一月の日だまり 初詣に行く話 ほのぼの
二礼二拍手一礼。
教えてやったとおりに、乾いた音を響かせて二度、高らかに打ち鳴らした両の手のひらを合わせ、白い瞼を伏せるしげるの横顔を、同じように手を合わせながら、カイジは盗み見るように横目で見た。
それなりに神妙そうに見えた。大人びているとはいえ、どう年嵩に見ても十代にしか見えない容姿と、それに不釣り合いな総白髪。
見る者に不気味な印象を与えるその姿だが、こうして神妙そうにしていると、なぜだか神聖なものに映る。
さながら、ヒトの子どもの姿で現れた、神さまのようだ。ただし、中身は悪魔である。
こいつでも、神頼みしたいような願いってあんのかな。
願掛けを中断し、カイジはそんなことを思った。
腰の重いカイジと、世界中で最も『神頼み』という言葉から縁遠い人間であろうしげる。
そのふたりがこうして、神社に初詣に来ているのには、ちゃんと理由がある。
『初詣って、行ったことない』
会話の流れで初詣の話になったとき、しげるがそんなことを言い出したからだ。
年末年始はずっと悪天候で、とりわけ、昨日は東京でも珍しく一日中雪が降り続けていた。
コンクリートの街並みに、木々の枝に、しんしんと降り積もる雪は都会の人々を驚かせ、混乱もさせたようだ。
ニュースでは、首都高に連なる車の列の映像や、日を追うごとに増える転倒事故の注意喚起ばかり垂れ流していた。
バイト先と住処を往復するだけのカイジでさえ、まばらな雪景色の物珍しさに目を奪われては凍った道に足を取られて何度も転びそうになったのだから、町の混乱は当然だと言えた。
そして、凍える夜が明けた今日。
うってかわって、朝から澄み渡る晴天だった。
今までの分を取り戻すかのように、雲一つない薄青の空。
気温も、昨日までと比べれば天国かと思えるほど、暖かい。
そしてちょうどそんな日に、年末からずっとシフトに入っていたカイジの休みが重なった。
怠惰なカイジですら、どこかへ出掛けないと勿体ないとそわそわするような快晴の休日に、たまたましげるが訪ねてきた。
しげるの訪問が、カイジの腰をいっそう軽くさせた。
せっかくだし、どこかへ行こう。人混みは嫌だから、近所の神社に初詣とかどうだ、と、珍しくカイジから切り出すと、しげるが初詣に行ったことがないと言い出した。
それじゃあ行ってみるか、という流れで、カイジのアパートから歩いて十五分ほどの、小さな神社に初詣に来たのだった。
しげるが瞼を下ろしていたのはほんの数秒のことで、すぐに目を開けてさっさと一礼してしまうと、カイジの方を見る。
カイジは慌ててしげるから目をそらし、中断していた願掛けを再開した。
カイジが願うことといえば、やっぱり金だ。それから、たくさんギャンブルに勝てますように。就職……は、まだちょっと先でいいか。
相変わらず駄目ニートの思考回路で、カイジも願掛けを終え、しげると並んで石段を下りた。
鳥居へと続く石畳を歩きながら、辺りを見回す。
三が日も過ぎてしまっているので、カイジたち以外の人影はなく、辺りはしんとしている。
時々、空の高くを飛ぶ鳥が、長く尾を引く鳴き声を上げた。
「しげる、お前なに願ったんだ」
興味本位でカイジが訊くと、しげるは首を横に振って答える。
「べつになにも……腹減ったな、とか、考えてた」
「はぁ?」
カイジの口から頓狂な声が上がる。
「腹減ったって、お前……願掛けの意味わかってんのか?」
「だって、叶えたい願いとか特に、ないから」
あっけらかんと言うしげるにカイジは呆れる。
『じゃあなんで初詣なんか』と言おうとして、そもそも提案したのは自分の方だったということを思い出し、カイジはすこししょげた。
「その……、悪かったな。無理矢理連れて来ちまったみたいで。つまんなかったろ」
「そうでもないよ。いい経験になった」
しげるは淡々としていたが、その言葉に嘘はなさそうだったので、カイジは内心ほっとした。
それにしても、端から見たらあんなに神妙そうだったのに、『腹減った』とは。
ある意味、こいつらしい。
時計を見ると、丁度正午を回ったところだった。何か食いに行くか、と言おうとしたところで、しげるが先に口を開いた。
「カイジさんこそ、やたら熱心だったけど、なにをお願いしたの」
「ん? そりゃもちろん、」
金とか、ギャンブルとか。包み隠さず、願掛けした内容を教えてやる。
しげるはバカにするでも呆れるでも、笑うでもなく、ふうん、とだけ言った。
「カイジさんらしいね」
一言で纏めると、しげるは喋るのをやめる。
カイジも特になにも話さず、ふたり黙って、来た路を戻る。
正面から、若いカップルが歩いてくる。
