こぼさないで 赤木視点 暗い話


「いただきます」

 そう言って箸を取るカイジを見て、俺も自分の前に揃えて置いてある箸を持ち上げた。

 机の上に並んでいるのは、豚しゃぶのサラダと、焼き茄子。それに冷や奴と、具だくさんの味噌汁までついている。

 どれから食べようかと逡巡してから、まずサラダを口に運ぶ。
 よく冷えたレタスや水菜やトマトと、やわらかい茹で豚に、さっぱりと酸味の利いたたれがかかっている。今日みたいな暑い日の夕飯にぴったりだ。
 刻んだ梅肉が入っているようだが、ひょっとしてこのたれも手作りなのだろうか?

「口に合いませんでしたか……?」
 箸の進みが遅くなっちまったのを見咎めたカイジが、尋ねてくる。
 わかりやすく曇った表情に、つい笑ってしまいながら、首を横に振ってやった。
「いや、旨いよ。お前、料理上手くなったな」
 そう褒めても、カイジの表情は暗いままだったが、世辞ではないことを示すために箸を進めると、ようやくホッとした顔になって冷や奴を崩し始めた。

 このところ、なぜかカイジはやたら張り切って料理をするようになった。
 しかもそのすべての味付けは、俺の口に合うようにと考えながら作られているらしい。

 カイジが節約のため、意外にまめまめしく自炊しているのは知っている。
 しかし、それも必要に迫られてやむを得ずといった感じで、料理が好きだからとか、そういう理由で進んでやっているわけではなさそうだったし、カレーとか野菜炒めとかそうめんとか、比較的手軽に作れるものをドカッと一品作って終わりというパターンが、以前のカイジには多かった。

 それはそれでべつによかったし、文句など一度も言ったことはない。
 それなのに、最近になって急に、カイジの料理は以前より多少凝ったものに様変わりし、品数も増えた。

 彩りも鮮やかに、賑々しくなった食卓の上を眺めながら、俺はカイジに訊いてみる。
「なぁ……お前、急にどうしたんだよ」
「えっ……?」
「こんなに、料理に凝り出すなんて」
 カイジはわずかに目を見開き、俺の顔を凝視していた。
 ……なんだ? 俺の頬に飯粒でもついてるんだろうか。
 常にはないその反応を訝しく思っていると、カイジは俺からすっと目を逸らす。
「……凝る、ってほどのモンじゃないですよ。これくらい……」
 焼き茄子を箸でつつきながら、カイジは曖昧に笑ってそう答える。
 その笑顔がなんだかやたら心にひっかかる気がして、落ち着かない気分になる。
 俺は頬を掻いた。
「あのな、カイジ。俺のためにやってるんだったら、無理しなくていいぞ。手間だって、結構かかってるんだろ? 俺は嬉しいけどよ……」
 そう言うと、カイジは俺の顔をじっと覗き込む。
「赤木さん、喜んでくれてるんですね」
「ん? そりゃあ……お前の作るモン、好きだしな」
 途端に、カイジは嬉しそうに頬を緩ませる。
「じゃあ……いいです。あんたが喜んでくれるなら、こんなの手間のうちに入らねぇ……」
 ちいさな声でそう呟き、綻ぶ口許を引き締めようとするカイジに、こちらの目許も緩む。
 かわいいこと言ってくれるじゃねえか。
 はにかんだような顔をもっと見たくなって、俺はふと、思いついたことを口に出してみることにした。
「なぁ……カイジ」
「はい」
 生姜をたっぷり乗せた焼き茄子に醤油をつけながら、俺は軽い調子で言った。
「今度よぉ、旅行に行こうぜ。今はまだ暑いから、もうちょっと涼しくなったらさ……」
 完全に思いつきでの発言だったが、口に出してみるとまるでずっと前からそうしたかったかのように、乗り気になってきた。
 こいつと気侭にふたり旅か。満更、悪くなさそうだ。
「秋口でもいいが、紅葉が見られる十一月まで待つのもいいな……定番の京都でもいいが、せっかくだし、お前の行きたいとこへ行こう。どうだ、カイジ?」
 行き先をあれこれと想像して、柄にもなく心が弾んだ。
 道中、嬉しそうにはしゃぐコイツの姿が目に浮かぶようだと、焼き茄子を食みながらカイジを見る。
 だが、カイジは引き攣った顔に、凍りついた笑みを無理やり貼りつけているような、奇妙な表情を浮かべていた。
「……カイジ?」
 名前を呼ぶと、氷が溶けるようにカイジの顔がくしゃりと歪む。
「はい……! ぜひ、連れてってくださいっ……!!」
 カイジは破顔し、元気よくそう言った。
 泣き笑いみたいにいびつな表情で、大きな目を潤ませながら。
「おいおい……なにも泣くこたねえだろう?」
「すんません……う、嬉しくて……」
 カイジは照れたように笑いながら、赤くなった目許を擦る。
 だが、直前のあの表情を鑑みるに、嬉し泣きだというのはどうにも怪しい気がする。
 カイジは、俺になにか隠し事でもしているのだろうか?
 馬鹿な奴だな。お前は嘘が下手なんだから、隠し事なんて無理に決まってるだろう?
 さて、どう暴いてやろうかとカイジの顔を眺めつつ、俺は味噌汁の椀に手を伸ばす。

