箍


 カイジといると、しげるはときどき、なにかが外れそうな感覚に陥ることがあった。
 自分の中にある、かけがねのようなものが、パチン、と音をたてて弾け飛んでしまいそうな瞬間が時偶、あるのだ。
 なんども外れそうになっているけれど、その直前でふっと、我にかえって踏み留まるのが常で、完全に外れてしまったことはない。
 しかしそうなるのも時間の問題で、外れてしまったが最後、なにか取り返しのつかないことが起きてしまう気がしてならなかった。

 この感覚は、いったいなんなのだろう。

 考えながら、しげるはベッドの傍らに膝を折った。
 少し身を乗り出して、薄い布団の上で春眠を貪るカイジの顔を覗き込むようにして見る。

 夜通しでの一勝負を終え、ふと思い立ってしげるはカイジのアパートを訪れた。
 ノックに返答はなかったが、ドアノブを回すとドアが開いたので、部屋に上がると、部屋の主は泥のように眠りこけていたのだ。

 遅くまでバイトだったのだろうか。寝巻きにも着替えず、よれよれのジーンズと薄いシャツのまま眠るカイジの寝顔は、すこし、疲れているように見える。
 ときどき、寝返りをうっては、眉を寄せてもぐもぐと寝言を言ったり、ボリボリ脇腹を掻いたりしている。

 こんな姿を見るにつけ、冴えない男だ、としげるは思う。しかし勝負事になると、時々はっとするほどいい表情をするから侮れない。
 しげるがカイジの傍を離れないのは、ひとえにその一瞬の表情のため……だったのだ、最近までは。

 しかし『なにか』が外れそうになるのは、こうして間抜けな寝顔を見ているような、本当に他愛のない時間を過ごしているときなのだ。こういうときに、なんの前触れもなく、パチン、と。
 それに気がついてからというもの、しげるはカイジの普段の表情なども注意深く観察するようになった。
 他の誰に対しても、そんな風になったことはない。カイジの傍にいるときだけ、しげるを襲う、不思議な感覚だった。

 その正体を探ろうとするように、しげるはカイジの寝顔をじっと眺めてみる。
 しかし結局、ものの五分もしないうちに飽きてしまい、カイジを起こすことにした。
 無遠慮に手を伸ばして、思いきり鼻をつまんでやると、ふが、と獣のような鳴き声を発したあと、カイジは目を覚ました。

 手を離すと、カイジは眉を寄せて目をごしごし擦り、枕元の時計を見て怪訝そうな顔をする。
 寝ぼけ眼で辺りを見渡し、ようやくしげるに気がつくと、目を閉じて深く深くため息をついた。

「……起こすなよ……オレは四時まで働いてたんだぞ」

 ふてくされたような物言いに、しげるは楽しくなってくる。
 このところ、カイジを困らせたり怒らせたりすることに、しげるはなぜだか妙な楽しさを感じていた。
 気乗りのしない博奕なんかよりも、よほど、カイジを構っていた方が楽しいと思うことさえある。

 しげるは笑いながら、からかうような口調で言う。

「そんな嫌な顔するなら、部屋のカギ、かけなよ」

 すると、カイジは薄目を開けてしげるを睨み、口を開いた。

「だってカギかけたら、お前、入ってこれねえじゃん」
「……え?」

 思いも寄らない返答に、しげるの顔から笑みが消えた。
 カイジは気だるげな表情のまま続ける。

「お前来るのって大抵、オレが寝てる時間じゃねえか。ノックされても、気づけないだろ」

 欠伸混じりのふわふわした言葉に、しげるは思わず問い返す。

「オレのために、カギあけてるってこと?」

 確かにここ最近しげるが訪ねると、カイジが部屋の中にいる時なら必ずカギが開いていた。
 しかししげるは、それを単にカイジが無精なせいだと思っていたのだけれど。

 しげるの問いかけに、カイジはぶすっとした顔になり、ぶっきらぼうに

「……さあな」

 と答えた。

 どうやら照れ隠しのつもりらしい。
 その様子に、鳩尾の辺りがじんじんと熱くなるような、形容しがたい感覚が湧き上がり、しげるはまじまじとカイジの顔を見る。

 これは、いったいなんなのだろう。

 しげるが、熱をもったような胸のあたりにそっと手をやるのとほぼ同時に、カイジが「あ」と声を上げ、しげるの頭に手を伸ばした。

 無骨な手が、細い髪に触れる。
 突然の行動に、しげるは目を丸くした。
 カイジはしげるの髪をまさぐるようにして撫でている。
 やけに真剣な顔を淡い色の虹彩にうつし、しげるはカイジの様子をじっと見守った。

 やがて、カイジがしげるの頭から手を除けた。
 その指先には、薄桃の小さな花びらが一枚、摘まれていた。

 このアパートに来るまでに、葉桜に変わる間際の桜並樹を通ったのを、しげるは思い出した。

「お前って、結構ガキっぽいとこあるよな」

 一体どちらがガキっぽいのか、カイジは、ふふん、と勝ち誇ったように笑い、しげるの髪をくしゃりと掻き回した。

 その瞬間。
 しげるは、体中の血が激しく沸騰するような感覚に襲われた。
 あ、外れる、と思う暇もなく、今まで感じたことのない強い衝動に押し流される。
 しげるはすがるようにカイジの手首を掴んだ。
 その力の強さに、驚いたようなカイジの表情を見た直後、しげるの中でなにかが弾け飛び、真っ白になった。


 はっ、と気がついたときには、しげるはカイジの体の上に馬乗りになっていた。
 目線を下ろすと、着ているシャツをはだけ、長い髪をぐしゃぐしゃに乱したカイジの、恨みがましい視線とかち合う。
 しげるはさすがに唖然としたが、しばらくカイジと無言で見つめあううち、徐々に冷静さを取り戻した。

 なぜ、オレはこんなことをしているのだろう。というか、これは本当に、オレがやったのか?

 しかしそこで、自分の服や髪もカイジと同じように乱れていることに気がつく。
 それでも尚、信じがたいような気持ちで、確かめるようにカイジの名前を呼んだ。

「カイジさん」

 しかし、発した声はひどく掠れ、自分のものではないかのように上擦っていた。


 怒りのためか羞恥のためか、カイジは目に涙をためながら、大きく体を震わせる。
 それを見たしげるは、今までカイジといると外れそうになっていたものがなんだったか、ということを、水が染み込むように理解した。
 そしてそれはもう、完全に外れてしまった、ということも。
「お、前っ……、こういう、シュミだったのかよ……っ! 聞いてねえぞっ……!」
 裏切られたような表情で喚くカイジに、しげるは苦笑しながら告げる。
「仕方ないでしょ……オレも今、初めて気がついたんだからさ」
 でも知ってしまったからには、もう、引き返せない。
 箍は、外れてしまった。
「……自分のことって案外、わかんないもんだね」
 そう呟いて、しげるはカイジの体に覆い被さると、擦りつくように首筋に顔を埋めた。






 


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