カイジたちと同じように、今から遅い初詣をするのだろう。
指を絡めて繋がれた二人の手を、カイジはぼんやりと見る。
本当は、金やギャンブルのことよりも、もっと願うべきことがあったのだ。
しげるとのこと。
『ずっと一緒に』とか。月並みな願いだが、恋仲だからこそ、頭をよぎらないでもなかった。
だけどそんなことは、神様に願うようなことではないとカイジは思っている。とりわけ、しげるが相手だからこそ特にそう思うのだ。
どんなにえらい神様に強く願ったとて、無意味なのだ。離れていくときはあっさりと離れていく、それが赤木しげるという少年なのだと、しげるとの付き合いのなかでカイジは悟った。
そのことを思う時のカイジの心は、諦観に近いものがあった。寂寥感も、いずれ来る別れの日に対する恐怖だって、ない訳ではない。
だけどそれ以上に、強い寂しさの中で胸が清々しいような、清廉な思いの方が強かった。
このとらえどころのない感覚を言葉で表現するのは難しいが、雛鳥の親は、こんな気持ちを抱くのかもしれないと、カイジは思う。
真っ赤な鳥居を潜るとき、ちょうどカップルとすれ違う。
しげるとは、きっとあんな風に手を繋いで歩くことはないのだろう。この先も、ずっと。
そんな、わかりきっていることが、ふっと心をよぎった。
それが過ぎ去ったあと、すこしだけ胸に隙間のようなものができる。
カイジは大きく息を吸った。
胸一杯に、涼やかな冬の空気が満たされる。
燦々と、日差しはあたたかい。
街のあちこちに薄く降り積もった雪も、今日一日で溶けるだろう。
昼飯、どこへ食いに行く?
改めて訊こうとして、カイジははっと言葉を飲み込んだ。
歩くのも忘れ、その場に立ち尽くす。
しげるの左手が、カイジの右手にそっと触れ、するりと握りこんできたからだ。
驚きのあまり、言葉の出ないカイジを見ないまま、しげるはぽつりと零す。
「あんたがさ、あのカップルをずっと見てたから」
それから、カイジの方を横目で見て、いつもの、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「羨ましかったんでしょ。ちがう?」
カイジはもちろん、違う、と言おうとした。
けれど、次の瞬間、なぜか涙が溢れてきて、カイジは驚き、焦った。
しげるは急に寡黙になったカイジの方を不思議そうな顔でのぞきこんでいたが、泣いているのに気がついて目を軽く見開いた。
「カイジさん、流石に気持ち悪い」
「うっ……うるせえ! オレだって、泣きたくて泣いてるわけじゃ……っ!」
慌てて視線をはずすと、木々の枝の上に降り積もった雪がきらきらと眩しくて、余計に涙が滲む。
しげるは珍しく困ったような顔で、頭を掻いた。
「参ったな……泣くほど嬉しかった?」
「違えよ! くそ……なんで……っ?」
本当に、なぜ?
嬉しいのとも、悲しいのとも違う。ただひたすらに、鳩尾の辺りがあたたかくて、それが喉までこみ上げてくるように、嗚咽が止まらない。
訳が分からないまま、溢れる涙を左手で拭うカイジを見て、しげるは匙を投げるように首を横に振った。
「涙腺、バカになってるんじゃねえの」
そうして、立ち止まっているカイジの手をひっぱって歩いていこうとしたので、カイジは涙声のまま言う。
「もう、離せ。人が見る……」
「いいじゃない。どうせ、仲の良すぎる兄弟か、親子にしか見えないよ」
「親子って……オレはそんなに老けてねえぞ」
しげるは浅く笑う。
「逆だよ。オレが父親で、あんたがガキなんだ」
そう言って、しげるはカイジの手を引いてどんどん歩く。
「あんたまるで、でかい迷子みたいなんだもの」
本当なら憤慨すべきところだが、泣いているカイジにはそれができない。
繋がれた手は、日だまりのような温度だった。
冬の陽光の中、白雲母のようにきらきらする髪を見て、カイジは神社での、神さまみたいなしげるの姿を思い出した。
そうか。
こいつへの願い事は、こいつにすればいいんだ。他のどんな神さまに頼るより、すこしは叶う可能性があるかもしれない。
さくさくと前をゆく眩しい背中に目を細め、カイジは呼び掛ける。
「なぁ、しげる」
「なに?」
掠れた声にも、ちゃんとしげるは答えてくれた。
『ずっと一緒に』は、きっと聞いてもらえないだろうけれど。
だけどせめて。
カイジは心をこめて、言葉を紡ぐ。
「来年も、一緒に来ような」
子どもの姿をした悪魔のような神さまは、返事をしなかったけれど、カイジを振り返って静かに、笑った。
終
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