cry for the moon カイジ視点 カイジが乙女
「酔いざましに、ちょっと歩こうぜ」
老舗の料亭から出てすぐに、赤木さんがそう言ったので、ふたりでぶらぶらと夜の街を歩くことにした。
高い酒は、酔い方もいい。けっこう呑んだ気がするのに、気分はすっきりしているし、頭もちゃんと働いている。
夜風が、火照った頬に心地よい。猫の眼のように細い月が、黒い空に張りついている。
隣を歩く赤木さんが、気分よさげに問いかけてきた。
「今日の店、どうだった」
「旨かった……けど、ちょっと緊張しました」
「はは、そうか。じゃあ次は、もっと気の張らない店にしような」
「……すみません」
「謝るなよ。べつに責めてるわけじゃねえ」
「……はい」
そこで会話は途切れる。
オレはもともと口数の多い方ではではないし、ふたりの会話はいつもこんな感じで、長くは続かない。
最初のうちは気まずくて、機嫌を損ねてはいないかとビクビク赤木さんの表情を窺ったりしていたが、幸いにして赤木さんはなにも気にしてないようだったし、その後も何度かこうして食事に誘ってもらって、気にならなくなった。
ネクタイの結び目に指をかけ、緩める。
スーツなんて、久々に着た。
急に赤木さんから電話があって『うまい和食の店に連れてってやるから、ちゃんとした格好して待ってろ』だけ言って切っちまうもんだから、さすがに慌てた。
高級料亭のドレスコードなんてわからないけど、いつものシャツにジーンズって格好じゃダメだってことくらいはわかった。
でもまともに就職なんてしたことのないオレは、買うだけ買ってクローゼットに眠っていたリクルート用のスーツしか持ってなくて、それがオレにとっての一張羅だった。
10分後、いつもの白いスーツでアパートに来た赤木さんは、オレなりの『ちゃんとした格好』を見て、「着られてる、って感じだなぁ」と、大きく破顔した。
軽やかな足取りで、悠々と歩く赤木さんの横顔をちらりと盗み見て、目を伏せる。
赤木さんは、遠い人だ。こういうときに痛感する。
着なれないスーツでガチガチに緊張して、料理の味もまともにわからないようなオレなんかとは、住む世界が違う。
こうして一緒に食事をしたって、すぐ隣を歩いていたって、その横顔はいつまでたっても遠く、距離は一生縮まらないのではないかと思う。
しかし考えてもみれば、それも当然のこと。
神域と呼ばれる彼が、一生手の届かない人なのは当たり前だ。本当なら、オレのようなクズなど見向きもされないはず。
こうやって目をかけて貰えるようになっただけでも、本当に幸運だと思わなくてはいけない。
遠くの空に浮かぶ月の光は、負け犬の頭上にも平等に降り注ぐ。
慈悲深く冷たいそれを、なんとなく、赤木さんと重ねた。
わかっている。これ以上の進展を、望むなんて烏滸がましいということ。
赤木さんとの距離を縮めたいと思うのは、月との距離を縮めたいと思うのと同じくらい、荒唐無稽な願いだということ。
わかっている。わかっていた。
……はずだったのに。
赤木さんは、月と違って、手を伸ばせば触れて、あたたかい声をかけてくれて、笑いかけてくれるから。
だから、つい錯覚してしまう。手の届く距離にいてくれるこの人を、捕まえて、オレのものにできるのではないかと。
でもそんなのは、それこそ夜空に浮かぶ月を欲しがるような、幼稚な思考だ。
忘れてはいけない。物理的には近くにいても、二人の間には、気の遠くなるほどの長い距離が横たわっているのだ。
だからオレは、そんな危うい思考には陥るまいと、ずっと自分を律し続けてきた。
期待したって無駄だ、どうせ傷つくだけだ、と。
そうやって、ようやく最近、諦めることにも慣れてきたのだ。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
はっと顔を上げると、赤木さんがオレの顔を覗きこむようにして見ていた。
その距離の近さに、一瞬、心臓が止まりそうになる。
側でみる不思議な色の瞳に、つりこまれてしまう。
赤木さん。
オレ、好きなんです。あんたのことが。
口から出そうになる言葉を、なんとかグッと飲み込んで、
「……なんでも、ありません」
振り絞るようにそう言うと、赤木さんはオレの顔をじっと見て「そうか」と言った。
「まあいいけどよ。なんだってお前、俺といるときにそんな、遠くを見るような目をするんだよ」
ポケットから煙草を取り出しながら、赤木さんがぽつりと呟く。
どきりとした。思わず足が止まる。
同じように立ち止まった赤木さんは、オレの顔を見ながら煙草に火を点ける。
そして、うまそうに深々と吸い込んでから、オレの顔にゆっくりと煙を吹きかけた。
「お前、なんもしねえで諦めてるだろ」
煙に噎せかえるオレを煙草で指して、赤木さんは子どもを叱るような口調で言う。
「ギャンブルなら、どんなに不利だって死んでも諦めねえくせに、こういうことになると、からっきし駄目だなぁ、お前は」
なにもかも見抜かれているような口ぶり。
困惑するオレに、赤木さんは声を和らげた。
「そんな、遠い目をしてオレを見る前に、言うべきこと、あるんじゃねえのか」
夢でもみているのかと思った。
心臓が、ドクンドクンうるさい。
紫煙の向こうで赤木さんは、いつもの笑みでオレの答えをじっと待っている。
心の奥に、厳重に仕舞い込んであったはずの感情が、ざわざわと音をたてて騒ぎ始めた。
「どうなんだ? ん?」
促す赤木さんの静かな声に、徐々に気持ちが据わってくる。
大きな勝負に挑むときのように。
そうだ。端っから諦めてるなんて、オレらしくもない。
いったいなにを、臆病になっていたのだろう。
もうブレーキがきかない。当たって砕け散ったってかまわない。
緊張に濡れた掌で拳を握る。
唇を噛み、挑むように赤木さんを見据えた。
「赤木さん、オレーー」
死ぬ気で一歩踏み出せば、月にも手が届くだろうか。
終
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