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It's My Last Word




 ――ざぁん


 ――ちゃぽ、ん


 霧のかかった河のほとり。白い丸石が敷き詰められた川原で、鈴仙はぼんやりと突っ立っていた。
 静かだった。河の水が岸辺に打ち当てられる音だけが響く。その大きな耳を澄ましても、水音以外に何も聞こえない。河の水はゆるゆると流れ、時たまうねりを見せるだけの白い平面だった。

「何ぼけっとしてんだい? 次はあんたの番だよ」

 不意に静寂を破る声。ふと顔をそちらに向ければ、小船から降り立つ少女が見えた。よく通る声で、鈴仙に話しかける。

「そろそろ終いにしたいんだ。ほら、さっさと来な」

 霧がかかっているからだろうか、少女の声は分かるものの、顔が見えにくい。会話ができる距離にいるというのに、鈴仙の目は少女の表情を認識できなかった。


 ――ああ、そうか。


 けれど、聞き覚えのあるその声を聞いて、鈴仙は全てを理解した。
 ここがどこで、自分が誰で、何をしていて、何をするのか。
「私は……」









 体がだるい。手を動かそうにも、まるで神経がぶつ切りになってしまっているかのように、自分の意思をうまく四肢に伝えることができなかった。目は天井を見ることしかできず、首から下は布団にのしかかられたままろくに抵抗することもできない。もどかしさにため息をついて、鈴仙は中空を見つめた。
 生まれ落ちて幾百年。外見こそ昔と変わらないが、その内側は果てしなく老いていた。
肌や髪もいくらかがさついてはいるが、しかし過去の姿と現在を見比べても、鈴仙を鈴仙と認識できない者は誰一人としていないだろう。でも、筋肉は自重を支えたがらないほどに衰え、内臓も食物を多量に摂取することを常時拒否していた。かつて手にしていた膨大な魔力は体力の衰退と共にしぼみ、今や昔日の自分の面影といえ、ば紅く紅く灯り続ける
その魔眼だけだった。狂視の力だけは健在で、恐らく数十匹程度の兎なら負けはしないだろう。無論、そんなことをする気はないが。
 すう、すう、と自分の呼吸がこだまする。静寂を具現化した永遠亭において、そんなかすかな音を聞き逃すことも許されないのは日常的なことだった。

「……はぁ」

 ひと際大きく息を吸って、鈴仙はため息を吐く。たとえ体が寿命で朽ちる寸前にいようと、思考は変わらずクリアであった。演算能力は確かだし、年寄り臭い反応をすることもない。
 だから余計に、「死」が迫っているのがはっきりと理解できた。

 鈴仙には分かっていた。自分がそろそろ死ぬことが。

 今日なのか、明日なのか、それは分からないが、近いうちに死ぬだろうと。自分の人生に終止符が打たれようとしていると。
 もう長くないことは自分でも分かるし、永琳もはっきりと宣言してくれた。おかげで、覚悟はついている。死ぬことも、地獄に落ちることも。
 考えることなどない。泣いても笑っても終わるものは終わるのだから。生きているものには、等しく訪れるものなのだから。


「ウドンゲ、入るわよ」

 鈴仙がぼうっとしていると、襖が開いた。そして、その等しく訪れるはずのものが訪れない人が入ってきた。

「師匠……」
「気分はどう?」

 永琳は手に持っていた盆を傍らに置くと、鈴仙の枕元に座った。
 
「そうですね……まあ、そろそろかな、と」
「そう……」

 鈴仙は軽く苦笑してそう答えた。もはや感覚すら途切れ途切れである。肉体が何もできないことを示唆していた。永琳に聞けば、生き物は死ぬ寸前に首から下の神経が得る感覚を全てシャットアウトしてしまうそうだ。そうすることで、体の苦痛を全て忘れるのではないかという。
 死ぬことは、苦しくもなんともないことなのだそうだ。
 
「大丈夫、怖くないです」
「……ん」

 永琳は鈴仙の頭を撫でた。しばらく洗っていない髪がばらばらと額からこぼれる。
 
「ウドンゲ」
「はい?」

 しばし鈴仙の頭を撫でていた永琳は、表情を引き締めて鈴仙を見つめた。最近はみな鈴仙を気遣って優しくしていたので、そんな顔を見るのは久しぶりだった。それゆえに鈴仙は少し驚いた。

