安眠 三世代×カイジ




 一歩も、動けない。
 自分の部屋で、カイジは額に汗を滲ませていた。

 胡座をかいた腿の上に目線を落とす。
 右腿の上には、しげるの頭。
 左腿の上には、赤木の頭。
 それぞれの白い頭の持ち主は、カイジの腿を枕代わりにして、心地よさそうな寝息をたてていた。

 なんなんだ、この状況は。
 自分を床に縛り付けている元凶をまじまじと見て、カイジはため息を零した。




 遡ること一時間前。

 最初にカイジの部屋を尋ねてきたのは、しげるだった。
 扉を開けて迎え入れるなり、開口一番、
「ねむい」
 と呟いたしげるの目の下には、大きなクマができていた。

 完全にベッドを借りる目的で訪れた、その意図を隠しもしない図々しさを、いっそ清々しく感じながら、
「ベッド貸してやるから、寝ろよ」
 とカイジが言うと、眠気のせいで不機嫌そうに見える顔でカイジをじっと見詰めたあと、しげるは床に座り込んだ。
「座って。カイジさんも」
「へ?」
 カイジは首を傾げたが、とりあえず言われたとおりに胡座をかいて床に座る。
 するとしげるの眉がきゅうっと寄り、さらに不機嫌そうな顔になったので、カイジはびくりとした。
 しげるはなにか言いたそうにしていたが、やがて渋面のまま、
「そうじゃないんだけど……まぁ、いいか」
 諦めたようにぼそりと言うと、座ったままカイジに近寄る。
 そして、なにを思ったか、カイジの腿に頭を乗せると、左耳を下にして横向きに寝転がり、目を閉じた。
「オレ寝るから。じゃあ……おやすみ」
 状況が飲み込めず呆気にとられるカイジを差し置いて、しげるは三秒後には、安らかな寝息をたてはじめたのだ。

 う、動けねえ……

 カイジはしげるを揺り起こそうとしたが、白い横顔がなんだかいつもより疲れているように見えて、手を止めた。

 動けないのは困ったけど、こうして自分に安らいだ寝顔を見せてくれるのは嬉しい。
 生意気で小憎らしいガキだけど、だからこそたまにこんな風に頼られる(?)と、弱いんだよなぁ……

 すこしだけなら、寝かせてやるか……

 そんな風に考えながら、カイジは癖のない短い髪をさらりと撫でた。








 その、約十分後。

 しげるにつられてうとうとしていたカイジは、玄関の扉がノックされる音にはっとした。

 あのノックの仕方は、赤木さんだ。
 でもどうしよう、今は立ち上がれない……
 寝入ったばかりのしげるを起こすのは悪い気がするから、大声で返事をするのも憚られる……

 カイジが迷っていると、ガチャリとドアが開く音がして、赤木が入ってきた。

「よぉ、カイジ。いるんなら返事くら……い……」

 堂々と部屋に上がってきた赤木は、必死な顔で人差し指を口の前に立てて見せるカイジの姿を見て、語尾を曖昧に溶かした。
 目線を下げ、その腿の上にある自分とよく似た顔を見て、ニヤリと口端を吊り上げた。
「なるほど……そういうことか」
「すみません、返事もできなくて……」
 小声で謝るカイジに首を振り、赤木もカイジと同じように床に胡座をかいて座る。
「そのガキ、どのくらいそうしてるんだ?」
「十分くらいかな……」
「お前さんも大変だな」
 労われ、はは、とカイジの口から苦笑が漏れる。
 嫌ではないのだけれど、なんて本音は、照れくさくて吐露できない。

 やさしい目でしげるの寝顔を見守るカイジの姿を、赤木はしばらく黙って眺めていた。
「寝心地、良さそうだな」
「……はい?」
 突然、赤木が呟いた言葉にカイジはギョッとする。
 目が合うと、赤木は悪巧みするようにニヤリと笑った。
「動くなよ。ガキが起きちまうぞ」
 そう言って、赤木はしげると同じようにしてカイジににじり寄る。
 まさか、とカイジが嫌な予感を抱くより早く、赤木は空いている左腿に頭を預けてきた。
「大変ついでに、俺のことも世話してくれや」
「あっ、赤木さんっ……!!」
 嗜めようとするも、仰向けで見上げてくる赤木が、吊り上がった唇の前に人差し指を立てる仕草で静かにしろと訴えてくる。
 右腿を枕に眠っているしげるのことを思い出し、ぐっと言葉を飲み込むカイジに目を細めると、赤木は薄い瞼を閉ざした。

