転じて福・1(※18禁) 甘々 公衆トイレ カイジが乙女



 勢いよく飛び出した銀色の玉の最後の一球は、チューリップに入る直前で釘に阻まれ、あっさりと台に呑み込まれた。
 リーチすらなく五回転したあと、うんともすんとも言わなくなった台に、カイジはがっくりと肩を落とす。
 ハンドルから手を離すと、急に周りの雑音が耳につきだす。
 台を一つ挟んで右隣のナンバーランプが点灯している。
 そこには小柄な中年男が座っていた。大当たり中らしく、周りに比べてひときわ派手な演出と音が続いている。
 山と積みあがったドル箱を見て、カイジは地団駄踏みたくなった。
 カイジが入店したとき、そこには誰も座っていなかった。今まで打っていた台と、どちらで打とうか迷った挙げ句、カイジは今の台を選んだのだ。
 しかし、結果はこの通り。自分の選択ミスを激しく悔やんでも、もはや後の祭りである。
 逆さに振っても鼻血も出なくなった体は重く、財布は軽い。
 カイジはゆらりと立ち上がり、夢遊病者のようにふらふらとその場をあとにした。

 ポケットに手を突っ込み、とぼとぼと帰路をゆく。
 今日は週末、金曜日。
 会社帰りのサラリーマンやOL、学生らしき若者の群れ。誰も彼もどことなく、浮ついているように見える。
 足早に行き過ぎる人々の中で、カイジは自分だけがスローモーションで動いているような錯覚に陥った。

 路肩に停まっている車のスモークガラスに映る、自分の姿がふと目に入る。
 ものすごく老けて見えた。そこに映っているのが誰なのか本気でわからなくて、思わず足を止めてしまったほどに。
 皮膚が伸びきってしまったかのように、だらんとしまりのない顔。切る金もなくて、伸ばしっぱなしの黒髪。ひどい猫背。
 まるで老人みたいな風貌だが、黒い窓に映るのは確かに自分だ。つくづくと見て、カイジは深くため息をついた。
 すると、それに反応したかのように車の窓が下ろされ、突然のことにカイジはびくりとする。
 だが、下りた窓の向こうにいた男の風体にいやというほど見覚えがあって、思わず「げっ」と声を漏らした。
「お前……伊藤カイジか?」
 低く呼びかけられた、その声にまったく聞き覚えはない。
 だが、黒いスーツにサングラス、角刈りとくれば、そいつはあの企業関係者以外のなに者でもないわけで、条件反射的に、しっぽを巻いて一目散に逃げ出す他の選択肢が、カイジにはなかった。
「てめぇ、待ちやがれコラっ……!!」
 猛スピードで駆け出したカイジの耳に、怒号とともに乱暴にドアを閉める音が届き、カイジはいっそう足を早める。
 眉を顰められたり舌打ちされたりしながら、人の群れをかき分けるようにして夜の街を走り抜ける。
 捕まったら殺されるかもしれない。まさに、死にもの狂いだ。
 息を切らしながら走って、走って、それでも追う足音はどこまでもついてくる。しかも複数。どうやら、他にも何人か、車に乗っていたらしい。

 つんのめるようにして何度目かの角を曲がった瞬間、ちょうどそこにいた人に、カイジは体ごと思いきりぶつかった。
 相手は、すこしだけ足許をよろつかせる。
「おっ……と」
「あっ、す、すんませんっ……!!」
 おざなりに頭を下げ、顔を上げた瞬間、追われている真っ只中だということも忘れ、カイジは相手の顔に釘付けになった。
「あっ……赤木さんっ!?」
「なんだ、カイジか。偶然だな」
 赤木はそう言って、緩やかに口角を上げる。
 思いも寄らないところで思いも寄らない相手に出くわした驚きに、カイジは声すら出せず、固まっている。
「いったいどうした、そんなに急いで」
 のんびりした赤木の問いかけで、カイジははっと我に返った。
 それとほぼ同時に、後ろの方から「いたぞ!!」という声が上がり、慌てて振り返ると、黒い男たちが自分の方に迫ってくるのが見えた。
「なんだ……? あいつら」
 目を眇めて黒服たちを見る赤木の手を、カイジは咄嗟に強く掴み、走り出した。
「っと……おい、カイジ?」
(すんませんっ……赤木さんっ……!)
 すこし驚いたような赤木の声に、カイジは心の中で謝る。
 なにも言わないままひたすら走り続けるカイジに、赤木もそれ以上なにも言わず、黙ったまま手を引かれながら、カイジのすこし後ろを走ってついてきてくれた。
 それがうれしくて、カイジは息の苦しさを束の間忘れることができた。



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