転じて福・2(※18禁)
どこをどう走り抜けたのか、気がつけばカイジはそこそこ立派な桜並木の下を、花見客を押し退けるようにしながら進んでいた。
赤木の手を引いたまま、とりあえず隠れられるような場所を探してきょろきょろしていると、人の流れから外れた場所にある、レンガ造りの小さな建物が目に入った。公衆トイレである。
これ幸いと、カイジはそこへ駆け込む。
洋式の個室に赤木を押し込め、自分も入って扉を閉めた。
鍵をかけ、耳をそばだてて外の音を聞く。
他にトイレを使っている人間はおらず、外にいる人々の声や、雑多な音だけが遠く聞こえる。
追っ手が入ってこないことを確認してから、カイジは背中を壁に預けてようやくほっと一息ついた。
走っている間は気にならなかった汗が、今になって全身の毛穴からどっと熱く噴き出してくる。
無理をさせ続けた気管と肺が、ずきずき痛む。
やたら粘度の上がった唾液は、血みたいな味がした。
苦しげに全身で息をするカイジに対し、赤木はうっすら額を湿らせただけで息一つ切らしておらず、平然としている。
「ったく……いきなり、驚いたぜ? 年寄りをこんなに走らすなよ」
「す、みませ……っ、」
目線を合わせて呆れ声で言われ、カイジは呼吸を整える合間、きれぎれに謝る。
(ああ、オレってかっこ悪い……)
憧れの赤木しげるにこんなみっともないところを見られてしまって、カイジの矜持はもうズタズタだった。
滴る汗が目に入って、赤木の姿が滲んで見える。
激しく上下するカイジの肩を見ながら、赤木は労るような声を出す。
「事情はよくわからねぇが……災難だったな。大丈夫か?」
カイジが借金取りに追われているのだということは、もう誰の目にも明らかなのに、あえてそれに気づかぬふりをしてくれて、根掘り葉掘り事情を聞こうともしない赤木のやさしさが、カイジには沁みた。
汗ではないもので視界が滲みそうになり、カイジは慌てて明るい声をつくる。
「ほんと、今日は最悪です……パチンコで負けちゃったし……」
「はは、そうなのか?」
久々に見る赤木の笑顔。
こんな状況だからか、やたらそれが眩しく見え、カイジはそれだけで上気した。
「でも……あんたに会えたから、これでチャラかな……」
そんな言葉が、自然にカイジの口から零れ落ちた。
赤木が目を丸くするのを見て、自分がえらいことを口走ったことに気がついたカイジは、赤い頬にさらに血の気を上らせる。
「あ……えっと、すんません、こんな狭くて汚いところに押し込めちゃって……もう、出ましょう」
下を向いたまま、慌てて鍵を外そうとするカイジの手を、今度は赤木が強く握った。
「え……あの、赤木さん?」
困惑しながら赤木の様子を窺うカイジに、赤木は静かに問いかける。
「なぁ……なんで、俺を連れて走ったんだ?」
「え……」
「あそこで出くわしたのはまったくの偶然だったわけだし、俺をひっぱってく必要なんて、なかったんじゃねえか?」
カイジは軽く唸る。
そう言われれば、そうだ。
だけど、せっかく出会えた赤木と、あそこで別れるなんて選択肢、カイジの中には始めからなかったのだ。
あまりにも自然に、そうするのが当たり前のように、カイジは赤木の手を掴んで、駆け出していた。
「だってなんか、離れがたくって……ただでさえあんまり、会えねぇのにさ」
まっすぐに赤木を見ることができず、カイジは相変わらずうつむきながら、ぼそぼそ喋る。
乱れた髪の間に見え隠れする耳が、美味しそうな赤に色づいていて、赤木は引き寄せられるように、そこに唇を寄せた。
「ひっ……!? あ、かぎ、さんっ……?」
耳に軽く歯を立てられ、カイジはびくりと肩を竦ませる。
噛んだ場所を舌で舐め、赤木はカイジの耳に息を吹き込むようにして囁く。
「悪ぃ。ちょっと、ムラッときちまった」
「えっ!? な……っ、あんた急に、なにサカってんだよ……!!」
予想外の台詞に戸惑ったように身じろぐ体を腕で囲い、壁に押しつけながら赤木は間近でカイジの目を覗き込む。
「こんな狭い場所で、ふたりきりで、かわいいお前にそんな誘い文句言われたら、ムラつくなって方が無理な相談だろうが」
「誘ってねぇっ……! てか、かわいいとか言うなっ……!!」
じたじたと暴れるカイジの頬に赤木は唇を滑らせ、流れる汗を舐め上げる。
「カイジ……」
甘く囁きながら、傾けた顔を近づけてくる赤木との間に咄嗟に手を差し入れ、顔を思いきり背けながらカイジは叫ぶ。
「アホかっ……!! よりによって、こ、こんなとこでっ……!!」
「したくなっちまったもんは、しょうがねえだろうが」
しれっと答え、赤木は口に押し当てられたカイジの手のひらをべろりと舐め上げる。
完全にスイッチの入ってしまった赤木のやる気を削ぐべく、カイジはあれこれと理由をこじつけて止めさせようとする。
「ほらオレ、すげー汗かいてるしっ……!! せめてシャワー浴びてからっ……!!」
「構いやしねえよ。どのみちこれから、もっと汗かくんだから」
まったく動じない赤木に内心頭を掻きむしりながら、それならばと、今度は赤木の好きそうな言い回しを必死で考え、口に出す。
「ね、赤木さん。ここは、嫌です……広いベッドのあるところで、もっとゆっくり……」
最後の方になるにつれ、声はか細くなっていった。
人見知りの子どもみたいにもじもじとうつむくカイジの様子に嗜虐心を擽られ、赤木は意地悪く問いかける。
「声が小さすぎて、聞こえねえよ。もっとゆっくり……どうしたいって?」
「……っ!」
カイジは弾かれたように顔を上げ、許しを請うような瞳で赤木の顔を見る。
だが、細められた赤木の瞳に逃れられないことを悟ると、唇を一度きゅっと噛み締め、そろそろと口を開く。
「もっとゆっくり、あんたに……か、かわいがってほしい、です……」
今にもぷつりと途切れそうな声で、それでもカイジはなんとか言い切った。
カイジが短時間で精一杯、ない頭を捻って考えた、赤木の好きそうな台詞がこれだった。
羞恥に目を潤ませ、ぶるぶると体を震わせるカイジを見て、そのいじらしさに赤木は腕組みして、迷っているようなポーズをとってやる。
「うーん……そうだな……」
赤木の心は端から決まっていたが、カイジがそんなことに気づくはずもなく、恥ずかしさを堪えながら言った自分の台詞が功を奏して赤木の心を揺さぶっているのだと思い込み、縋るような眼差しで赤木の顔をじっと見詰めている。
今にも犬みたいに鼻を鳴らし始めそうなその様子に、ますます嗜虐心を刺激され、赤木は満面の笑みではっきりとカイジに答えてやる。
「却下。やっぱり、ここでやる」
「っな……!!」
一縷の望みに縋るような顔から一転、絶望のどん底に叩き落とされたように、カイジは蒼白になる。
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