「正座じゃねえのがちぃと残念だが……まぁ、いいか」
 しげるとよく似たその口振りで、カイジははっと気がつく。
 さっきしげるが『そうじゃないんだけど……』と呟いていたのは、このことか!
 まったくよく似た奴らだと、呆れながらカイジに見守られつつ、赤木も仰向けのまま、すぐに寝息をたて始めたのだった。







 かくして、この呪縛のような状況が完成した。
 立ち上がることは愚か、身動ぎひとつできないまま、カイジはすこやかなふたつの寝息を聞きながら途方に暮れていた。


 しげるは相変わらず横顔をカイジに見せたまま、口を薄く開いて浅く呼吸している。
 その寝顔は幼さを残すもの特有の透明感があって、なんだか乳臭く、かわいい。
 床に放り出された手の指先が、ときどきぴくり、と震えるのも、なぜだかカイジの笑みを誘った。

 赤木は仰向けで、腹の上あたりに緩く指を組んで眠っている。
 ゆったりと微笑んでいるような寝顔。憧れの赤木しげるの、こんなにもくつろいだ姿を見られる自分が、なんだか特別な気がしてカイジはほんのりと幸せだった。

 とても鋭い牙を持つ二頭の獣が、自分だけに懐いてくれているような、優越感と誇らしさがカイジの胸に満ちる。
 そっと手を伸ばし、まずはしげるの頭を。
 それから、逆の手で赤木の頭を。
 起こさないように細心の注意を払いながら、カイジはふたりの頭を撫でた。




 しばらくそうしていると、やがてまた、玄関の扉が叩かれた。
 カイジは返事をできなかったが、ノックの主はもうわかりきっていたので、気を揉んだりせず、客がドアを開けて入ってくるのを待つ。

「おい……、あんた、いるなら返事……」

 案の定、どかどかと部屋に上がり込んできたのはアカギだった。
 アカギは床に座り込んだカイジと、その腿を枕にしているふたりの白い男を見て、軽く目を見開いたあと、眉根を寄せた。

 あ、その顔。さっきのしげるそのまんまだ。

 カイジが暢気にそんなことを思っていると、アカギはカイジの真正面でどかりと胡座をかいて座り、その顔を睨むようにして見る。
「な、なんだよ……?」
 来て早々ガンをつけられ、怯むカイジ。
 腿の上のふたりを起こすまいとボリュームを絞られたその声に、アカギの顔がますます不機嫌そうに曇る。
 アカギは矢庭にしげるの頭を撫でていたカイジの手を取ると、
「立て。そんな奴ら、床に落としちまえ」
 と、言って強引に引っ張り上げようとしたので、カイジは慌てた。
「ま、待てよっアカギっ……!!」
「なに。あんただって迷惑してるんだろ?」
「そ、それは……そうかもしれないけどっ……」
 カイジは語尾を濁し、視線を下に落とす。
「でも……、せっかく気持ちよさそうに眠ってるのに、起こしちまうなんて可哀想だろ?」
 ぼそぼそと言うカイジに、アカギは呆れ顔で盛大なため息をついた。
「……お人好し」
「うるせぇ」
「言っとくけどそいつら、いっぺん寝入ったら起きねえぞ」
「知ってる……」
「小便したくなったらどうするの」
「そ、それは……考えてなかった」
「オレは助けねえからな。ここですれば」
 それだけは勘弁してくれ、と冷や汗をかきながら、カイジはつっけんどんな様子のアカギを見る。
 カイジの方から逸らされたその横顔は、すこぶる機嫌が悪そうだ。
 だが、そんな凶相でもカイジの心に恐ろしい印象を与えないのは、その表情が純粋な『怒り』によるものではない、ということが見て取れたからだった。

 おそらく、この顔はきっと、拗ねている。
 傲岸不遜な十九歳の赤木しげるが、年齢は違えども、自分自身にヤキモチを焼いて臍を曲げているのだ。
 
 笑っちゃダメだと、カイジは自分に言い聞かす。
 だが口許がむずむずするのは隠すことができず、それを見咎めたアカギに鬼のような顔で睥睨され、カイジは慌てて表情を引き締めた。
「あんた、喧嘩売ってんのか?」
 本職のヤクザも震え上がるような声と表情。
 虫の居所が相当悪いらしいと、カイジはビビりながらも精一杯対応を考える。

 こういう時、アカギにヘタな小細工を弄するのは逆効果だ。
 ストレートに正面切って、正直な自分の気持ちを伝えること。
 意外とそれが、いちばん効果があったりするのだ。