「…… もうすぐ死ぬのなら、今決めてもらうわ」
「え、何をです?」
「これよ」

 永琳は鈴仙の頭から手を離すと、盆の上にあった小瓶を持ち上げた。それを鈴仙の目の前に持ってくる。

「これは……?」
「蓬莱の薬」

 瞬間、鈴仙の体が強張る。たった八文字の名詞が持つその意味を瞬時に理解したからだ
った。

「えっ……?」

「死ぬのは怖くないなんて言うけれど、私は知っているわ。貴方が……誰よりも生に執着していることを」

 永琳は冷ややかな眼差しで鈴仙を見た。それは全てを見透かすような視線で。
 
「それに……姫以外に心を許したのは、貴方だけ。できることなら、逝かないでほしいの。
……勝手な話だけどね」

 しかしそれはすぐに和らぎ、永琳は泣き笑いのような表情になった。悲しむような、嘲笑うような、見たことのない顔。長く生きてきたが、永琳のそんな表情を見るのは初めてだった。
 それはきっと、彼女の本心。だから、今一度禁忌とされた薬を作った。弾幕としてそれを具現化したことはあったけれど、自分に対して使って以降薬そのものは一度も作っていないはずだ。それは何も月の禁忌だからではなく、使う相手がいなかったか、或いはそれの持つ意味を身をもって知っているからだろう。だからこそ、月ではなく己の禁忌として封印していた。
 今再び、彼女はその禁忌を解いている。数百年の時を共に過ごした弟子に、その薬を渡そうとしている。
 そう、たかだか数百年だ。鈴仙は、自分が師匠からその禁薬を授かるには値しないと思っていた。それにたとえその資格があろうとも、永琳が作るはずがないと思っていたのだ。
たかが数百年、それは永遠を生きる彼女には何も影響を与えることはないと思っていた。
 なのに、それはここにある。永遠をもう一つ生み出すために、永琳は蓬莱の薬を作り出したのだ。

「師匠……」

 どうしていいか分からずに、鈴仙は永琳を見る。しかし永琳は目を伏せていた。恐らく、鈴仙からの答えを待っているのだろう。

「あの……仮に飲んだとしても、この体じゃ……」
「それは大丈夫よ、改良してあるから。飲んだ時点から数百年ほど肉体年齢が若返るはずだわ」

 用意のいいことだ。もちろんそれができなければ、飲ませたところで苦痛以外の何物でもないわけなのだが。
 つまり、条件は整っている。鈴仙がこれからも生きる条件は整っているのだ。
 多くの、否、全ての兎たちとは別れを告げなければならない。しかしそれと引き換えにして、永遠に生きる人たちと永遠に過ごせる。永遠に、生きられる。

「あ……う……」

 その小さな小瓶の中に、それがあった。ここへきて永琳が冗談を言うはずもないだろう。
それは正真正銘不死の妙薬だ。

「……か、考えさせてください」

 薬を手に取ろうとして、鈴仙は布団の中でもぞもぞと動いた。緩慢な動作で腕を出し、小瓶に触れる。しかし触った瞬間に何かが自分を押しとどめていた。
 早まることはない。もうすぐ死ぬ体だが、少しは考えてからでもいいはずだ。死か、永遠か。それは、即断するほどに軽いものではないのだから。

「そうよね。でも時間がないのは分かってるでしょう? なるべく、早くしてね」

 隣の部屋にいるから、と言葉を残し、永琳は立ち上がると部屋から出て行った。再び静寂が訪れ、呼吸と心臓の音だけが鈴仙の耳に届く。









 ――さて。


 鈴仙は今一度小瓶を見た。永遠がそこにある。それを飲めば永遠に生きることになり、それを飲まなければこのまま死ぬことになる。
 若い頃ならともかく、今は死ぬことは怖くない。というより、体が衰弱しきっているために、生きる気力が湧かないといったほうが正しかった。だから、何も永遠に生きたいとは思わない。


 ――その肉体が若返ることになっても?


 若返ったらどうなるのだろう。思考は、脳の働きは若い頃から何も変わらない。この倦怠感は、肉体の衰えからくるものだろう。ならば、これを飲めば今再び生きる活力が湧いてくるかもしれない。もちろん、湧かなかったら損だの何だの言うレベルではなくなってしまうのだが。
 どうなのだろう。生きたいのだろうか。寿命の限界まで生きて、それでもなお生きたいと願うのだろうか。


 ――それは生き物として当然のこと? それとも、ただのエゴ?


