火傷 甘々


「いらっしゃいませ」

 案内された部屋に入ると、朴訥そうな中年のシェフが渋い声でそう言った。
 シェフを囲むようにして、半円のテーブルが設けられていて、さらにその奥に、同じく半円の鉄板が設えてある。
 ウエイターが引いた椅子に、赤木は腰掛けながら、
「今日はこいつにうまい肉、食わせてやってくれ」
 と、自分の後ろに立つ、連れの若い男を示した。
 かしこまりました、と短く返事をして、シェフは早速調理の準備に取りかかる。
「どうぞ、おかけになって下さい」
 隣の椅子を引いたウエイターが、柔らかな声でそう言うのを聞いて、赤木はくるりと振り返る。
「どうした。そんなとこに突っ立って」
「だ、だって……」
 ガチガチに緊張している様子の連れを見て、赤木は吹き出した。
「そんなに緊張すんなって。ここは気楽に楽しめる店なんだよ。だから早く座れ、カイジ」
 赤木の言葉にウエイターも上品な笑みを浮かべ、カイジに向かって頷いてみせる。
 それを見て、カイジは鯱張った歩き方でようやく席に着いた。

 カイジが座ると、ウエイターがカイジの後ろに回り、失礼いたします、と断ってからペーパーナプキンをカイジの首にかける。
 赤木にも同じようにナプキンをつけてから、ウエイターは恭しく一礼し、部屋を出て行った。
「腹減ったろ。悪ぃな、急に呼び出して」
「いえ……もう、慣れました……」
 そう、赤木に笑ってみせながらも、いつも猫背がちに丸まっているカイジの背筋は、まるで定規でもあてられているみたいにぴんと伸びている。
 その様子に赤木も笑い、おしぼりで手を拭くと、カイジも慌ててそれに倣った。
「この間、知り合いに連れてきて貰ったんだ。もう年が年だから、俺にはちょっと重てえが、お前はこういうの、好きそうだなぁって思ってな」
 赤木の言葉が終わるのと同時に、肉の焼ける美味そうな音が上がった。
 引き寄せられるように音のした方を見て、鉄板の上で油を跳ねさせている大きなステーキ肉に、カイジは目を輝かせた。
「……すげぇ! こんな分厚くて高そうな肉、オレ初めてですっ……!」
 興奮して大きな声を出してしまい、カイジは慌てて口を噤む。
 その様子をにこやかに眺め、
「そうだろう? お前ならきっと喜んでくれると思ったんだよ」
 赤木はそう言って、頬杖をつく。

 目の前で焼いてもらえるステーキなんて、カイジはもちろん初体験だった。
 しかも、ふたりきりの個室で。
 こんな贅沢、したことがない。

 カイジは心が弾むのを抑えきれなかった。
 目の前で焼かれるステーキは香ばしく香り、カイジの空腹中枢をさらに刺激する。

 だけど、なによりも、赤木が自分のことを考えてくれて、ここへ連れてきてくれたってことが、カイジにとってなにより嬉しくて、その事実だけでもう、ふわふわと舞い上がってしまいそうなのだった。


 しばらくすると、ウエイターがあらかじめ頼んであった飲み物を運んできた。
 赤木はウイスキー、カイジはビール。
 グラスを手に取り、軽く掲げる。
「乾杯」
「はい……乾杯」
 ふたりのグラスが触れあって、涼しげな音をたてる。

 琥珀色の液体を呷る赤木の横顔を、ちびちびとビールを飲みながらカイジは盗み見る。
 ぐっと抑えられた照明に、浮かび上がる深い陰影。
 グラスを持つ白くて大きな手。まっすぐな指。
(赤木さんて、やっぱ、カッコいい……)
 物静かで、落ち着いた店の雰囲気も手伝って、カイジはぼうっとのぼせ上がったようになってしまう。
(恋人……なんだよな? オレの……)
 確認するように心の中で呟いて、紛れもないその事実にどきどきしていると、ふいに自分の方を見た赤木と目があって、カイジは心臓が止まりそうになる。
「なんだ? お前さん、ぜんぜん飲んでねぇじゃねえか。具合でも悪いのか?」
「いっいえ、そういう訳じゃ……!」
 カイジは慌ててビールをぐいっと一気飲みし、気管に入ってげほげほ噎せた。
「おいおい……大丈夫かよ?」
 苦笑しながら背中をさすってくれる赤木に、涙目で顔を真っ赤にして、カイジはこくこくと頷いた。





