ハルヒSSの部屋
キョンむす!
目を開ける。視界一杯に映り込んできたのは少女の笑顔。
「起きましたか?」
少女がソファから立ち上がって僕に声を掛ける。その際にソファが歪んで彼女がそこに腰掛けていた事を知った。
「今……何時です?」
寝転んでいたソファから上半身を起こして少女に尋ねる。……毛布が掛かっていたのは、彼女の仕業でしょう。僕は仕事から帰ってきた後、倦怠感に身を任せて着替えもせずに突っ伏した筈ですから。
「二時くらいです」
少女は微笑んで僕の眼を見る。
「二時……ですか? それは……寝過ぎましたね」
幸いだったのは今日が休日だったことでしょうか。昨日は確かに激務だったとは言え、目覚ましも掛けずに寝てしまうなんて我ながら何と言うか……。
「困ったものです」
溜息を吐く。
「何が困った事なんですか?」
少女が僕の上に掛かっていた毛布を丹念に畳みながら聞いてくる。
「いえ、今日が休日で良かったと思いまして。もしも仕事の有る日でしたら、森さんからどんな怒声を浴びせられていたか……危なかったです」
森さん、という単語に少女の眉がぴくりと動いた気がしますが、きっと気のせいでしょう。
「危なかったって?」
「いえ、だって寝過ぎでしょう。幾ら疲れていたとは言え、昼過ぎまで寝ていたなんて……」
「昼過ぎ?」
少女が手を止めて僕を見つめる。不思議そうな顔。恐らく、僕も同じような顔をしているのだと容易に想像がつきます。そのまま数秒見つめあった後、彼女が何かに気付いたように、うんうんと一人頷いて。
「何に得心されていらっしゃるんですか?」
僕の問に少女はその細い腕をゆっくりと持ち上げる。指を差した先は……窓?
視線を向けて納得する。帰ってきて直ぐに寝てしまった僕がカーテンを閉めている訳も無く。
窓の外は真っ暗だった。
「えっと……もう一度現在の時刻を教えて頂けますか?」
振り向く首が中々回らない。呆然とし過ぎて神経が上手く繋がっていない様です。
「ですから、二時ですよ」
「十四時ですか?」
「いいえ、AM二時です」
少女が平然と回答する。ああ、なんだか頭痛がしてきました……。
「分かりました。未だ深夜な訳ですね。で……一体貴女はそんな時間に何をやっていらっしゃるのでしょう?」
うんざりと問い掛ける。

