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76-1 ELSENA 第2話「水辺の再会」(その1)
 ディーンがエルセナと暮らし始めてから1週間が経った。
 ブラックアウト事件の処理も終わり、通常の仕事に戻ることができたディーンは、普段より浮かれて家に帰ってきた。

「ただいまー……うっ!」

 しかしそのテンションは、ドアを開けた瞬間に飛び出してきた臭いと共に吹き飛んだ。魔女の大釜のような悪辣な臭い。
 ディーンは一度大きく息を吸い込むと、猛烈な勢いで家の中に駆け込んだ。そして、迷うことなく臭いの根源へと走る。
 案の定キッチンだっだ。火にかけられた鍋から黒い煙が出ている。ディーンは火を止め、換気をすると、鍋を水に浸けた。ジュワジュワ言う鍋の中身は、炭を通り越して灰になっていた。

「エルセナ!ちょっと!」

 水を止めると、ディーンはエルセナを呼んだ。
 この1週間、ディーンはエルセナにいくつか料理を教えていた。その成果あってエルセナも、不思議な化学反応を起こすことなく食べられる物を作れていたのだが、それでもミスはするらしい。もう一度教え直そうとディーンは思った。

「……エルセナ?」

 しかし、普段ならディーンが帰ってくればすぐ出迎えるはずのエルセナだったが、今日は返事もしない。火を消し忘れて出かけたのだろうか。ディーンはダイニングを覗いた。
 エルセナはそこにいた。床に、倒れ伏して。

「エルセナ!」

 慌ててディーンはエルセナに駆け寄った。エルセナを抱きかかえてもう一度名前を呼ぶ。

「はあ……はあ…………」

 エルセナは苦しそうに息をしていた。額から脂汗が流れる。

「エルセナっ!エルセナ!どうしたの!?」
「…………ディーン……あたま……いたい…………!」

 ゼイゼイ息をしながら、途切れ途切れの言葉で症状を訴える。ディーンはエルセナをベッドに寝かせると、すぐに鎮痛剤を取り出した。コップに水を満たして、エルセナの元に戻る。

「エルセナ!ほら薬!」

 エルセナは何とか薬とコップを受け取ると、ゆっくりとそれを飲み下した。しばらく待っていると、エルセナの顔はやわらいだ。ディーンはほっと息をついた。それからキッチンの片づけをするにした。
 鍋についた焦げをこすり落としながら、ディーンは、エルセナは出会った時にも頭痛で苦しんでいたのを思い出した。
(何かの病気なのかな。もしかしたら、エルセナの記憶喪失と何か関係があるんじゃ……)
 いずれ病院に連れて行こう。そう考えながら、ディーンはキッチンを整理した。
 寝室に戻ると、エルセナは起き上がってベッドに腰掛けていた。

「あ、起きた?エルセナ」
「うん」

 力なく笑って、エルセナは頷く。

「ゴメンね。ご飯作ってたら、急に頭痛くなって、立ってられなくて……」
「いや、いいよ。でも周期的にくるかもしれないから、鎮痛剤は渡しておくよ。1回2錠ね」
「うん。ありがとディーン」

 エルセナは鎮痛剤の入った袋を受け取った。ディーンは頷くと、腰を上げた。

「それじゃあ腹ごしらえに何か作るか」
「あ、手伝う……」
「いや、エルセナは寝てて。病気かどうかは分からないけど、念のため」
「うん……」

 起き上がろうとするエルセナを、ディーンは制する。少し残念そうに、しかし素直にエルセナは布団をかぶった。
 ディーンはキッチンに入った。さほど空腹ではないし、エルセナの容態も考えて、サラダとスープだけにした。二人分用意して、もう一度寝室に戻る。

「はい、エルセナ」
「うん」

 小さな口で、熱いスープを吹く。サラダには、かけすぎと思えるくらいたっぷりとドレッシングをかけて食べる。それがエルセナの食べ方だった。
(こうして見てると、いつもと変わらないんだけどな)
 自分のスープに口をつけて、ディーンはそう思った。
 エルセナは、普段は病気の気配など微塵も感じさせない。本人に自覚がないのか、病気が初期のものであればそういうこともあるのだろうが、それにしては苦しみすぎな気がする。いずれにしろ、ただの頭痛ではないのだろうとディーンは推測した。
 軽い夕食を終え、食器を片づけた後、ディーンはエルセナに、どこか行きたい所はないかと尋ねた。

「行きたいとこ?何で?」
「休暇が取れたんだ。明日から2週間。それで、折角だからどこか行こうと思ってさ。どうする?」
「んー……別に。ディーンといられればいいよ」

 少し考え込んでいたエルセナは、そう答えた。その言葉を聞いて、ディーンは苦笑する。

「ああ、そっか。普段僕家にいないからね。ごめんね、エルセナ」

 エルセナは、ふるふると首を横に振る。

「ううん、そんなことない。……あ、そうだ。ディーン、私、泳ぎたい!」
「泳ぐ?」

 エルセナの突飛な希望に、ディーンは首を傾げた。

「うん。さっきテレビ見てたら、リゾートの特集やってたの。たくさん人が泳いでて。それで私も泳ぎたいなーって」

 エルセナは目をきらきらさせて説明する。ディーンは頷いた。

「そっか。じゃあそうしよう。でも管理センターから緊急呼び出しがかかるかもしれない。この間の停電以来、態勢が厳しくなってね。だから『エルセナ』の外には出られないけど、それでもいい?」

