カタストロフ カイジ視点 カイジが臆病 厨二病で暗め



 絶対に好きになってはいけない相手に、恋をしてしまった。
 そんなことにならないように、細心の注意を払っていたつもりだったのに。










「もう、ここへは来るな」

 なんの前触れもなくそう告げると、火の点いていない煙草を咥えたまま、アカギはこちらを見た。
 肚の底まで見透かすような目で数秒、オレを眺めたあと、何事もなかったかのように煙草に火を点け、深く吸い込む。

「どうしたの、急に」

 煙を吐き出しながら聞き返すその声は、いつもと変わらず平らで、一切の感情が読み取れない。
 まるで、底知れぬ深い穴に向かって言葉を投げ込んでいくようで、これだけでもう怯みかける心をどうにか奮い立たせる。

「もうすぐ、ここ越すんだよ」

 もちろん、そんな予定はなかった。
 こんな出鱈目が、この男に通用するとは思っていない。
 肝心なのは、こちらが本気で男を拒絶しているのが伝わることなのだ。

 アカギは声に出さず、静かに笑う。

「あんた素寒貧のくせに、引っ越しなんてする余裕あったんだ……」

 案の定、見え透いた嘘は見抜かれ、しかしアカギはそれ以上追求してこない。
 長くなった灰を灰皿に落とし、男は言葉を続ける。

「まぁ、いいや……新しい住処、教えてよ」
「駄目だ」
「どうして?」
「お前オレのとこ以外にも、塒あんだろ」

 アカギは笑う。

「そりゃ、そうだけどさ」

 自分から水を向けておきながら、ままならない胸がじくりと痛む。
 堪えきれなくなって、アカギの顔から目線を逸らし、胡座をかいた足を見ながら話す。

「だったら、いいだろ……オレひとりと縁切れたところで、痛くも痒くもねえはずだ」
「あんたさ、さっきからなんかヘンじゃない?」

 まだ長い煙草を灰皿に押しつけるのが目に入って、オレは逃げるように立ち上がる。

「じゃあな。元気で……」

 独り言のように言って、足早に立ち去りかけると、

「ちょっと待ちなよ」

 服の裾を掴まれ、息が止まるかと思った。

 オレを引き留める、ほんの僅かな力。振り切って歩き出すことなんて本当は容易いのに、悲しくなるほど足が動かない。

「ここあんたの家でしょ? どこへ行くっていうの」

(お前のいないところへ)
 心の中で、そう答える。
 気の遠くなるほどふたりきりのこの部屋から、一刻も早く逃げ出したかった。

「鍵は棚の上にある。出て行くとき、ポストにでも投げ込んでおいてくれればいい」

 できるだけ事務的に聞こえるよう腐心した。
 ヤニ焼けした壁を睨んで、平静を保つ。

「とにかく……ここにいたくねえんだ。放っておいてくれ、オレのことは、もう」

 肺の中の息を吐ききるように、一息に言った、その言葉が終わらないうち、アカギが立ち上がる気配がして、刹那、腕を強く掴まれた。
 そのまま引き寄せられ、咄嗟に背ける余裕もなく、まともに顔を見られてしまう。
 鋭い目の縁が僅かに大きくなり、ゆっくりと元に戻っていった。 

「そんな顔しといて、なに言ってるの」

 その声音は凪のように穏やかで、しかし絡め取るような残酷さを含み始めている。
 掴まれている部分が熱い。喉元をなにかが突き上げてくる。

「離せ……」

 弱り切った声しか出せないオレの息の根を止めるように、アカギは低く笑い、囁く。

「違うな。本心は逆だ……そうだろう?」

 撞着を、断罪するような言葉だった。


 訪ねてきたこいつを、これが最後だと言い聞かせて部屋に上げた。
 別れを告げるためだと。
 だけど本当は違うのだ。
 ノックの後、扉を開けてしまった時点で、オレは負けていたんだ。
 醜くこいつに執着する自分の心に。


 視界が歪んで、白い輪郭がぼやける。

 こいつに会うまでは、オレには誰もいなかった。
 でもその方がずっとずっとマシだったのだ。強がりではなく、孤独なんてものには慣れっこで、むしろひとりで生きていく方が楽だった。

 それなのにこいつに出会ってしまった。
 どうしようもなく惹かれてしまった。

 オレを見てほしいと願ったが、それ以上に邪険にされることを願った。
 相手にされなければ、人との関わりに怠惰なこの心はすぐに諦めるだろう。
 自分がこいつを必要だと思うようになるのを恐れていた。
 こいつはきな臭い世界で、一本線の切れたような自分の生き様を貫き続けている。そんな男を必要としてしまったが最後、失う恐怖に絶えず怯え続けなくてはいけない。そんなのはごめんだった。

 確かにそう思っていたはずなのに、気がつけば落ちていた。這い上がれないような深い渦に。光の届かない地獄に。
 そんなことにならないように、細心の注意を払っていたつもりだったのに。


 白くまっすぐな指先がオレの指に触れ、そこにある傷をなぞる。
 とうに治ったと思い込んでいた過去の傷を、あやまたず暴いていくような指。

「いやだ……触るな……っ、触らないでくれっ……!」

 恐怖で声が震える。
 アカギは手負いの獲物をじわじわといたぶるような目つきでオレを見る。

「そんなに嫌なら、逃げればいいのに」

 できるはずがなかった。
 ずっと焦がれていた指だった。
 恐れや迷いを知らず、確実に未来を選び取るその指に、自分も選ばれたいと思った。触れられたいと思った。
 そして、そう思う度に、自分の思いを死にもの狂いで殺してきた。


 這いつくばってでも逃げるべきだ。 
 わかっているのに、微動だにできない。
 体の底から沸き上がり、全身を金縛りのように痺れさせる感情は、間違いなく触れられることへの喜びだ。

 アカギはオレの指を離し、ゆっくりと腕を持ち上げて耳の縫合跡に触れる。

「……ぁ……」

 灼けるような痛みが一瞬フラッシュバックして、情けない声を漏らすオレに、アカギもまた、笑いを漏らす。
 頬に手を当てられて、長くてまっすぐな指が、そこにある傷を開こうとするように、なぞった。

「ねえカイジさん、オレのこと好きになってよ」

 涙が溢れた。
 絶望と歓喜、ふたつの相反する感情で、体が引き裂かれそうだ。
 吐き気がするほど最悪な、退っ引きならない恋の始まりだった。
 もといた平穏には、もう二度と戻れない。
 体を折って吐こうとしたが、吐瀉物の代わりにただ涙が次から次へと零れ落ちるだけだった。

 オレは声を上げて泣いた。
 今初めて、この世に生まれ落ちたかのように。






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