風の強い日・9




 開けた場所を歩いていると、ごうごうと唸って吹きつける風がダイレクトに体に伝わり、その強さに改めて驚かされる。
 巻き上げられる髪を押さえつけながら、オレは土手の上を行く男の背を追った。
 陽が落ちかけ、西の空が黄金色に輝いている。今日は雲が多かったので、星は見えなさそうだ。

「なぁ……どこへ行くんだよ?」
 男の背に呼び掛ける。風の音がうるさくて、声を張り上げないと届かない。
 土手の中ほどまで来ると、男は足を止め、振り返った。
 つり上がった双眸が、まっすぐにオレを射貫く。
 赤木さんと同じ、不思議な色の瞳に見とれていると、男は薄い唇を開いた。

「オレが何者か……あんた、本当にわからねえのかい?」

 風音に掻き消されそうなほど静かな声だったが、不思議なことに、オレの耳には男の声がはっきりと届いた。
 まるで、オレが本当はこいつのことを知っているのだとでも言うような口振りに、眉が寄る。
「当たり前だろ……今日会ったばかりなんだし。赤木さんの親戚かなんかじゃないか、ってことぐらいしか……」
「あんたが」
 オレの言葉を遮って、男が続ける。

「あんたが会いたいって願ったから、オレも昨日のガキも、あんたに会いに来たんだよ」

 ……は?
 ……会いたいって願った? オレが?
 戯けたことを抜かすな。だいたいオレは、お前らなんて知らねえっつってんだろうがーー

 そう反論しかけた瞬間、舌が痺れ、縺れた。
 心の底から洪水のように溢れ出す、鮮烈なある記憶。


 赤木さんにせがんで、昔の話を聞かせてもらったことがある。
 十三歳で、初めて麻雀を覚えたときのこと。盲目の代打ちとの、手に汗握る攻防。
 数年後に現れた、偽物の赤木さんの話。そして、鷲巣巌との闘い。

 どれも博徒にとっては心躍るようなエピソードばかりで、飾り気のない赤木さんの口調でも、その凄さは十分すぎるほど伝わってきた。

『命知らずの、生意気なガキだったな。よくもまあ、ここまで生きてこられたもんだ』

 懐かしむように目を細める赤木さんに、オレはぽつりと呟いた。

 ーー会ってみたかったな……十三歳のあんた。オレと同い年の頃のあんた。オレの知らない、若い頃のあんたに。

 それは、心の底からの呟きだった。
 人はどうして過去に行くことができないのだろうと、残念に思った。
 オレの知らない昔の赤木さんを知っている人たちのことが、羨ましくて仕方なかった。

 悔しい気持ちが伝わったのか、赤木さんは笑ってオレの頭をぽんと叩いた。

『そうか……昔の俺に会ってみたいのか、カイジは』

 ーーはい……

『だったら、俺が死んだら、昔の姿で、お前のところに化けて出てきてやるよ』

 ーーえ?

 死、なんて不吉な言葉が急に赤木さんの口から零れ落ちたので、オレはなんだかひどく不安な気持ちなった。
 そんなオレの胸騒ぎには気がつかないようすで、赤木さんはカラリと笑う。

『そしたら、怖がらずに遊んでやってくれよな』

 ーーやめて下さいよ、縁起でもない。

 無理に笑い返したが、心に落ちた影のようなものは晴れず、ずっと心に留まっていた。



 胸が押し潰されそうなほど、鮮やかに蘇った記憶。
 動悸がする。汗が噴き出す。
 それじゃあ、この、目の前にいる男はーー

「赤木、さん……?」

 馬鹿な。そんな非現実的なこと、あるはずがない。
 そう思いながらもオレは、その名を呼ばずにはいられなかった。
 オレの声はひどく掠れていたが、男は穏やかに口角を上げる。

「どうしても見たいものがあったから、戻ってきたんだ」

 見たい、もの?

 金縛りにあったように動けなくなっているオレに、男が近づいてくる。
 オレの真正面に立つと、つと右手を伸ばす。
 そのまま風に乱された前髪を掻き上げ、掌で目を覆い隠された。

「なぁ、カイジ」

 視界が遮られているせいで、風の音と男の声がやけに鮮明に聞こえる。
 オレの名を呼ぶ男の声は若い。だけどその呼び方は、長く慣れ親しんだ赤木さんのものに他ならなかった。

「お前は俺が死ぬとき、大切なものをくれたんだ。恐らく、自覚はねえだろうが」

 大切なもの?