 それから、ふたりがいろいろと話をしているうちに、ステーキが焼き上がり、
「お待たせいたしました」
 というシェフの声とともに、カイジの前に出された。

 焼きたてほやほやの、分厚いステーキ。
 食欲をそそるその色と匂いに、カイジの喉が上下する。
 隣を窺うと、赤木が穏和な笑みで頷いてくれた。
 すぐにでもかぶりつきたい気持ちを抑え、カイジはナイフとフォークを手に取ると、肉を切り分ける。
 そう力をいれずとも、ナイフはすっと肉に沈み込み、容易く切り分けることができた。
 その柔らかさに驚嘆するカイジに駄目押しするように、切った断面から透明な肉汁がこれでもかというほど溢れ出してくる。
 もう、半分理性を溶かされたようになって、カイジは慌ただしく切り分けた塊をフォークで突き刺し、口へ運んだ。
「あづっ」
 口に入れた瞬間、カイジは顔をしかめた。
 あまりの熱さに涙が滲む。
 思わず一旦、口から出してしまいたくなるのを我慢して噛むと、溢れる肉のエキスで口の中がいっぱいになった。
 肉の繊維がほどよい弾力を感じさせ、噛むほどに旨味が増す。
 ずっと噛んでいられると思うほどジューシーなのに、あっという間に舌の上でとろけてなくなってしまった。
 最初の一切れを味わい終えて、カイジは体が解けてゆるゆるになってしまったような気持ちで、長くため息をついた。
「うますぎる……」
 心の底から呟かれたカイジの言葉に、赤木は笑った。
「お前今、口ン中火傷しただろ?」
「あ……はは……」
 照れ笑いするカイジに目を細め、赤木はカイジの方に体を向けた。
「がっつくからだよ。……ちょっと、見せてみろ」
「……え? 赤木さ……」
 赤木がごく自然な動作で、自分の顎をくいと持ち上げたので、カイジは目を丸くした。
 見開かれたカイジの瞳を覗き込み、赤木は低音で囁く。

「くち、開けな」

 カイジの体が、びくりと強張った。
 ちらりとシェフの方を窺うと、もう次に出す肉を焼き始めている。
 赤木の妙な行動が見えていないわけでもあるまいが、あえて視界に入れないように心を配っているのか、その視線はとりあえず肉にだけ集中しているように見えた。

「ほら、早くしろ」
 シェフを気にするカイジに焦れたように、赤木の親指が下唇を撫で、驚いたカイジは口を薄く開いてしまう。
 すかさずその隙間に指を入れ、赤木はカイジの舌を軽くつまんでじっと見る。
 赤木の行動に目を白黒させるカイジだが、つまんだ舌を左右に動かしたり、裏側を見たりして、まるで診察するみたいに熱心さで見る赤木に、カイジは力んだ体をすこしだけ緩めた。
「あーあー……赤くなってるぞ。こりゃあ、しばらく痛むかもなぁ」
 赤木はそう言って、カイジの舌を解放する。
 ほっと息をつくカイジだったが、顎を持ち上げている赤木の手がそのままなので、内心、首を傾げる。
「あかぎ、さん……?」
 落とされた灯りの中、やたら光って見える赤木の双眸が、じっとカイジの目を見つめている。
 その口許は微かに微笑んでいて、カイジの喉がごくりと鳴った。
(ま……まさか、こんなとこで……?)
 肉の焼ける音よりも大きな音をたてて、カイジの心臓が暴れ始める。
「カイジ……」
 くすぐったいような低音で赤木が名前を呼び、すっと目を細めて顔を僅かに傾ける。
(……う、わっ!!)
 カイジは思わずぎゅっと目を瞑った。

