アンカー・1(※18禁) 暗い、愛なし
明け方近くに見る夢は、悪夢だと相場が決まっている。
自分のうなされ声で目覚め、カイジは自分がまたあの夢を見たのだと認識する。シーツが汗で人型に湿っている。
水底からむりやりひっぱり上げられたような感覚。苦しい呼吸のなか時計を見ると、時刻は午前四時を回ったところだった。
夢の余韻に痺れている足で立ち上がり、水を飲むために流しへ向かう。
何度も何度も繰り返し見るその夢に、カイジは未だ慣れることがない。
それ自体がまるで悪夢のようだった鉄骨渡り。カイジの目の前で、命を落としたたくさんの人々。
その命が潰える瞬間を、呪いのように繰り返す夢。
どうしていつもこの夢なのか。指や耳を落とす夢のほうがまだマシだ。
肉体的苦痛のほうが明瞭な記憶として残っているはずなのに、カイジが夢に見るのは人の死ばかりだった。
乾いたノックの音が、静寂に染み入るように木霊する。
カイジは舌打ちする。タイミングが最悪だった。
こんな時間に訪ねてくる相手など、ひとりしかいない。
無視しようかとも思ったが、鈍く痛む頭には止まないノックの音が耐え難く、カイジは結局ドアを開けた。
そこに立っていた人物を一目見て、違和感にカイジは目を細める。
薄紫の闇を背にしたアカギは、腹をかばうように背中を丸めていた。
「お前、ケガしてんのか」
「さぁな」
はぐらかすアカギの着ているシャツに手をかけ、有無を言わさずまくり上げる。
現れた真新しい包帯と、そこに滲む赤にカイジは顔を曇らせた。
「どうしたんだ、これ」
「……まあ、いろいろあってね」
おざなりな返答に沈黙するカイジの横をすり抜け、アカギはさっさと家に上がる。
すれ違うとき、アカギの体から降り始めの雨の香が香った。
アカギが質問に答えないのはいつものことだ。
どんなにしつこく問いただしても無意味だということは、経験で学んだ。
だが、さっき見た夢の残滓がカイジの中に澱のように留まっていて、それを吐き出すように、カイジは口を開いてしまう。
「そんなケガでなにウロウロしてんだよ。おとなしく家で寝てろ」
「やりたくなったから。カイジさんと」
タバコを吸っていたアカギは、煙を吐き出すついでのように言う。
「ふざけたこと言ってんじゃねえ」
「別に、ふざけてねえよ」
肩に触れようとするアカギの手を、カイジは邪険に払いのける。
アカギがそのつもりで来たのだということはわかっていた。
そういう目的でカイジのもとを訪ねるとき、アカギは必ず体にいわくありげな傷跡をつくってくるのだ。
ケガなどで体力を消耗すると、かえって種を残そうとする本能が活発になる。
その捌け口に『男』であるカイジを選ぶのは、後腐れなく、より大きな征服欲を満たすためだろう。
行為本来の目的を鑑みると滑稽だが、手段としては非常に合理的な選択。
だが今は、吐き気がするほど腹立たしかった。
声を荒げる。
「それ、ちゃんと止血できてんのかよ。血、染みてんぞ」
「どうかな。ちゃんとした医者がやったわけじゃねえから」
カイジの顔がさらに険しくなる。
「闇医者にしか見せられないような傷なのか」
アカギは鼻で笑い、カイジの質問を一蹴する。
「ここは警察か? 尋問されるような覚えはねえんだが」
バカにしたような物言いに、カイジは怒りと羞恥を覚える。
だがそれよりも大きなやるせなさを感じ、カイジは拳を握った。
「お前はいつも、オレになにも言わねえんだな」
言ってから、カイジはすぐに後悔した。アカギとは特に親しいわけではない。
ただ、なりゆきで何度か体を重ねただけ。こんな鬱陶しいことを言う権利などないのだ。
アカギと話していると、カイジは自分にうんざりしてしまう。
「あんた、オレの母親かなんかかよ」
せせら笑うようなアカギの声が、ささくれだったカイジの神経を容赦なく逆撫でする。
衝動的に、カイジはアカギの胸ぐらを掴んだ。
底冷えのする眼にカイジの姿を映し、アカギは微動だにしない。
無言で睨みあったまま、時間だけが過ぎていく。
やがて、徐々にカイジの表情が、怒りから痛みを耐えるようなものへと変化していった。
「くそっ……!!」
アカギを突き放し、音が鳴るほど強く奥歯を噛みしめる。
勢いよく断崖から飛び出す車のように、普通の人間なら踏み留まる生と死の境界を、アカギはいとも簡単に飛び越えようとする。
たくさんの生々しい死に直面し、生にしがみついて這いずるように生きてきたカイジには、ときどきそれが耐えられなくなるのだ。
アカギがそう簡単にくたばるとは思っていない。
だが同時に、時機さえ合えばあっさりと自らの命を手離してしまうような危うさをカイジは感じていた。
その刹那的な生き方が、アカギの強さの根底にあるのだとわかっていても、なんの躊躇もなく飛ぼうとするアカギをなんとか『こちら側』へ引き留めたいと思ってしまう。
特に、あの夢を見た後は。
だがその一方で、アカギの生き方に憧憬のようなものを抱いているのも確かで、たとえそれが自分であっても、誰かのために生き方を変えるアカギを見るのはもっと嫌だった。
相反するふたつの思いの中で、カイジは身動きがとれなくなる。
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