「夕食を作り過ぎて余ってしまったので持って来たんです。ほら、古泉さんっていつもご飯、コンビニじゃないですか」
少女が持参した物だろう、黒と白のストライプ柄の鞄からエプロンを取り出す。
「お腹空いてませんか? すぐ、温めますね」
「ああ、いつもありがとうございます……って、そうじゃありませんよね」
今にもキッチンへ向かって駆け出そうとする少女の、腕を握って止める。
「古泉さん!?」
慌てて振り向く彼女。頬を少しだけ赤く染めていらっしゃいましたが……まぁ、この際、気に留めている余裕はありません。
「どうやって入ったんですか?」
「合鍵です」
至極当然と、そう言って彼女は笑う。母親譲りの太陽の様に眩し過ぎる笑顔で。
「合鍵って……」
直視出来なくて眼を逸らす。……口調のみではありますが、なるべく自然を装って少女に問う。
「この部屋、カードキーですよね?」
「長門さんに合鍵の作製をお願いしました」
……これ以上無い程に納得です。彼女にとっては地球人類が作った鍵の複製などなんて事も無いでしょう、ええ。「この程度で鍵とは……児戯にも等しい」そう言って手の中に鍵を創り出すその姿が眼に浮かぶようです。
「凄いですよね、長門さんって。何でも出来るんです……あ、お料理は私の方が得意だけど。でも、それくらいかな?」
彼女の腕を掴んでいない左手が自然と額に伸びていた。どうやらキョン君の所作が伝染ってしまったようです。
「……やれやれ」
痛みを振り払うように頭を左右に一度二度。
「……どうやったんですか?」
「何の話です?」
少女が首を傾げる。
「貴女は彼女に何を提供したんでしょう?」
幾ら長門さんが二人の子供達に甘いとは言え、何の見返りも無しに僕に怒られるような真似をする訳が有りません。……まぁ、何で釣ったのかは大体予想も付いているのですが。
「弟のプライベート情報です」
予想を裏切らない回答をありがとうございます。……ジュニア君も大変ですね。
「お話はそれだけですか? だったら腕を離して頂けると……えっと、やっぱり離さなくて良いです」
何を赤くなっているのか……いえ、理由は分かりますが。
「離しますよ」
我ながら素っ気無いと思う。しかし、彼女を留め置く訳にはいかない。
「あ……」
少女が僕が握っていた箇所をさする。いけない。ちょっと強く握り過ぎたかも知れない。
「痛かったですか?」
「え?……いえ、そんな事は、全然……」
彼女は慌てて頭を振ると、キッチンへと向かう。
「あ……温めますね、おかず」
「結構です」
自分の口から出たとは思えない、冷たい言葉。でも、紛れも無く僕の言葉。
「お裾分けは感謝します。ですが、温めるくらいなら僕にも出来ますので」
「えっと、でも……」
少女が困惑の表情を浮かべる。しかし揺らぐ訳にはいかない。僕は心を凍らせた。
年長者として、そして彼女の保護者の一人として。僕には彼女を守る義務がある。
「それよりも少女がこんな夜更けに一人暮らしの男の部屋に入り込んでいる、その事実の方が僕には余程問題なんですよ。今夜は帰りましょう。家まで送りますから」
彼女の瞳にじわりと、涙が浮かんだ……様に見えた。

「帰らないと、ダメですか?」
「ダメです」
少女の狼狽が手に取るように分かっても、しかし言葉を曲げる訳にはいかない。
「どうしても?」
「どうしても」
僕は努めて強い口調で言いました。学生時代、常に演技をしているような感覚で過ごしてきた経験が、こんな所でも役に立つものなのだと思うと中々感慨深いものが……無くも無いですね。
ただ……僕はある事実を失念していました。そうです。彼女は誰有ろう、この世界の神の娘であるという純然にして不動の事実。
ハルヒさんが持っている「力」の片鱗を、彼女の子供の中で誰よりも色濃く受け継いでいる目の前の少女。
その願いはある一定の節度を持って、実現する。
だから、なのでしょうか? 少女がこんな事を言い出すのも、朝比奈さんの語る所の「規定事項」なのかも知れません。
「とても言い難いのですが……ウチの家の鍵閉めてあると思うんです」
「えっと……どういう事でしょう?」
思わず耳を疑う。演技を忘れて聞き返してしまった。
「出掛けに、お母さんに『古泉さんの所にご飯持って行ってくる』って言ったら『鍵掛けておくからね』って……」
……何を考えているんですか、あの人は!? ……ああ、ハルヒさんらしいと言ったらそれまでですが。
「えっと……お父さんは分からないけど、お母さんは……その……公認? ……してくれてる、って言うか……」
そう言えば、あの人は実の娘であっても面白がる人でしたね……。そして、その人の遺伝子を確かに持っている目の前の少女は、物腰こそ柔らかなれど有無を言わさぬ実行力はきっちりと母親譲りで。
……しかし、流される訳にはいきません。何度も言いますが、大人として。
「……キョン君のケータイに電話します。それで内から鍵を開けて頂きましょう」
ああ、こんな事態がキョン君に知れたら何を言われるかなんて分かっています。が……この際、背に腹は代えられません。
僕は低い丸テーブルの上に無造作に放り出されていた自分のケータイを手に取ってキョン君に電話を……って、おや?
ケータイを手に、凍りつく。……圏外!? そんな馬鹿な!?
「古泉さん、どうしたんですか? 顔……真っ青ですよ?」
「いえ、なんでも有りません。っと、そう言えば玄関に荷物を置いた侭にしていましたね」
僕は平然を装って玄関に向かった。
ドアノブを回そうとして、それがビクともしない事を確認。勿論、鍵は開けてあります。が、それでも動かない。……つまり。
「……久々ですね」
気付いていました。「帰りましょう」と言った時に、背筋をぞわぞわとした物が走り抜けていく「あの」感覚には。
感じた時には何かの間違いだと思いました。少女の機嫌を損ねるという状況が、僕にあの頃の感覚を幻覚させたのだと考えていました。
しかし。
……何十年ぶりになるでしょう。もう、殆ど忘れかけていた。しかし、心の何処かにトラウマとなってしっかりと根付いていた、それは――

