こだま しげる視点



「もう、行くのか?」

 玄関で靴を履いている最中、後ろから声をかけられて、軽く舌打ちしたい気分になった。
 振り返ると、部屋の住人が寝ぼけ眼のまま、ぼさっと突っ立っている。

 経験上、一夜の宿を借りた相手は、それだけでもう親しい間柄になったと勘違いするらしく、ずるずる引き止めようとするか、うっとうしい詮索をしてくることが多かった。
 だから、相手が起きないうちに、そっと抜け出すつもりだったのに、どうやら、身支度をする音で起きてしまったらしい。

「お世話になりました」
 できるだけ儀礼的に聞こえるように、そう言って頭を下げる。
「いいって……べつに」
 住人は頭を掻く。
 まだ歳の若い、男だった。
 髪が長いことと、頬、指、耳の傷を除けば、普通の、自堕落そうな男だった。

 男とは、雀荘で出会った。
 入店するなり挑発的に挑んできた、破落戸どもと打つのを見ていたらしい。
 べつにサマやらなくたって勝てたけど、相手があんまり見え透いた、下手くそなイカサマ仕込んで勝った気になっていたのが面白かったから、奴らと同じイカサマを、そっくりそのままお返ししてやった。
 そしたら決着がついた後に相手がキレだして、胸ぐら掴まれて一触即発って雰囲気になったとき、男が間に割って入ってきたのだった。
 奴らは最初こそ男に対して凄んでいたけど、男の体に残る傷に気がついてさっと顔色を変え、でかい舌打ちをして出て行った。
 それから、なんとなく会話の流れで、男のうちに一泊させてもらうことになったのだ。

「もうあんな、無茶苦茶な真似すんなよ……っつっても、無駄かもしれねぇけど」
 男がぽつりと、独り言のように漏らすのを聞き流す。
 女みたいにしつこくないのは助かるが、この男は見かけに寄らずお節介だ。
 とんとん、とスニーカーの爪先で土間を蹴って、男を見る。
 別れの挨拶をしようとオレが口を開くより先に、男の声がした。

「またな」

 その言葉を聞いて、思わず固まってしまった。
 一夜限りの宿を借りただけの他人の口から、その言葉が出てくるなんて思ってもみなかった。
 というより、その言葉を聞いたこと自体がえらく久しぶりで、一瞬なんて言われたのか理解できなかった。
 まるで、べつの国の言語みたいだった。

「……どうした?」
 硬直するオレの顔を、男は不思議そうな顔で覗き込んでくる。
 なにひとつおかしいことは言っていないというような、まっすぐな目だった。
『また』があることを、信じて疑わないような顔だった。
 あたりまえのようにその言葉を使う男に、すこし気圧されたような気になりながら、オレはいつもの、別れの言葉を口にした。

「……さようなら」






 まだ辺りは薄暗かったが、東の空はすでに、燃えるような紅に染まっていた。
 階段を下りて、すこし歩く。
 男の部屋の灯りが見えるところまで来て、立ち止まり、目を閉じて両手で耳を塞ぐ。
 そうすると、さっきの『またな』がずっと頭の中で反響して、脳味噌のはしばしまで、小刻みに揺れた。

『また』があるのだろうか。本当に、自分はまたここへ来るだろうか。
 ここへ、来たいと思っているのだろうか。
 考えてみても、わからなかった。
 まるで他人事みたいな感覚が、拭えない。


 だけど、さっき『さようなら』って言ったとき、なにかが違うような気がした。
 釦をひとつ掛け違えたような、ちぐはぐで些細な違和感。
 それはつまり、そういうことなのだろうか。

 男のことを思い出す。
 由来がすこしだけ気になって、でも結局聞かなかった体の傷を。破落戸を止めに入ったときの、やたら真摯的な顔を。礼を言ったときの、所在なさげなようすを。
 最後に見せた、まっすぐな瞳を。

 目を開けて、さっきまでいた部屋の窓を見上げる。
 朝焼けの空に置き去りにされた月のような、心もとない灯り。

(またね)

 ゆっくりと、心の中だけで呟く。
 すると、その言葉はやっぱり耳の奥でずっと響いて、しばらく消えそうになかった。
 それに共鳴するように、とくとくと左胸が脈打って、自分にも心臓という器官があったのだということを、その時思い出した。





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