踏み越える ほのぼの



 小さな四角い画面が、チーム対抗のクイズ番組を映しだしている。
 それを食い入るように見詰めるカイジを、隣でアカギはじっと見ていた。

 眉を寄せて首を傾げたり、なにかを指折り数えてみたりして、やっぱりわからないのか、難しい顔のままため息をついてしまう。
 正解が発表され、テレビの中が俄に騒がしくなるのと同時に、カイジも小さな声で、あー、とか、なるほど、とか言って、ものすごく悔しそうな顔をする。
 緊張していた体を解すように大きく伸びをしたところで、ようやく、カイジはアカギの視線に気がついた。
「……なんだよ?」
「くち、開いてるぜ?」
 思いも寄らないことを指摘されて、カイジはすこし、赤くなった。
 それを誤魔化すように咳払いをひとつして、唇をぎゅっと引き結び、次の問題にチャレンジするべくふたたびテレビを見る。
 だが、テレビ番組に集中するとバカみたいに口が開いてしまうのはカイジの癖のようなもので、しばらくするとまた、薄くぽっかりと口が開く。
 アカギはもうなにも言わず、笑い出しそうになるのをこらえてそれを眺めていた。

 カイジといるのは、飽きない。
 そう、アカギは思っている。
 さして面白い会話があるわけではなく、むしろ今みたいに、黙っている時間の方が多い。
 だが、アカギはなぜかこの散らかった狭い部屋に、居心地の良さを感じていた。
 それはとりもなおさず、住人であるカイジに対するアカギの気持ちそのものなのであって、その感情がなんなのか、わからないほどアカギは子どもでもないし、鈍感でもない。
 それに、カイジの方だって、自分に対して似たような気持ちを持っていると、自惚れではなくアカギはそう確信している。
 その根拠はカイジの、ふとした態度や仕草、自分を見る眼差しの端々に現れていて、きっと自分もこんな風に相手の目に映っているんだと思うと、アカギはもう、苦笑するしかなかった。



 それなのに、ふたりの関係は、いまだ『友人』、もしくは『知人』という枠から出られないでいた。

 ふたりの間には、一本の線があった。
 ふたり以外の人間には見えない、でもふたりにははっきりと見えている、まっすぐな境界線。
 踏み越えようと思えば今すぐにでも越えられるのに、なんとなく互いに躊躇っているような、しらんぷりしながら、相手が先に自分の方へ踏み込んでくるのを待っているような、そういう線だった。
 先に我慢できなくなって、向こう側にいる相手の方へ一歩、近づいた方が負け、とか、そういうルールがあるわけじゃない。
 だけど、こういうことに関するふたりの気質はよく似ているから、まるで示し合わせたかのように、線を挟んだ向こうから見つめ合いながら、うろうろしているのである。
 遠回りで不器用でめんどうくさい、恋のかたちだった。

 クイズ番組は、いつの間にか終わっていた。
 カイジが時計をちらりとみたので、つられてアカギもその視線の先を追う。
 時刻はすでに、九時を回っていた。
 今日は朝からこの部屋にいたので、丸半日以上ここで過ごしたことになる。
 今までにないくらい、長居してしまったなと思いながら、アカギは立ち上がった。

 ダウンコートに袖を通していると、カイジものっそりと立ち上がる。
「え……帰んの?」
 すこし、不満げに聞こえないこともない、その声にアカギは一瞬どう返事しようか考えてから、結局、
「……帰るけど」
 と答えた。


『泊めて』なんて、言うのは簡単だった。
 でもそれは、自ら線を踏み越えてしまうということだ。
 アカギにはそれが、なんとなく癪なのだ。
 だからアカギは、居心地のいいこの部屋に、一度も泊まったことがない。
 この部屋で一晩過ごしてしまえば、いろいろなことが起こるってわかっているのに、そしてそれは、たぶん互いにとって嬉しいことのはずなのに、
「……そっか」
 無駄に聞き分けよく、カイジも引き下がってしまう。

 まったく、いつまでこんな風にぐるぐるしているつもりなのだろうと、互いが互いに呆れ、自分自身に呆れている。
 それがわかっていながら、妙なプライドに固執して、ふたりは滑稽なほど動こうとしないのだった。





 玄関に移動するアカギに、カイジもぺたぺたと裸足で床を踏んでついてくる。
 靴を履いている間中、カイジの視線が痛いほど自分の背中を刺すのを、アカギは感じていた。

 振り返り、カイジの顔をまともに見ながら、
「じゃあね、カイジさん」
 そう挨拶して、くるりと背を向けてドアノブに手をかけた。
「ああ……じゃあ、な」
 歯切れの悪い言い方で、もごもごと呟かれた、その声を聞きながらアカギはドアを開け、一歩、外へ踏み出した。

 ……踏み出そうと、した。

 服がなにかに引っかかって、緩く後ろに引き戻されるような感覚があって、アカギは足を止めた。
 首だけで振り返ると、コートのフードが、無骨な指に掴まれている。
 その掴み方は、えらく控えめで、叱られた子どもが母親の気を引こうと服の裾を掴んでいるような、頼りない掴み方だった。
 視線を上げると、カイジはアカギから目を逸らして、あさっての方向を向いている。

「……手が、勝手に動いた」

 ぼそぼそと、言い訳がましい呟きが、カイジの口から零れ出た。
 その手は相変わらず、フードをきゅっと掴んで離そうとしない。


 アカギはしばらく黙ったのち、クスリと笑った。

「そんな引き止め方、されたらさ」

 カイジに向き直り、嫌そうに背けられるその顔を下から覗き込むようにしながら、柔らかい声音で言う。

「今までしたくてもできなかったこと、しちまうかもよ」
「べつに……すれば」
 ぶすっとした、けれど拒否ではない返事を聞き、さらに続ける。
「ちょっとひどいことも、するかもよ」
「か、構わねえけど」
「あんたのこと、泣かせちまうかも」
「! ……泣かねえよ……っ!」

 思わず、といった様子で、赤くなった顔が上げられる。
 アカギはすかさず身を乗り出して、その唇を塞いだ。
 カイジはびくりと身を竦ませ、しかし逃げずにアカギの唇を受け入れる。
 重なった唇は、かさかさに乾いていた。


 軽く触れ合わせただけですぐに離れ、アカギはニヤリと笑う。

「口が、勝手に動いた」

『泣かねえよ』なんて、威勢よく啖呵を切ったばかりのくせに、カイジはもう、泣きそうな顔をしていた。

 その表情には、嬉しさと同じくらい、さっきクイズの答えを聞いた時と同じような悔しさが滲み出ていて、ああこの人は今きっと、負けたような気分なのだろうとアカギは思った。


 今まで守ってきたプライドをかなぐり捨ててでも、自ら線を踏み越えて自分の側へきたカイジに、アカギは体の芯がほのあたたかくなるのを感じた。
 そして、今度は自分からもカイジに近づくために、今まで使えなかった台詞を、口に出すのだった。


「カイジさん、今夜、泊めてくれる?」





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