 生きたいと願うことは、きっと生き物としては当然のことだろう。どんな動物だって本能的には生きることを選択しているのだから。だから、その意味ではこの薬を飲むことに負い目を感じることなどない。
 だが、知性ある生命としてならばどうだろうか。生物として当然行うべきものを行ってもいいものなのだろうか。とりわけ、自分は。
 悩む。自分は生きてきた。月の戦争から逃げ、幻想郷という平和な世界にやってきて生きてきた。


 ――一人のうのうと。月の仲間たちを見捨てて。


「――ッ!」

 今でもはっきりと覚えている光景。仲間たちが血塗れになっていく戦場。弱いくせに恐ろしい武器を携え、自分たちを殺し、狂わされて殺戮を繰り返した人間たち。それは脳裏に焼きついて離れなかった記憶だった。
 鈴仙はそこから逃げ出した。必死に、がくがく震える脚で走り、転がり、血と汗と涙でどろどろになりながら逃げた。ずたぼろの体を引きずって、穢れた地とされている地上に逃げ込んだ。
 怖かったから。仲間が死ぬことでもなく、人間の恐ろしい武器でもなく、ただただ死ぬことが何よりも怖かったから。恥も外聞も良心も何もかも捨てて、生き延びることを選択した。


 ――それでよかったの?


 それでよかった。おかげでここまで生きることができた。唐突に誰かに命を奪われることもなく、天寿を全うすることができるのだ。
 もちろん、生きているおかげで何度も過去にさいなまれたことはあった。それはその度に鈴仙の心を苦しめた。良心を簡単に凌駕した生への欲求、それゆえの罪悪感があった。


 ――そう、私はみんなを見捨てた。


 今も、そのことを考えるたびに心がズキリと痛む。月の仲間たちの顔はもう思い出せないけれど、それは茨のように鈴仙の心を締めつけていた。

「……なら」

 そう、ならば。生よりも死を選択すべきなのだ。仲間を見捨ててまで、それほどの罪を犯してまで自分は生を選んだ。ならば咎人は、そろそろ死刑にかけられなければならない。
ここまで生きてきたのだ。過去の罪を、死で清算すべきなのだろう。この生はまさしくエゴ。もしこれ以上生きたいと願うのなら、それは本能ではなくてエゴなのだ。
 長く生きた満足感と過去の罪。それを、死をもって終わらせるべきなのだ。


 ――ウソツキ。


「う……」

 けれど。
 けれど、それは果たして真だろうか。死ぬことで全てが清算されるのだろうか。
 過去の罪悪にさいなまれ、自分はどれだけ死にたいと思ってきたことか。そう、もう何も考えたくないから死にたいと思ったのだ。死は、罪悪感から逃れるための手段なのだ。
 ならば、死んでいいのか。生きて、生きて、永遠に生きて、未来永劫その罪悪に悩まされることこそが、鈴仙にできることなのではないのだろうか。
 過去犯した罪を償うことなどできない。どれだけ他人のために頑張ろうと、その人の分まで生きると宣言しようと、それは偽善だ。決して、死んだ人は帰ってこない。罪滅ぼし
なんて、その人のためじゃない、自分に安心感を与えるためだけのものだ。
 罪を清算することなど、できはしないのだ。
 
「…………」

 この蓋を開け、薬を飲むか。そうすれば永遠に良心を痛めることになる。全ての行為が償いになりえないならば、その罪を永遠に覚えていることが、鈴仙にできることなのだ。


 ――So, dead or alive?


 そんなシンプルな命題すら、これほどまでに悩む。
 
「……私は、死にたいの?」

 己に問う。そしてすぐさま、鈴仙はかぶりを振った。自分は自他共に認めるほどの生きたがりなのだから。死にたいと思ったのは、過去を思い出したときだけ。
 そうだ、あれさえなければ、自分は何も思い残すことなく死ねるのに。何度悪夢でうなされたろう。何度狂ってしまいたいと思ったろう。あの過去がなく、初めからここで生まれ、ここで育ち、ここで死ねるのなら。それならば、どれだけ幸せだっただろうか。


 ――あの過去さえなければ、私は永遠に生きていい。


 そして、過去は過去なのだ。もう月人など誰一人として地上に来ていない。誰一人として、鈴仙に波動を送る者などいない。ならば、あれは過去。もう捨て去っていい、過去なのだ。この生はもうエゴなんかじゃない。