「嬉しかったが、俺にはちょっと勿体ねえくらいの贈り物だったから、お前に返しに来たんだよ」

 急に目の底が灼けるように熱くなり、オレは激しく瞬く。
 またひとつ、心の底に仕舞いこまれていた記憶が浮かび上がってきた。





 お前の涙が好きだ、と、生前の赤木さんに何度か言われたことがある。
『自分のため、他人のために泣ける、お前の涙は暖かいんだ』
 と。
 そんなことを言われたのは生まれて初めてだったから、ものすごく驚いて、それから、恥ずかしくなった。

 ーーそんな妙なこと、言うのは赤木さんだけですよ。

 ふてくされたようにそう返せば、赤木さんはおおらかに笑った。

『そうか? お前の周りにいる連中は、見る目のない奴らばかりだなぁ』

 それから、何気ない風にこうつけ加えたのだ。

『俺だけのもんにしてえな、って思うくらい、好きだぜ。俺は』






「あの時俺が言った言葉を、お前はちゃんと、覚えててくれたんだな」

 淡々と、静かな男の声がする。
 どうしようもなく目が熱い。込み上げてくるのは、覚えのある感覚。

「そして、お前は俺にくれたんだ。これから流すはずだった、お前の涙すべて」

 でも、と男の声が低くなる。

「でも、そのせいでお前は泣けなくなっちまった。涙と一緒に、心の大半まで俺に預けちまった。
 ……俺はな、泣いたり笑ったりするお前の姿が、好きだったんだよ」

 だから、これは返すぜ。

 男がそう言ったとたん、喉の奥に熱い固まりがせり上がってきた。

 塞がれた視界が歪むのを、歯を食いしばって堪える。

 ダメだ。泣いちゃいけない。
 ずっとずっと鮮やかなままで保ってきた、赤木さんの記憶まで溶け出してしまう。
 オレはこれからも泣かないままで、赤木さんのことをすこしも薄れさせないで、覚え続けて……

「カイジ、もういいんだ。死んだ人間のことは、忘れていくのが普通なんだよ」
 いつの間にか、男の声は心地よく涸れていて、目を覆い隠す掌にも、和紙のようなあたたかみのある皺が寄っていた。
 どちらも、オレにとってとても馴染みのあるもので、さらに目頭が熱くなる。
「嫌だ……」
 絞り出した声は震え、ぐずっているようにみっともなかった。

「お前のことが好きだ、カイジ」

 そっと包み込むように、赤木さんはそう口にした。

「ずっと堪えてきたんだろう。もう我慢しなくていいんだ。
 ……俺のために流されるお前の涙を、見せてくれねえか?」

 労るような声でそう言われた瞬間、喉奥に迫っていた熱い塊が、嗚咽となって口から零れ出た。
 限界まで堪えていた涙がぶわりと膨らみ、熱く千切れるようにぼたぼたと流れ落ちては、目を覆う赤木さんの手を濡らしていく。
 一度溢れてしまった涙は、もう止めようがなかった。

 赤木さんが亡くなったと知ったときに、流れなかった涙。
 赤木さんのことを思い出すたびに、流れるはずだった涙。

 一ヶ月分の涙が、濁流のように溢れ出していく。

「ああ、これが見たかったんだーー」

 嬉しそうな赤木さんの声。

「あ、かぎ……さ、……」

 きれぎれに名前を呼ぶ。
 吸う息も、吐く息も熱い。

 
「ありがとうな、カイジ。お前に会えてよかったよ」


 焦がれ続けたやさしい掌が、そっと押さえるようにオレの涙を拭っていく。
 そして、そのままゆっくりと、オレの目の上から離れていった。





 覆いがなくなった視界に飛び込んできたのは、開けた土手の上の風景。
 目の前にいたはずの男の姿は、風に浚われたかのように、跡形もなく掻き消えていた。

 足がガクガクと震えて立っていられず、オレは道路の上にくずおれる。
 乾いたアスファルトの上に、大粒の涙が次々と音をたてて落ちる。
 蹲り、オレは子供のように声を上げて泣いた。
 今までの分を取り戻そうとするかのように、涙はいつまでも、いつまでも溢れ続けた。


 ごうごうと唸る風の中、嬉しそうに笑うあの声が、いつまでも耳の奥で響いていた。




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