雪夏塚〜セツゲツカ 姫崎綾華編_第六話 変化(その5)
翌日。
ドスッと言う鈍い音が廊下で響き、槙人は自室から顔を覗かせた。
「・・・綾華っ!」
廊下に綾華が倒れていた。
「お・・・お兄ちゃん」
駆け寄って抱き起こすと、蒼ざめた顔で綾華は弱々しく笑った。
「・・・よっと」
すっと抱き上げ、槙人は部屋に運んだ。意識はあるので、慌てることはなかった。
「ゴメン、ね?」
ベッドに寝かせると、綾香の表情は少しやわらいだ。
「もう慣れた」
「慣れちゃ・・・まずいよね」
綾華の面倒を見るのは、この数日で何もするようになってしまっていた。
「ふう−・・・」
いつも通り、綾華の椅子に腰をかけてから槙人は深い溜め息をついた。
「どうしたの?」
綾華が寝たまま尋ねる。
「いや・・・何もできなくて、情けないと思ってさ・・・」
槙人は苦笑いした。
既に分かっているとはいえ、手も足も出ないこの状況は、生殺しに近かった。
綾華のためにできることがあるなら、身をなげうってでもしてやりたかった。
「・・・仕方ないよ」
天井に目線を動かして綾華は言う。
「それは・・・そうなんだが」
「私はね」
綾華が続ける。
「確かに苦しいけどでも嬉しいの。前よりもはっきりお兄ちゃんの優しさが伝わってくる
から・・・」
そしてにっこりと笑って見せた。
「そう言ってくれると嬉しいけど・・・」
それでもそれは気休めでしかない。綾華の以上に対して、根本的に何かしている訳ではないのだ。
「ねえお兄ちゃん」
「ん?」
「二重人格って・・信じる?」
「二重人格?」
「あの・・・夢遊病・・・のこと」
「・・・そうなのか?」
「ううん。そう思っただけ。そうも考えられるかなって」
槙人は腕組みをした。
分からないでもない。綾華の記憶が突然切れたのが、人格の入れ替わりだとするなら、説明は可能だ。そしてその正体が銀色の右眼だとすれば。
「・・・事例があるから否定はしないが・・・。お前にあるとは思わないな」
例え、事実で存在していたとしても、槙人はそう信じたかった。
「そうだよね・・・」
自分で言ったことにくすくすと綾華は笑う。
「でもね・・・。自分の記憶がないって、本当に怖いの。その時自分は何してたのかって・・・」
二重人格の有無に拘わらず、その時は本当に、自分以外の誰かが自分を動かしていたから。
「そっか・・・」
槙人は綾華の頬を撫でた。
と、綾華がその手を取り、人差し指を咥える。
「あ、綾華!?」
驚いて、反射的に槙人は手を引っ込めた。
「えへへ、もう一回温めて欲しいな、お兄ちゃん」
頬を染めて綾華は突然にとんでもないことを口にする。
その言葉を一瞬で理解した槙人は、思わず赤面した。
「お、お前!こんな時に・・・!」
「こんな時だから・・・」
槙人の言葉を綾華が遮る。
「不安で仕方がないから、今お兄ちゃんを感じたいの。もしかしたら、明日にも・・・そんな事もできなくなってしまうから」
一人は言え。目がそう言っていた。
「・・・バカ」
それだけ言って、槙人は綾華にキスをする。
槙人も同じ気持ちだった。もし、もう何もできなくなってしまうなら、今、できる限り綾華を愛しておきたかった。
槙人はベッドにもぐり込んだ。
見えない迷宮の、いつか辿り着ける出口を信じて。
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