 ――なら、飲んでいい。


 生きていいのだ。仮にあの過去がなかったらどうするか。あの過去がなく、この薬が自分を若返らせるのなら。
 迷うことなどない。自分ほど生に固執した者もいないだろう。
 生きたいのだ。死にたいなどと思うはずがない。生きたい。生きたい。


 ――生きろ。


「あ……」

 きゅ、と蓋を取る。別段何か臭いがするわけでもない蓬莱の薬。初めて、それを目の当たりにした。
 飲んでいい。生きていい。生きたい。死にたく、ない。
 あれだけ罪の意識に悩まされたのだから、もう過去を過去として忘れていいのだ。むしろ自分はここで死んだことにし、不死になることで過去との決別を図ることもできる。本
当の意味での、第二の人生。これを区切りとして、新たに生きていいはずなのだ。


 ――死にたくない、死にたくない、死にたくない。
 ――だから。






















「――ッ! 駄目っ!!」

 たんっ、と鈴仙は小瓶を盆に叩きつけた。老いた体とは思えぬスピードであった。
 鈴仙は荒く呼吸をする。緊張で不自然なほど脈が上がっていた。そのままの姿勢で、鈴仙は心臓を落ち着かせる。

「絶対……駄目」

 目の奥が熱くなる。悔しさか、悲しさか、虚しさか、恐らくはそれら負の感情全てが混ざり合って、鈴仙の中で渦巻いていた。
 駄目、駄目、と鈴仙は小さく呟き続ける。
 幻想郷は、確かにそういうところだ。過去の罪など、簡単に忘れてしまうほど安らかな地だ。永琳も輝夜も、償いきれない罪を背負っているにもかかわらずあのように楽しく生きている。だから、過去を忘れて永遠に生きることもできるのだ。
 しかし、自分はかつて閻魔に何と言われた。自分勝手だと、そう言われたのだ。
 そう、誰よりも。鈴仙は生きることに対し、狂気といえるほど執着していた。自分でもよく分からないが、誰かに殺されることを何よりも嫌がっていた。だから仲間を見捨ててでも助かろうとし、自分以上の咎人を巻き込んででも使者を迎撃しようとし、裁かれることも地獄に落ちることも必死になって回避しようとした。滑稽なくらい、異常な「生欲」。
 自分勝手でなくて何だ。自分が生きることを最優先し、その他のことを歯牙にもかけない。地獄に落ちて当然だ。
 死ぬべきかと言われたらそれは鈴仙には分からない。生きることも死ぬことも、過去の罪に対する何らかの処置であるのだから。どちらを選択するかは、その個人の価値観によるものでしかない。
 だから、鈴仙が選ぶべきではないのだ。その選択肢を最も正しく選べるのは閻魔であり、閻魔ならば間違いなく死ぬべきだと言うだろう。過去の罪は誰にも清算できない。できるのは、罪を犯した者を裁くことだけ。そしてそれができるのは、閻魔ただ一人。
 閻魔の判決が本当に正しいかどうかは分からない。だが、誰かに裁いてもらう他方法はないのだ。


 だから、これ以上生きてはならない。


 過去の罪をなかったことにして生きるなど、そんな畜生のようなことをしていいはずがないのだ。どんなに理屈を並べ立てたところで、これは結局鈴仙にとってエゴでしかないのだから。









「……はぁっ」

 心は、決まった。長く考えた末、鈴仙はどうと倒れ込む。起き上がって考えるだけでだいぶん消耗してしまったようだ。

「うん、もう大丈夫……」

 生きたかった。でも、自分が自分である以上それを通してはならない。生への醜い欲求は、今ここで終わりにしよう。過去の罪も、今まで生きてきた満足感も、まとめて閻魔に裁いてもらおう。清算できぬ過去を抱いて、この世界を流転しようじゃないか。

「師匠……」
「決まった?」

 鈴仙は、隣の部屋にいる永琳に声をかけた。少しして、永琳が襖を開けて入ってくる。
 
「薬を、ください」
「……? そこにあるわよ」
「いえ、蓬莱の薬じゃなくて……胡蝶夢丸を」

 鈴仙の言葉に、永琳は怪訝な顔をする。蓬莱の薬を飲まないということは分かったらしいが、なぜにそちらの薬が出てくるのか思考がつながらなかったのだろう。

「最期はゆったりと……夢でも見ながら逝きたくて……」

 鈴仙は自嘲気味に笑う。死ぬのは怖くない。死の苦しみもない。けれど、最後の最後に悪あがきをしてしまう可能性もあった。こと生死に関して、自分ほど一瞬後の行動が読めない者もいないのだから。
 安らかに、そしてもう抵抗できないように、鈴仙は死にたかった。
 