 短くないアカギとのつきあいの中で、カイジはそれを学んでいたが、いざ実行に移すとなると、結構……いや、かなり恥ずかしい……
「あのなぁ、アカギ」
 もう既に赤らみつつある顔で、カイジはなんどか躊躇ったあと、囁くようなちいさな声で、そっと言った。

「しげるも赤木さんも、そりゃあ大好きだけど……、いっいっ、いちばんは、お前……っ、だから……」

 しどろもどろ、つっかえつっかえ、その恥ずかしい気持ちをカイジは言葉にして言い切った。
 顔から火を噴く思いでアカギの方を見られず、カイジが俯いていると、ふいに気配が近づいてきて、アカギの顔が目の前に大写しになる。
 目を見開いたカイジの額に、自分の額を押し当てた、アカギの顔からはさっきまでの不穏な表情が完全に消え失せ、代わりに機嫌良さげな笑みが浮かんでいた。

「……今の言葉、もう一回言ってみなよ……」

 目の前で笑う瞳。
 ひょっとしてさっきまでの態度は、自分からこの言葉を引き出すための演技だったのでは、という可能性にカイジはここへきて考えが及んだが、もうあとの祭りだった。
 ほら早く、と音を消した声で囁かれ、唇に熱い吐息がかかる。
 触れそうで触れない距離に、カイジの喉が上下した。
 いつの間にか後ろ頭に回され、長い髪を梳くように撫でる手つきはやさしく、甘い。
 自分たちがこんなことをしているのを知らず眠っているふたりの存在が、鳩尾を擽るような秘め事の密やかさを醸し出す。
 どくん、どくんとうるさい自分の心音を聞きながら、カイジはすっかり熱に当てられてとろんとした目で、唇を薄く開いた。


「オレは……お前のことが、いちばん……」



「ずいぶん、愉しそうなことやってるじゃねえか」


 突然、割って入った第三者の声に、カイジははっと我に返る。
 目線を声のした方に向けると、今の今まで寝息をたてていたはずの赤木と目が合った。
「あっ赤木さんっ……!! いつから起きて……!!」
 至近距離まで近づいていたカイジの顔がさっと離れていき、アカギはチッと舌打ちする。
 静かな怒りをたたえて自分を睨むアカギには目もくれず、赤木はカイジの顔を見上げて囁いた。
「なぁ、カイジ……俺にも言ってくれよ、今の」
「いっ! いい、いまのって……っ!?」
「あんた、阿呆だな……あれは、オレに向けられた言葉なんだよ……あんたに同じことを言えるはずがない……すこし考えれば、わかりそうなもんだ……」
「お前に向けられた言葉は即ち、俺に向けられた言葉ってことだろ? 違うか? どうなんだ、カイジ……」
「うっ、そっ、それは……」
「うるせぇなーー」
 三人がわいわいやっているのが耳についたのか、しげるも起きてしまったらしく、顔を顰めて身じろぎする。
「ちっとは静かにしろよ、ジジイ共……安眠の邪魔しやがって……相変わらず歳ばっか食って、碌なことしねえな、あんたら……」
「そのまま永眠してろ、クソガキ」
「アカギっ……! そんな言い方っ……!!」
「小便くさいガキ共なんざ放っておけよ、カイジ……」
「あんたこそとっとと永眠したら? 耄碌ジジイ」
 口汚い罵り言葉の応酬に、最初こそなんとか収拾をつけようと頑張っていたカイジだったが、三者三様、わがまま放題の主張にそのうち呆れ果て、しまいには可笑しくなって、クスクスと笑いはじめた。
 低い笑い声を聞いた三人はぴたりと争いを止め、肩を震わせているカイジの顔を見る。

「ったく……お前ら本当、どうしようもねえな……」

 こんな風に笑うカイジは珍しい。
 なんだか毒気を抜かれてしまった三人の赤木しげるは、まじまじとその顔を見詰めたあと、同時に軽いため息を吐いた。
「……寝直そう」
 ちいさな欠伸を漏らしながらしげるが言うと、
「俺も。おやすみ、カイジ」
 と赤木も目を閉じる。
「あっ! おいっしげる、赤木さんっ……!!」
 慌ててカイジが声をかけるも、赤木しげるが寝付くのは本当に早く、ふたたびふたつの軽い寝息が、起きているふたりの耳に聞こえ始める。
 せっかく抜け出せるチャンスだったのにと、ガックリ肩を落とすカイジの腿の上、のどやかなふたつの寝顔を見比べながら、アカギがぼそりと呟いた。

「オレには正座でしてくれよ、カイジさん」







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