 が、なぜか目測を見誤り、指をぶつけて机の上に椀を倒してしまった。

「あ」

 思わず声が漏れる。

「だ、大丈夫ですかっ、赤木さんっ……!!」
 カイジの慌てた声。
 机の上に置いてあった布巾で、机の上に広がった水たまりが手早く拭き取られていくのを、俺はただぼんやりと眺めていた。

 思い出したのだ。
 つい最近、似たようなことがあったのを。
 それも、一度や二度ではない。
 カイジが作ってくれた味噌汁を、俺はこんな風に、なんどもなんども零していたのだ。
 ほぼ毎日のように。

 零すようになったのは、味噌汁だけじゃない。
 脳味噌から、記憶からなにから、いろんなもんがぼろぼろと零れ落ちていく、その只中に自分がいるってことを、今ようやく思い出した。

 カイジは無言でうつむいたまま、机の上を拭き続けている。
 白い布巾はあっという間にうす茶色く染まり、カイジはすぐさま新しい布巾に取り替えて掃除を続けた。
 机の端を見遣ると、真新しい布巾がたくさん、積み重なっているのが目に入る。

 そうだった……なぜ、忘れていたんだろう。
 零しちまうとわかってて、それでもお前の味噌汁が好きだから、作ってくれという俺の我が儘に、こいつはつき合ってくれていたんだった。
 味噌汁だけじゃなく、慣れない料理のレパートリーまで増やして。

 零した味噌汁がカイジの手によって掃除され、布巾がどんどん水を吸っていくのにつれて、俺の脳も知らず知らずのうちに零しちまってた自分とカイジについてのことを、思い出し始めた。


『今度よぉ、旅行に行こうぜ。今はまだ暑いから、もうちょっと涼しくなったらさ……』

 昨日。昨日も確か、まったく同じ流れで同じことをカイジに言ったのだ、俺は。
 ひょっとすると、昨日だけではないのかもしれない。恐らくはもっと前から、自分の言ったことを忘れては、まるで初めて思いついたみたいに、同じことを繰り返し言っちまってるんだと思う。

 旅行の話を持ち出したときにカイジが見せた、やる瀬ないような表情の意味も、今やっと理解できた。

 紅葉の見られる十一月には、俺はきっともうこの世にいないというのに、それをカイジにも話して、残りわずかな時間をできるだけ共に過ごそうとしていたというのに。
 それなのに、暈けた俺はそんなことすっかり忘れ去って、果たせるはずもない未来の約束なんかを、なんども、なんども、カイジと交わしていたのだから。


 カイジは黙ったまま、俺が汚した机を拭き続けている。
 そうする必要などまったくないのに、カイジは腕に力を込めてゴシゴシと、ニスが剥がれるくらいに机を強く擦っている。
 やりきれない気分をぶつけているみたいに。

 ずいぶん惨いことをしちまってたんだな、と思いながら、明日も同じことを繰り返しちまうかもしれない、とも思う。
 自分のことなのに自分ではどうすることもできないのが、歯痒かった。

「カイジ」
 名前を呼び、その腕を掴むと、カイジはぴたりと動きを止める。
 次いで、堪えきれないという風にその肩が大きく震え始め、腕を掴む俺の手の上に、熱い雫が数滴、零れ落ちてきた。

「ごめんな……カイジ」
 謝ると、カイジはしゃくり上げながら首を横に振る。
 黒い髪の隙間から、僅かに垣間見える顔は真っ赤に泣き腫らし、悲愴に歪んでいた。

 俺が、味噌汁から記憶から、いろんなもんを零すようになるにつれ、カイジも涙をたくさん零すようになったな。
 やさしい、いい奴だ。
 本当は、泣かせたくなんざねえんだが。

 俺はカイジの顔を覗き込み、溢れる涙を指で拭ってやる。
「なぁ……泣くなよ。俺はお前の笑ってる顔が見たいんだ」
 お前の泣き顔も俺は好きだが、ここ最近はちっとばかし、堪えるんだよ。
 カイジは嗚咽混じりに、ごめんなさい、と言い、それでも涙は止まらない。
「謝らなくていいから。もう」
 零さないでくれ、と続けようとして、俺は口を噤む。

『こぼさないで』って本当に言いたいのは、こいつの方だろう。
 味噌汁も記憶もこいつとの思い出も、次々と零れさせてしまう俺と過ごすのは、こいつにとってどんなに辛いことだろう。

 そう思ったから、俺はそれ以上なにか言うのをやめ、無言でカイジの体を抱き寄せた。
 カイジは俺の体にしがみつき、身も世もなく激しく泣く。

 今、こうして泣くカイジを抱き締めていることさえも、明日になったら忘れちまうんだろうか?
 そうならなければいいなと思いながら、俺は静かに瞼を閉じる。

 開け放しの窓の外から聞こえる蜩の声に耳を澄ませながら、零れつづけるカイジの涙が首筋を濡らしていくのを、ずっと感じていた。






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