「そう……。分かったわ、ちょっと待っててね」

 永琳はうなずくと、もう一度鈴仙の部屋を出た。胡蝶夢丸を取りに行ってくれたようだ。
しばらくすると、丸薬をいくつか持って戻ってきた。一回目で死ぬとも限らないからだろう。
 鈴仙は永琳から薬を受け取った。永琳は薬が飲めるように鈴仙を抱き起こし、水差しからコップに水を入れて鈴仙に差し出した。
 コップを受け取る。たった一杯の水が、こんなにも重く感じられた。

 これから、死ぬ。
 
「…………」

 そくり、と背筋が震えた。やっぱり、怖いのかもしれない。けれどもう決めたことだ。
 
「師匠……」
「何?」

 鈴仙は、意を決して丸薬を口に入れ、水と一緒に流し込んだ。
 
「……ありがとうございます」

 それが、最後の言葉だろうか。意識がすぐに薄れてゆく。永琳の体温を背に感じながら、鈴仙はまどろみの中に意識を沈めていった。

 これで、もういいんだ。もう満足だから。







 ――でも、何かが足りない。







 だが鈴仙が暗い水の中に潜る寸前に感じたことは、謎の不足感だった。









「私は……死んだのね」

 ここはいつか見た三途の川のほとり。胡蝶夢丸で眠りについた後、自分は息を引き取ったのだろう。そして、魂が必ず訪れる場所にやってきたのだ。

「ほら、ぼさっとしてないでとっとと乗んな。今日はあんたで終いだよ」

 三途の川の渡し守が手招きしている。その様はまさしく死神のそれそのもの。魂を導くという点において、その何気ない仕草は死神に一番しっくりくるだろう。鈴仙は軽くうなずいて、死神の少女の元へ歩いていった。あれだけ動くのが億劫だったのに、魂になった途端体は羽のように軽くなっていた。魂は肉体を持たない。この姿は単なる具象体に過ぎないのだろう。

「ほい、それじゃあ有り金全部出しな」
「お金……?」

 少女は片足をそちらに突っ込んで、木でできているらしい小船を泊めていた。その体勢のまま、鈴仙にずいと掌を差し出す。

「三途の川の渡し賃さ。ここに来たやつは誰でも持ってる。ケチらず全部渡しゃあ、早く向こう側に着くよ」

 そういえば、と鈴仙は三途の川のシステムを思い出す。徳か何かだっただろうか、生前の行いによってその額は決まり、その量に反比例して彼岸渡航の時間が短くなるはずだっ
た。
 死神のセリフはちんぴら以外の何物でもないように思えたが、しかしあるだけ渡した方がいいだろう。どうせ他では使えないのだし、そもそも自分のような者にそんなにたくさんの金があるはずがないのだから。

「ええと……ちょっと待って」

 鈴仙は自分の服を調べ始めた。上着か、スカートか。
 果たしてそれは上着のポケットに入っていた。ぢゃり、と金属音が鳴り、そこに入っているのだと分かる。鈴仙はポケットに手を入れて金を出し始めた。

「えーっと……。ん……あれ?」

 思っていたよりも量があったらしい。鈴仙はとりあえずひと掴み出すと、死神にそれを預けた。そして再び手を入れる。

「おお? 何だか随分あるんだな」

 不思議なことに。それは予想もつかないほどたくさん入っていた。ひと掴み、ふた掴み、計三回手を入れて、鈴仙は「有り金」を死神に渡し終えた。死神は心底驚いた表情で、両手で持ちきれない金をスカートで受け止めていた。
 鈴仙自身は、驚くというより呆然としていた。これは生前の徳で決まるはず。あれほどの罪を犯した自分が、そんなにも徳を持っているはずなどないのに。

