おはよう ただの日常話



 ある朝、電車に乗るためにしげるが駅に向かっていると、気忙しげな通勤時間帯の風景に不似合いな、やたら大きくて割れた音が耳に飛び込んできた。
 音のした方を見ると、しかつめらしくみっしりと並べられた駐輪場の自転車が、今まさに、ドミノ倒しのようにバタバタと倒れていくところだった。
 ドミノのスタート地点で呆然としているのは、パンツスーツ姿の、二十代前半くらいの若いOLだ。
 彼女はすぐにはっとした顔になり、慌てて倒れた自転車を立て始める。
 必死に自転車を直すOLの姿を、街行く人はみんな見ていたが、急いでいるためか、気の毒そうな顔をしつつも、皆一様に目を逸らして足早に彼女のそばを通り過ぎていく。

 あからさまな見て見ぬフリが続くなか、その他大勢の人々と同じように通り過ぎようとしたひとりの男が、女性から数歩離れたところでぴたりと立ち止まった。
 しげるがその様子を注視していると、男は、ひとりぼっちで自転車を直し続けるOLの様子をチラチラ窺いはじめた。
 ずいぶん迷っているようだったが、しばらくして、腹を決めたように踵を返す。

 振り返ったその顔に、しげるはあっと思った。
 いつもの革ジャンとジーンズではなく、地味なジャケットとスラックスだったから後ろ姿ではわからなかったが、その男はまぎれもなく、伊藤開司だったのだ。

 カイジは女性と逆側の端っこの、最後に倒れた自転車から立て直し始める。
 音でカイジの存在に気がついたOLが、ぺこぺことお辞儀して、それに対してなぜか自分までお辞儀を返すという挙動不審な行動を取りながら、カイジも自転車を直していく。
 両端から黙々と自転車を直すカイジと女性の距離は順調に狭まってゆき、やがてカイジが最後の自転車を立て直して、すべての自転車が元通りになった。
 改めて、なんどもなんども女性にお辞儀され、カイジは大仰にひらひら手を振ってみせたり、頭を掻いたり、またしてもぺこぺこしてみたり、非常に居心地悪そうにしている。
 その姿に、しげるは思わず笑みを零す。
 基本的に、まっすぐな感謝を向けられるのに慣れていないのだ、あの不器用な人は。

 最後にもう一度、深く頭を下げ、女性はくるりとカイジに背を向けると、急いでいるのか、猛ダッシュで駅の方へと駆けていった。
 その後ろ姿をぼんやり見送ってから、腕時計に目を落とし、カイジは悄然と肩を落とした。
 携帯を取り出し、軽く操作してから耳にあてる。
 申し訳なさそうな顔で電話の向こうの相手に何か言っていたが、ものの一分もかからないうちに通話を切り、携帯をポケットに仕舞い直した。
 そして、気を取り直したように一歩、足を踏み出した。
 刹那。
 ガシャン、と、耳慣れた音が響き、バタバタバタ……と、直したばかりの自転車がまた倒れていった。
 どうやら、最後に立て直した自転車に、カイジの足がぶつかってしまったらしい。
 口をあんぐりと開けて、いったいなにが起こったのか理解できない、というような顔で、再び始まったドミノ倒しを眺めているカイジに、しげるも再度、笑ってしまう。

 自転車はさっき女性が倒したところよりもずっと先まで倒れ続け、しばらく経ってようやく止まった。
 うるさい音がやみ、一瞬辺りがしんと静まりかえったような錯覚に陥る。

 カイジは開いた口を閉じ、そろりと辺りを窺う。
 街行く人々の視線がちらちらと自分に注がれているのを確認して、うんざりしたようにため息をつくと、だるそうに屈み込んでまた倒れた自転車を直し始めた。
 誰にも見られていなかったら、そのまま立ち去ってやろうとでも思っていたのだろうか。
 その心の動きが手に取るようにわかって、しげるは三度、笑った。
 たった数分の出来事で、三回も自分を笑わせることのできるカイジさんって、実はすごいのかもしれない、などと思いながら、哀愁の漂う背中に近寄る。


「おはよう。災難だね」
 しげるが声をかけると、カイジは中腰のまま振り返り、嫌そうに顔をしかめた。
「お前、見てたのかよ……」
 せっかく人助けしたのにこんな目にあってしまった我が身の不運に、泣きそうな顔をしているだろうと予想していたしげるは、意外に淡々としたその様子に、なんだか肩透かしを食ったような気分になる。
「泣いてるかと思ったのに」
 がっかりしたようなしげるの物言いに、「残念がってんじゃねえよ」と文句をつけながら、カイジはてきぱきと自転車を立て直していく。
「だってカイジさんさ、今日バイトの面接だったんじゃないの」
 しげるが言うと、カイジは驚いた顔で振り返った。
「おま……なんで、それを?」
「ちゃんとした服、着てるから」
「あー……そっか」
 自分の服装に目を落とし、カイジは納得したように頷く。
「時間、間に合わなかったんでしょ。あの女の人を助けたから」
 腕時計を見て肩を落としていた様子から推測して言うと、
「まぁ、な……」
 と、妙に歯切れの悪い返事が返ってくる。

 背中を丸め、よっ、と言いながら自転車を起こして、カイジはぼそりと呟いた。
「ま、こんなことがあったんだから、しょうがない……縁がなかったって、諦めるしかねえよな」
 言葉の内容にそぐわない、やけに明るく、自分に言い聞かせるような口調だった。

 それを聞いて、しげるはすぐにピンときた。
 縁がなかったとか言っているけど、本心では、面倒だとかそういう下らない理由で、面接に行きたくなかったに違いない。
 だから、時間に遅れるとわかっていながら、女の人を助けたのだ。
 困っている人を助けるためなんだからしょうがない、という免罪符のもとに、『面接に行かずに済んでラッキー』という自分勝手な本音を隠している。
 つまりこの男は、混じり気のない、純粋な、心の底からの親切心で女性を助けたわけではないということだ。

(ほんと、どうしようもない人だな……)
 そんなだから罰が当たって、今この有様なんじゃないのか。
 倒れた自転車を見ながらそんなことを考えるしげるに、カイジが声をかける。

「おい」
「なに」
「ぼーっと突っ立ってないで、すこしは手伝えよ」
 不満そうな顔をするカイジを、しげるはきっぱりと突っぱねる。
「やだ。オレだって急いでるし」
「嘘つけっ……! さっきからっ、ずっとっ、見てたん、だろうがっ……!」
 言葉の切れ目切れ目に勢いをつけて自転車を起こしながら非難するカイジに、しげるは愉快な気分になった。

「カイジさん、朝ごはん食べた?」
「え? 今朝は時間なくて、食ってねえ……いきなり、なんだよ?」
「じゃあ、ごはん食べに行こうよ。傷心のカイジさんに奢ってあげる」
 最後の言葉に、カイジはぴくりと反応する。
「いいのかっ? ーーって、いやいや、流石に中坊に奢ってもらうわけには……」
 目を輝かせかけたくせに、無駄なプライドでブレーキをかけるカイジに、
「いいってば。オレ今、多分あんたよりずっと金持ってるし」
 しげるはしれっと、カイジにとって目を背けたい現実を突きつけてやる。
「けっ。嫌なヤツ」
 吐き捨てるように言いながらも否定はせず、『奢らなくていい』とも言わず、粛々と自転車を直し続けるカイジが、やっぱり妙に可笑しくて、
「応援しててあげるから、早く終わらせなよ」
 そう、声をかけて、しげるは本日四度目の笑みを漏らした。
 
 




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