 そう言ってディーンは、『エルセナ』内にもレジャー施設があることを教えた。エルセナは快く頷いた。

「じゃあそれで。エルセナ、水着持ってないから買わないとね」
「うん。ありがとう、ディーン」

 楽しみー、とエルセナは布団をかけ直した。
 ディーンは椅子から立ち上がると、どのレジャー施設に行くか決めるために、ダイニングにあるコンピュータの電源を入れに行った。


「うっわあー!!」

 地平の先まで続くかのような広大なプールを一目見て、エルセナは歓声をあげた。

「すごーい!でっかーい!!」

 更衣室を一歩出た所で、エルセナは嬉しそうに周囲を見回す。
 ディーンとエルセナが来たのは、『エルセナ』内のレジャー施設でも最大の『リゾートパーク』だった。エルセナの希望を元に、プールの種類が最も多い施設を選んだ結果だった。

「あ、ディーン」

 隣の男性更衣室からディーンが出てきたのを見て、エルセナは駆け寄った。

「エルセナ。もう出てたんだ」
「うん。広いねー。もー、ワクワクだよー」

 エルセナは再度プール群を見て言う。ディーンは、水着に着替えたエルセナを改めて見てみた。
 その水着は、小柄なエルセナにはあまりにフィットしすぎていた。
 胸の部位にフリルのついた、ワンピース型の水着。身体の起伏がほとんど無い、いわゆる幼児体型なエルセナには、その子供っぽい水着は似合いすぎだった。しかし、そこから伸びる手足は白くて綺麗だった。室内の環境を夏に設定してあるため、擬似的なものでしかないが、それでもそのきめ細やかな肌は日差しを反射して眩しい。普段は肌の露出が少ない民族衣装のような服を2着着回すだけのエルセナなので、その姿は新鮮だった。

「それじゃ、早速行こうか」

 だが、いつまでもジロジロ見ているのも何なので、ディーンは歩き出した。

「うんっ」

 エルセナは勢いよく頷いて、後について行く。
 ディーンは適当な日陰に場所をとると、目の前の巨大プールに立ち向かうエルセナの後を追った。

「うわぁーい!!」

 エルセナは幅跳びの姿勢で飛び込む。どぼんと大きな音を立ててエルセナは水中に沈み、そして水面に現れた。人が少ないので、そんなことをしても差し支えなかった。ディーンはエルセナに続かず、ゆっくりと水に入った。

「いきなり飛び込むと足がつるよ、エルセナ」
「ディーン!一緒に泳ごー!」

 ディーンの忠告も聞かず、エルセナは大はしゃぎしている。よほど楽しいのだろう。仕方なく、ディーンはエルセナの元に泳いで行った。

「気持ちいー!」

 エルセナは、派手な水飛沫をあげて泳ぎ出した。

「…………うわっ!エルセナ!?」

 しかし、ものの2秒と保たずに、エルセナは水底に沈んでしまった。ぽこぽこと現れる泡だけが水面にあった。喜ぶエルセナを微笑ましく見ていたディーンは、慌ててエルセナを引き上げた。

「けほっけほっ。う〜。鼻に水入った〜」

 鼻を押さえながら、涙目になってエルセナは言う。

「ひょっとして、泳げないの?エルセナ」
「……分かんない。そうかもしれない。泳いだことないから」
「そう……じゃあ仕方ないな。浮き輪買ってくるから、ちょっと待ってて」

 そう言い残すと、水からあがり、ディーンは浮き輪を買いに行った。夏をイメージしたイラストの入った、大きめの浮き輪を買って戻る。それをエルセナに投げてよこした。

「わっ。面白い面白い!」

 浮き輪を受け取ったエルセナは、それで遊び始めた。身体に通して泳ぐ。

「わーい!泳げる泳げるー!」
「……全然進んでないけどね」

 凄まじいバタ足を披露しているにも拘わらず、エルセナはちっとも前に進まない。これで泳いでいると言えるのだろうか。本人は大満足のようだが。
(それに浮き輪使ってたんじゃ、泳げるとは言わないよな)
 それでも、楽しんでいるエルセナが可愛くて、ディーンも一緒に遊ぶことにした。

 昼頃。14種類あるプールの内5つまでエルセナは制したが、流石に泳ぎ疲れたようだ。休息も兼ね、プールサイドのカフェで昼食をとる。

「泳ぐって楽しいね、ディーン」

 相変わらず、野菜の色が分からなくなるくらいのドレッシングをかけたサラダを頬張り、エルセナが話しかける。

「そうだね。休暇が終わっても、暇があったらまた来ようか」
「うんっ」

 それから、他愛のない話を続ける。ディーンの仕事、今では笑い話でしかない過去の失敗。家にいるときのエルセナの日常、一度バスに乗ったら帰れなくなりそうになったこと。
 そんな、どうでもいいような話が、すごく楽しい。ディーンは心からそう思った。たった1週間しか暮らしていなくても、それは「他人」とは違うからだろう。親密であるから、楽しくなれる。
 和やかな一時。それをエルセナと過ごせることが、ディーンは嬉しかった。唐突に現れた唐突な少女を、ディーンは受け入れていた。


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