「いやあ、すごいな。よっぽど愛されてたんだね、あんたは」
「私……?」

 死神の少女はからからと笑って、金を一旦船の中に放り込んだ。木と金属のぶつかる音が、無音を織り成す三途の川に響き渡る。

「私が……愛されて?」
「そうさ」

 少女の言っていることが分からず、鈴仙は呟くように聞き返した。死神はにやにやしながらうなずく。

「あんたが他人に対して日常どんな振る舞いをしてきたかは知らんよ。でも、多かれ少なかれあんたの行動は他人にいい影響を与えてきたのさ」

 いい影響、と言われてもピンと来ない。自分は何かしただろうか。皆との思い出はたくさんある。けれど、それが彼女たちと共有されているかは分からないのだ。

「そうさね、例えば……その生きようとする姿勢とかな」

 死神は鈴仙を指差した。一応面識のある相手だ、鈴仙がどういう人物であるかは分かっており、なおかつ人を見抜く眼があるのだろう。閻魔や三途の川の渡し守とはそういうものだ。

「ただひたすらに生きる。それだけで生きていることを実感する。それは何も当人だけの感覚じゃないのさ。その姿を、生きていない者に見せてみな。結構、心を打つもんだよ」
「あっ……」

 生きていない。
 それは、あの二人に誰よりも当てはまる言葉だった。
 そう、蓬莱山輝夜がなぜあれほどまでにもう一人の蓬莱人に固執するのか。それはずっと理解できないような気がしていたけれど。
 生き物は必ず死ぬ。ならば永遠は生きていないと言えるだろう。それでなお生きていることを演じなければならない彼女らに、生きている実感など感じられないだろう。生きているという実感、それを与えてくれる人がいるなら、きっとその人を愛せるはず。たとえ相手が自分を憎んでいても、それを糧に生の実感をくれるなら。

「――――ぁ」

 気づく。自分が何をしてきたのか。
 生きてきた。何よりも優先して生きることを選択してきた。生きていない人たちの目の前で、必死になって生きてきた。
 それは、あの二人にどう映ったのだろう。もうそれを確認することはできないが、この死神が示唆するとおりならば、鈴仙の行動は二人に生きる実感を与えていたことになる。
 生きる。ただそれだけのことが、あの人たちにとっては特別なことだったのだ。
 
「じゃあ……それじゃあ…………っ」

 『姫以外に心を許したのは、貴方だけ。できることなら、逝かないでほしいの』。
 
 だから、心を許した。だから、蓬莱の薬を与えようとした。鈴仙が生き物でなくなっても、その生きる姿勢は変えないと思って。


 だから、愛してくれたのだ。


「あ……! あぁ……!」

 その額が教えてくれる。自分が犯した罪の根幹が、その罪をも凌駕するほどに徳を生み出していたことを。

「そんな……!」

 鈴仙はくずおれた。
 それだけのことをしていたなんて、それに気づかなかったなんて、本当に自分勝手だ。
自分の見える範囲だけのことしか考えず、これだけ愛されていたことに気づかず、そして何も言わぬまま死ぬだなんて。
 ようやく分かった。自分が何を求めていたのか。なぜ必死になって生きようとしていたのか。


 生きた証が欲しかったのだ。


 自分がこの世界に、或いは誰かに何も残さないまま死ぬことが嫌だったのだ。自分が自分であるという証拠として、何かを残したかった。それが死ぬときになって、生きた証になるのだから。
 それは例えるなら名声で、例えるなら大業で、例えるなら誰かの愛で。
 誰かからの愛は、既に達成されていた。ただそれが自分の目に見えていなかっただけの話で。
 鈴仙は、生きた証をとっくに手に入れていたのだった。


「……死ねないっ!」

 泣きじゃくる中で、鈴仙は声を絞り出す。
 このまま三途の川を渡るわけにはいかない。あんな言葉だけの「ありがとう」じゃ何も伝えきれていない。自分をたくさん愛してくれた、生きた証をくれた人たちに、まだ何も言っていないのだから。
 永遠に生きることを放棄しても、これだけはあの人たちに伝えなければならなかった。
 
「お願いっ! 少しだけ待って! 少しだけ……別れを告げるだけでいいから、時間をください!」

 鈴仙は死神に懇願した。この魂を、少しの間だけあの永遠亭に返したい。その徳が消えることになっても、地獄に落とされることになろうとも、鈴仙は自分が生きたことを伝えておきたかった。このまま彼岸に渡るなんて冗談じゃない。鈴仙は泣きながら死神につかみかかった。
 まるであのときのように。
 鈴仙は異常ともいえる勢いで生を渇望していた。まるで道化のごとく、生と死の境界を渡る者に、死を遠ざけてもらっていようとしていた。
 死神の表情は鈴仙からは見えなかった。こんなにも近距離なのにどうもぼけて見える。
そんなことは気にせず、鈴仙は見えない相手に自分の思いを伝えようとした。
 答えはすぐに返ってきた。
 