「閉鎖空間」

「……なんて事だ……」
奥歯がギシリと音を立てる。
「よりにもよって、閉鎖空間を一番危惧しなければならない、回避しなければならない僕が、それを生み出す切っ掛けとなってしまうなんて」
分かっていた事でした。彼女がハルヒさんの持っていた力を多かれ少なかれ受け継いでいた事も、彼女が不安を感じた時に閉鎖空間を生み出してしまうかも知れない可能性も。
しかし、彼女は産まれてからこれまでに一度も閉鎖空間を生み出した事など無かった為に、僕達機関は安心し切っていたのですが……。
「まさか、初めての閉鎖空間がこの状況で、ですか」
右手で顔を覆う。
彼女自身もこの空間内に居る事から、これはいつぞやキョン君が招待された、あの閉鎖空間と同様のものと考えて良いでしょう。となると、ここから脱出する方法としてもっとも考えられる可能性は。
少女が望んでいる事は……。

『良い? 女の子は誰だってお姫様に憧れるものなの! だから、その時が来たら古泉君はあの子をお姫様みたいに扱ってあげてねっ!』
ハルヒさんの言葉が脳裏を過ぎります。この会話があった時はキョン君が隣に座っていた手前、笑って誤魔化しましたが……。
この事態こそが、彼女の口にした「その時」なのかも分かりません。



「古泉さん? どうしました? ご気分でも優れませんか?」
いつの間にか、後ろに来ていた少女がうなだれる僕に声を掛けました。顔を覗き込もうとしているようですが、内心の狼狽を悟られる訳にはいきません。
僕は剥がれ掛けていた仮面を付け直すと、彼女に向かって微笑みました。
「どうやら、仕事の資料を入れておいた鞄を職場に置き忘れてきたようです。明日……もう、今日ですか。今日、やろうと思っていたんですが……仕方有りません」
嘘八百も襤褸さえ出さなければ真実と余り変わりは無い。これまでに散々嘘を吐いてきた僕にとって、これくらいの嘘を吐き通すのは容易です。
「えっと……それって大丈夫なんですか?」
「期日などを特に設けられている案件でもないので、平気ですよ」
僕は出来る限り普段通りの顔を装ってリビングに向けて踵を返した。
厄介な夜になりそうだと、心の奥で毒づきながら……。

「……結局、電話は繋がりませんでしたね」
僕は少女に向けて呟いた。彼女の表情がぱぁっ、と明るくなる。見ているこちらが恥ずかしくなるくらいに分かり易い笑顔だった。そうですか。家に帰られないという、この状況がそんなに嬉しいですか。
「圏外という事は考え難いので……電池切れか、もしくはハルヒさんがキョン君の電話の電源を落としたのだと考えられます」
あくまでさり気無くを装って、彼女が自分の携帯電話に触れる事態を消しておく。
「そうですか……。えっと、お母さんもたまには夫婦水入らずとかしたいんじゃないでしょうか、きっと」
いえ、貴女が全ての元凶なんですけどね。とは無論言える筈も無いので、代わりに溜息混じりの嘘を吐く。
「そうですね……そちらの方が可能性としては有りそうです」
「なんか……ごめんなさい」
「いえ、貴女が悪いんじゃ有りませんよ」
慈しみを込めて少女の頭を撫でる。少しだけ屈んで眼の高さを合わせると、少女が頬を染めて眼を瞑った。何を期待されているのかは想像が付きますが……しかし、その考えは却下です。