 ……しかし。
 カイジの予想した感触は唇に降ってこず、代わりに、きゅっと鼻をつままれた。
 カイジが目を開けると、くつくつと喉を鳴らしながら赤木はカイジの鼻をつまんでいた指を離し、ニヤリと笑う。
「今、キスされると思ったろ?」
 やらしいなぁ、カイジは。
 一瞬、ぽかんとしていたカイジだったが、赤木の言葉が耳に届くと、すぐに顔を紅葉のように赤く染め上げた。
「なっ……だっ……!」
 怒ったような顔で口をぱくぱくさせるカイジに、赤木は何事もなかったかのようにグラスを手に取る。
「肉は逃げねえよ。ゆっくり食え」
 すました顔でそんなことを言ってグラスを傾ける赤木を、言葉を失ったように眺めた後、カイジは乱暴にフォークとナイフを手に取り、ステーキをやけ食いし始める。
 その様子に、グラスにつけられた赤木の唇が、仄かに笑みをかたどった。








「……ごちそうさまでした」
 食事を終え、黒服の運転する車でアパート前まで送ると、カイジは車から降りてすぐ、そう言って頭を下げた。
「どうだった?」
 窓を下げ、車の中から聞く赤木に、
「滅茶苦茶、うまかった……幸せでした……」
 食べた肉の味をうっとりと反芻しながら、カイジは答えた。
 赤木は満足そうに笑う。
「そうか。じゃあまた、連れてってやるからな」
「はい……是非」
「また、連絡するよ」
 赤木がそう言って窓を上げようとすると、
「あのっ、赤木さんっ……!」
 カイジに呼び止められ、赤木は手を止める。
「……どうした?」
「……あの、」
 カイジはちらちらと運転席の方を窺っていたが、やがて意を決したように、赤木の目をしっかりと見据えた。
「……目、瞑ってください……」
 ぼそぼそと今にも消え入りそうな声に、赤木は目を瞬いたあと、ふっと笑った。
「……これで、いいのか?」
 言われるがまま、白い瞼を伏せると、ぎこちない手が顎にかかり、そっと顔を上げさせられる。

 精一杯の礼のつもりか? ずいぶんと、可愛いことしてくれるじゃねえか。

 恋人の思わぬ行動に笑みを禁じ得ない赤木の上に影が落ち、カイジの気配が徐々に近づく。

 ……そして。

 がぶ。

(……んん?)

 赤木は眉を寄せる。
 自分の唇に柔らかい感触がそっと押し当てられると思い込んでいた赤木を裏切って、鈍い痛みが、全くべつのところにきた。


 ……鼻を、噛まれた。歯で。


 思わず目を開けると、カイジは月を背負い、赤木を見下ろしてニッと笑っていた。

「……キスされると思っただろ?」

 さっき言われた台詞を、そっくりそのまま赤木に投げ返し、カイジは逃げるようにアパートの方へと走っていく。
 そして、階段に足をかけたところで、呆気にとられている赤木に向かって大声で叫んだ。
「そう簡単にはやんねーよ、ざまぁみろ!」
 真っ赤な顔でそう言い捨てて、カイジは階段を駆け上り、あっという間に自分の部屋へ引っ込んでしまった。

 バタン、と乱暴に扉の閉められる音を聞き、赤木は我に返る。
 それから、まだ鈍く痛む鼻を指で触り、ひとり苦笑した。
「こりゃあ、やられたな」
 ひどく愉しそうな声音で言うと、煙草を咥え、火を点ける。
 カイジの部屋のドアを眺めながら、一口だけ、深く吸って、吐いた。
(あんまり甘くみると、火傷するかもしれねえってことか)
 赤木は目元を和らげ、窓を上げる。
「出してくれ」
 運転席に向かって言うと、車はゆっくりと、滑り出すようにしてその場をあとにした。






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