 
「そうかい、ならさっさと行ってきな」
 意外にも、それは肯定の答えだった。鈴仙は少し呆気に取られる。
 
「え……いい、の?」
「気にすんな、これは夢だ」
「夢……?」

 死神がこくりとうなずく。
 
「あんたはまだ眠ってるだけさ。目を開けりゃあ、あんたの会いたい人がすぐそばにいるよ。会いたいんだろ? 行ってきな」

 実にあっさりと、死神は承諾してくれた。いつの間にかここにいたのだから、死んだと考えるのが自然なのに、ただの夢であるなど考えられない。そんな都合のいいことがあっていいのだろうか。胡蝶夢丸の魅せた夢。そうなのだろうか。
 よく分からないけれど、死神がにかっと笑ったような気がした。
 
「じゃあ……はい」

 よく分からない。これが夢だと言われてもなんとなく騙されているような感じだった。
 だが、これが夢ならば、まだ死んでいないのならば。それなら帰れる。あの人たちに伝えられる。そんな小難しいことをいちいち考えることもないだろう。死んでいないならばそれで、今にも死ぬかもしれないのだから。
 帰り方は分からない。しかし何となく鈴仙は目を閉じ、あの風景を思い浮かべた。それだけで、行けるような気がしていた。
 自分も愛した人たちの顔が浮かぶのと、鈴仙の意識が再び消えるのは、ほぼ同時だった。










 そして視界に光が入る。目が認識したのは、毎日見慣れたあの天井。
 寝惚けることもなく、鈴仙は瞬時に自分が永遠亭に戻ってきたことを理解した。
 
「ウドンゲ……?」

 鈴仙が体を起こそうとすると、永琳が心配そうに上から覗き込んできた。
 
「大丈夫? 急に泣き出したけど、薬間違えてた?」

 おどおどと永琳が尋ねる。そんな表情を見るのも初めてだが、今はそれどころではなかった。

「師匠……」

 夢の中で、誰よりも会いたかった人。鈴仙は、夢とは違って鉛のように重たい体を引き起こし、永琳に抱きついた。

「え、ウドンゲ?」
「……師匠っ」

 その声を聞いて、その顔を見て、もう感情が抑えられなかった。夢の中で知った彼女からの愛、みんなからの愛。

「…… ありがとうございますっ!」

 それを言いたくて、しかしもう頭がまわらなかった。鈴仙は永琳の体を抱きしめ、眠りに落ちる前と同じ言葉を繰り返した。
 死ぬだの生きるだの、もう関係ない。ただあふれる涙と感情に任せて、鈴仙は精一杯腕に力を込めた。

「私、生きましたっ! たくさん、たくさん幸せに生きましたっ!!」

 過去、犯した罪を省みて。
 
「今までそれを感じたことはなかったけど、でも! 私は生きました!」

 罪悪感にさいなまれ。
 
「最期まで一緒にいてくれて、ありがとうございます! 一緒に生きてくれて、ありがとうございます!」

 それでも尚生きたいと願って、そして。
 
「生きた証を……ありがとうございます!!」

 それは死を目前にして、ようやく手にすることができた。
 涙と共に、鈴仙は伝えたいことを一気に叫んだ。
 幸せに過ごさせてくれたことに感謝して。生きた証を見せてくれたことに感謝して。
 もう残り少ない命で、鈴仙は自分の心を永琳に伝えた。
 
