口紅 なんでも許せる方向け


 赤木さんが眠っている。
 オレのベッドの上に仰向けで、規則正しい寝息をたてながら。
 眠っているときの赤木さんはいつも、すこし笑っているように見える。
 穏やかなその寝顔に、穏やかならぬオレの気分がささくれ立って、安眠を邪魔してやりたいという邪な心がむくむくと鎌首を擡げてくる。
 その欲求に逆らわず、オレは赤木さんに近づいた。

 真上から見下ろすと、赤木さんの顔がオレの影に入る。
 驚くほど人の気配に敏い人だけれども、今は深く寝入っているようで、眉ひとつ動かさない。
 ますます面白くない気持ちが募って、オレはベッドに乗り上げた。
 ギシリとスプリングを軋ませて、赤木さんの体を跨ぐ。
 腰の上に座ると、流石に赤木さんはうっすら顔をしかめたが、軽く身じろぎしただけで、ふたたび穏やかな寝息を立てはじめた。

 野生動物を髣髴させる剣呑に整った容姿は、深い眠りに沈んでいてさえ、一分の隙も感じさせない。
 端からすべて見透かしていて、寝込みを襲うものの喉笛を噛み千切る機会を虎視眈々と窺っているような。
 そんな不穏な錯覚さえ起こさせる、赤木さんの寝姿。
 不安を振り払うように、オレはハーフパンツのポケットに入れてあったものを取り出した。

 手のひらにおさまるサイズの、黒い円筒形の物体。
 キャップを外すと、ほのかな薔薇の香りが漂う。
 容器の底の部分をくるくると回すと、くすんだベージュの尖った塊がくり出される。

 正真正銘、見まがうことなき、女物の口紅だった。
 まだ新しいように見えるが、使用済みのものなのかどうか、男のオレには判別がつかない。

 赤木さんはなにも知らない顔で眠っている。
 健やかな寝息を吐き出す、微笑んでいるような薄い唇に、口紅の先端をそっと押し当てた。
 思ったより口紅はやわらかく、力を入れずに横に動かすだけで、いつも乾いている赤木さんの唇の上を、ひっかかることなくするすると滑っていく。
 上唇の端まで辿りつき、同じようにして下唇もなぞる。
 スッと線を引くように赤木さんの唇を一撫でしたたけで、オレは手を退けた。

 無意識に詰めていた息を大きく吐き出し、赤木さんを見下ろす。
 隙のない赤木さんの容姿に尻込みしてうっすらとなぞることしかできなかったためか、そもそも口紅の色が肌なじみの良い色だったためか。
 赤木さんの唇はほんの少し艶が出て血色が濃くなっただけで、さほど変化は感じられなかった。

 ――もっと間の抜けた顔になることを期待していたのに。そうなれば、多少は留飲も下がったかもしれないのに。

 がっかりしながらため息をつく。急に自分のしていることが馬鹿馬鹿しく思えてきて、オレはベッドを軋ませながら赤木さんの上から退こうとした。
 ふいに手首を掴まれて、オレは硬直してしまう。
 切れ長の双眸がいつの間にか開いていて、射るようにオレを見据えていた。

「寝込みを襲ってでもくれんのかと期待して待っててみりゃ、カイジよ……ずいぶんと趣味のいい悪戯だな」

 起きている可能性も頭の隅にあったからか、さほど動揺しなくて済んだ。
 余裕綽々の、笑みを含んだ声。起き抜けの、甘く掠れた赤木さんの声がオレは大好きなのだが、今は只々、心に棘がたつ。

 じっと睨みつけるオレの視線などどこ吹く風といったように、赤木さんは掴んだオレの手の中を見る。
「どうした? この口紅」
「あんたが一番、よくわかってるんじゃねえのか」
 刺々しいオレの口振りにも、ただのんびりと首を傾げてみせる赤木さんに痺れを切らし、いっそう強い声で言い募る。
「……入ってたんだよ。あんたのスーツのポケットに」
 だらしなく床に脱ぎ散らかされたスーツをハンガーにかけるときに、オレはその口紅の存在に気づいてしまったのだ。
 気づきたくなんてなかったのに。
 ここまで言っても、赤木さんはまったく心当たりがないとでも言いたげに、細い眉を寄せていた。

 そんな赤木さんを上から睥睨しながらも、オレは内心安堵していた。
 赤木さんの様子がしらばっくれている風には見えず、本当に口紅の存在を知らなかったようだったからだ。
 少なくとも、赤木さんが誰かにプレゼントするため購入したものでないということが、嘘のないその表情から見て取れたからだ。

 こんなことでホッとしてしまう自分に反吐が出る。いつからオレは、こんなに女々しくなってしまったのだろう。
 泣きたいようなオレの気持ちなど預かり知らぬように、赤木さんは口紅を矯めつ眇めつしながら言った。

「どこの誰が入れたもんかはさっぱりだが……、大方、お前に対するあてつけで入れたんだろうな」

 ……あてつけ?
 思いも寄らない言葉に面食らうオレに、赤木さんはふっと笑う。

「好きな奴ができたって、最近あちこちで触れ回ってたからな。どっかの店のホステスだかコンパニオンだかが、お前に嫉妬してこんなもん入れたんだろ」

 涼しげな顔でそんなことを言って、赤木さんは掴んだままのオレの手首を緩く引く。

「まぁ、年甲斐もなく浮かれて惚気まくった俺が悪ぃんだろうけどよ、」

 淡々と言いながら、口紅を掴んだままのオレの指先に唇を落とす。

「……お前も、嫉いてくれたんだろ。だったら、惚気た甲斐もあったってもんだ」

 ――よくもまあしゃあしゃあと。人の気も知らないで……
 文句や悪態は、舌に乗せる前に溶けて消えた。
 愉しそうに細められた赤木さんの鋭い目が、獲物を狩る獣のように光っていたからだ。
 その光に一旦魅入られれば、もう逃げられない。絡め捕られる、呆気なく、無力に。
 背筋がゾクゾクして、嬉しくて悔しくて、勝手に涙が溢れた。


 白いスーツのポケットに口紅を忍ばせた相手が、どこの誰かも赤木さんは知らないのだ。
 その女性はきっと、赤木さんのことを本気で好きなのだろうに。

 口紅を見つけたオレが、傷つくことを期待して。
 赤木さんとの間に、波風が立つことを期待して。
 そしてあわよくば、口紅の持ち主である自分のことを思い出してくれることを期待して。

 周到に計算された、狂おしいほどの情熱に満ちたオレへの攻撃。
 だけどその人の顔も思い出せない赤木さんは、今オレの部屋にいて、オレのベッドの上で、オレの指先にキスしている。

 そのことにゾクゾクする。
 どうしようもない愉悦に体の芯が震える。
 こんなみっともない嫌な奴に成り下がっちまったことが悔しくて、次々と涙が流れる。
「泣いちまうほど嫌だったのか。悪かったよ。不安にさせちまったな」
 オレの指に唇を触れさせたまま、労るような言葉を吐きながら、赤木さんは愉しそうに笑っている。
 単純なオレの複雑な気持ちなど、神域の男には手に取るようにわかってしまうのかもしれない。

 どんなに悔し涙を流しても、ほら、とやさしく促しながら手を引かれれば、抗うことなどできるはずもなく。
 みっともなく泣きながら、オレはしなやかな体に覆い被さり、見ず知らずの女性の口紅に彩られた、艶やかな唇に口づける。

 いつもより滑らかに潤った感触、人工的な薔薇の香り。
 呪わしい気持ちで下唇に噛みつけば、憎たらしい恋人は笑ってオレの頭を撫でるのだった。






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