用ください。御言葉があなたを導く光になることをお祈りいたします。
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2012-04-26(木)
今日のかて 創世記 26:12-25

イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」
彼はそこからベエル・シェバに上った。
主はその夜、彼に現われて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」
イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。
旧約聖書 創世記 26:22-25
(全文長いため略しました。創世記 26:12-25全体は聖書からご参照ください。)

イサクは穴を掘り続けました。
彼は、主が彼を祝福されるのを、周りの者に嫉まれて、自らの住む地を追われました。
父から受け継いだ土地、そしてそこにあった井戸を塞がれ、出て行ってくれと言われたのです。
迫害されても、人々から奪われても、彼は淡々と井戸を掘り続けました。
何度人々から退けられても決して逆らわず、争わずにただ淡々と、幾度も埋められてしまっていた父の井戸を再び掘っては奪われ、埋められ、その地を追われ、それでも井戸を掘り続け、やがては新たに井戸を掘り、ただひたすらにそれを繰り返して掘り続けたのです。自らの住む場所を得るために。(12-21節)
イスラエルの地においては水のないことは死活問題ですから、井戸を奪われることは私達が思うよりも深刻な問題なのに、彼は争い奪い取り返すことより、井戸を掘り続けました。
まるで何か見えない使命があるかのように。
しかし、その井戸を掘り続けたことは、意図を越えて気がつけば、新しい地を広げ得たということとなったのです。
父から受け継いだ地を、さらに広げ得たということが、いかに主の目には大きなことであったのでしょうか。
だからこそ、イサクは父から受け継いだ信仰と、その祝福を今やイサク自身のものとして、受け取ったのです。
主はこの時直接イサクに現れ、語られたのです。そしてイサクはこの時初めて自らの手で祭壇を建て主に礼拝をささげました。(22-25節)
彼はこのようにして、信仰を勝ち得、また主からの約束を勝ち得たのです。
一見するとこれは消極的な戦いに見えるかも知れません。確かに聖書にあるイスラエルの歩みの中には、新しい地を信仰により戦争をし、戦い取る姿が随所に描かれいます。そこからするなら、これは戦いを避けたゆえに、結果広げ得た地に見えるでしょうか。
いえいえ、このイサクの戦いは目に見える戦いではなく、まさに目に見えない霊的な(信仰の)戦いだったのです。
なぜなら、井戸こそ、命の泉。イエスキリストはご自身をそのような者として私達に語られているのですから。

《ヨハネの福音書 4:14》
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

その命の泉を掘り続けたイサクの姿は、まだ見ぬイエスキリストを信仰の目により、はるか未来に現れる救い主を仰ぎ見て、探し続ける姿ということができます。そして彼はそのことにより新しい地を得たのであり、神に直接お会いすることができたのです。その時神から語られた言葉は井戸を掘り続ける前の約束の言葉(創世記26:2-5)と変わりなく聞こえますが、彼には自らへの確かな約束として受け取れたでしょう。なぜならその信仰を自分のものとして確かに受け取ったからこそ、自ら祭壇を建て主に礼拝をささげる礼拝者となったのですから。
やがてさらに、ここで得た約束が元となり、後にイスラエルの民は新しい地を実際に戦い取ることとなるのです。つまり、イサクはイスラエル全体の勝利をここで一人静かに勝ち取ったとさえ言えるのです。
神の祝福と約束の中を歩む信仰者の歩みは、全く何もない平坦な道とは限りません。誰でも信仰における戦いはあるでしょう。
そしてその戦い方は一通りではありません。
主は何をあなたに勝ち得てほしいと願い、何をすることを望んでおられるのでしょうか。
それはあなたが問題や壁に行き当たる時、あなた自身が神に聞くしかありません。
しかし、一つだけ言えることは全てのことに神のご計画があり、あなたにとって必ず意味がある。主のみおもいが全てにあるということです。

《詩篇 139:16,17》
あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。
神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。

そこを歩むとき私達は見えない道程を、主に確かに導かれて、見えているかのように歩むことができるのです。主の導きの御手はどこへ向かって伸べられているでしょうか。共に祈りましょう。


愛する主よ。私達の日々の歩みは確かに目には見えず、不確かに見えるかも知れません。ましてや目の前に壁や問題が立ちはだかるならそれは尚更です。しかし、私達が見るのはその目の前にある現実ではなく、主よ、あなたの御心です。あなたの溢れる私に向けられている御心をどうかお語りください。何を望まれ、何を与え、どこに導こうとされているのでしょうか。見えないからこそ不安に怯えるのではなく。どうかあなたを信じ、真っ直ぐにあなただけを見て、ただ一筋に歩むための信仰を私達にお与えください。ただあなが私を愛してくださるがゆえに、ただあなたを愛するがゆえに。
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