「……ありがとう」

 不意に、永琳の腕が鈴仙を包む。
 
「私は、その姿が好きだったわ。そうやって生きている貴方の姿が、本当に好きだったわ」

 ぎゅっと、優しく、永琳は鈴仙を抱きしめた。
 その言葉はあの死神が言っていたものと同じだった。鈴仙の姿勢は、確かに生きた証になっていたのだ。

「師匠……」

 そして――。


「生きている証を、ありがとう」
「生きた証を、ありがとう」









「……ウドンゲ?」
「………………」
「…………もう、最期まで自分勝手な子ね。さよならくらい言わせてよ」


 ――おやすみなさい。










 静かに流れる水が、川岸の石にぶつかる。
 鈴仙は再び三途の川岸に立っていた。
 
「よう、お帰り」

 ぼんやりしている鈴仙に、死神の声が聞こえてきた。見ると、平たい岩の上で握り飯を
食べながら寝転がり、にやにやしながら鈴仙を見ていた。

「あ、どうも。……って、え?」

 その呑気な様子に呆れつつも鈴仙は反射的に礼をする。と、そこで死神のセリフに違和感を感じた。あれは夢だったのではないのだろうか。

「ああ、気になってるみたいだな。まあ、所謂仮死状態ってやつさ」

 鈴仙の疑問に気づいていたのか、死神は先手を打った。握り飯を食べ終え、指についた飯粒を舐め取ると、どっこいしょと年寄り臭い掛け声と共に立ち上がった。

「仮死状態……?」

「そ。あんたはちゃんと死んでなかったんだよ。といっても死ぬ寸前だからここに来ることはできるし、金を払うこともできる。あんたがすぐに死ぬのは視えてたから、先に払ってもらったのさ」

 死神は舟の櫂を取りながら鈴仙に説明する。
 
「さっきは視界が悪くなかったかい? そいつはちゃんと死んでない証拠さ」

 そうして、少し離れた位置に停泊している舟を櫂で引き寄せた。
 確かに視界は悪かった。声は聞こえても死神の顔は常に見難かった。それは単に夢だからというわけではなく、鈴仙がまだ完全に魂の状態にいなかったということらしい。

「じゃあ……なんで夢だなんて?」

 おかげで本当に死んだものと誤解してしまった。死神は寿命が視えるらしいが、それにしてもたちの悪い悪戯だと思う。
 だが、死神はそれとは全く違う答えを出してきた。
 
「だって……そのほうが夢があるだろ?」

 本当に、馬鹿馬鹿しい答えだった。
 思わず苦笑してしまうほどに。









「じゃあ、そろそろ乗んな」

 死神の好意に呆れていると、彼女は表情を引き締めて舟に乗り込んだ。どうやら、これで本当に現世ともお別れらしい。鈴仙は死神に続いて舟に足を入れた。

「未練は……ないな?」

 そこに死神が問いかける。今まさに乗り込もうとしているときに、惑わせる言葉。
 
「……あります。たくさん」

 生きたい欲も、楽しい思い出も、全てを今、鈴仙は懐かしんでいた。
 死んでようやく、生きていたことを実感した。
「でも……もう踏ん切りはついたから……」


 ――ぎっ


 舟が軋む。鈴仙が地面から足を離し完全に乗り込むと、舟はわずかにぐらぐらと揺れた。
 未練なんていくらでもある。生きたいかと問われれば、絶対にはいと答えてしまうだろう。けれど、もう別れは言えたから。生きた証も手に入れられたから。
 もう大丈夫。もう、旅立つ準備はできていた。
 
「……そうかい。じゃあ行くよ。なに、あんたの徳なら向こう岸なんてあっという間だ。その分閻魔様に説教されてくるんだね」

 ししっ、と笑って、死神は櫂でそばの岩を押した。その反動で、舟が川岸から離れ出す。
 鈴仙は、自分が今いた場所を振り返った。誰もいない、虚無に満ちた川原。
 あの向こうに、自分はいた。あの向こうに、全てがあった。
 ここにはもう何もない。全てを置いて、自分はこの舟に乗っている。遠くなり始める川岸を見つめ、鈴仙はふと物悲しい気持ちになった。
 だが、決して寂しくはない。あれだけ生きたがっていた自分が、今こうしてここにいられるのだから。あの向こうに何も残っていなかったのならば、きっと今は赤ん坊のように泣き叫んでいたことだろう。
 言いようのない満足感、安息感。それもまた、自分勝手な満足だったかもしれない。でも、自分を愛してくれた人がいた。その人と「生きる」ことができた。それはきっと、自己満足じゃないはずだ。

 だから、大丈夫。


 此岸が消える。生と死の境界を渡る。真っ白な世界で、鈴仙は目を閉じた。
 走馬灯のように、長い長い自分の歴史が思い出される。戦い、逃げ、生きて、自分勝手な過去が流れてゆく。
 行こう。この全てを、閻魔に裁いてもらうために。罪も、思い出も、何もかも。

 目を開け、鈴仙は今一度此岸のある方を見た。
 もう会えない人たちに、最後の言葉を。






 幸せな生を、ありがとう。
 生きた証を、ありがとう。








 ――ちゃぽ、ん


 ――ざぁん


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