「こうなってしまっては仕方が有りません。……そうだ。お腹空いてませんか?」
しゃんと立ち上がって呟く。ゆっくりと少女が目を開けた。少しだけ失望と、そして喜びを余す所無く表現するアーモンド形の大きな瞳が僕に向けられている。本当に表情も何も、あの頃のハルヒさんにとてもよく似ていらっしゃいます。
お母さんのトレードマークである所のカチューシャさえ着けていれば、知人でさえその姿にタイムスリップを疑う事でしょう。
今の僕のように。
「ご飯は十分に炊いてあったと思いますので、よろしければ持って来て頂いたおかずを温めては貰えないでしょうか?」
「私もご一緒して良いんですか?」
「一人よりは二人の方が、食事は楽しいんですよ。そうでしょう?」
少女は素直に……とても素直に頷いた。
いつもこの調子なら、僕も非常に接し易いんですけどね……。

タッパーから皿や椀に料理を移し変えて、ラップをしてレンジに投入する。僕がテーブルの上を片付けて遅い夕食の支度をしている部屋の、奥では少女が見事な手際で動いていました。
台拭きを取りに近付いた時には、鮮やかな手並みについ見蕩れてしまって。
「いつ見ても、無駄の無い動きですね」
「こういうのは結構得意なんです」
少女が顔をあげて笑う。どきりと、年甲斐も無く僕の心臓は跳ね上がった。
その笑顔は昔、キョン君が独占していたもので。何度となく、その微笑みを僕に向けて頂けたら、と願っていたもので。
そして、それは今、僕だけに向けられていた。人こそ違えど、同じ微笑み。
「貴女はお母さんによく似ていらっしゃいます。こういうのを『生き写し』と言うのでしょうね」
「そうですか? どちらかと言うとお父さんの方に似てる、って言われる方が多いし、自分でもそう思ってるんですけど」
「そっくりですよ」
郷愁から泣きたくなりそうな感情は伏せて、笑ってみせた。全く、演技ばかりのあの頃に感謝し切りです。当時はそれなりに苦痛も感じていた筈なんですけど、ね。しかし喉元過ぎれば何とやら、でしょうか。
「きっと、貴女もお母さんに似て美人になるんでしょうね。貴女の恋人となる人が、非常に羨ましい」
少女が面白いくらいに顔を真っ赤に染めて、僕は思わず笑ってしまった。眼の端に少しだけ浮かんだ涙は、きっとそのせいなんでしょう。

そう。彼女の恋人となる人を、あの頃の僕はずっと羨んでいた。

「アイツはお前に好意を抱いてるぞ」
コーヒーを片手に、キョン君は言って。こんな真剣な表情を見るのは何年振りでしょう。
「みたいですね」
素っ気無く言って僕もコーヒーを口に含む。口の中に広がる香気は流石はハルヒさんです。程良い苦味と酸味。相変わらず物を選ぶ趣味が良い。
「気付いていたのか」
「まぁ、それなりに。彼女の視線は父親の友人を見るにしては少し……こう言っては失礼かも分かりませんが……変わっていますから」
キョン君がこちらをじろりと睨んで。矢張り「変わっている」は、言葉が悪かったでしょうか。謝罪の言葉を口に出そうとした所、それよりも早く彼が僕に釘を刺しました。
「本気になるなよ」
予想外の台詞です。
「まさか! 自分の娘ほども年の違う子ですよ?」
「その辺りは理解してるし、お前の事もある程度は信用してるさ。どちらかと言うと年上好みだ、とかもな」
喉を湿らす為でしょう。コーヒーを一口呷ると彼は続けました。
「だが、俺の娘はハルヒの娘なんだよ」
「どういう意味です?」
僕がハルヒさんを好きだった、という事はキョン君も周知ですが……しかし、それにしたって相手は二回り程も年が離れています。
「いやいや、お前がハルヒの事を吹っ切ってるのは知ってる。そんな過去を蒸し返す心算で言ったんじゃないんだ。気を悪くしたのなら謝る……スマンな」
「いえ、特に気にしてはいません」
実際、今はもうお二人仲睦まじい様子を見ても心がざわつく事は無くなっていて。極稀に、思い返す事は有れど、それは羨望ではなく懐古と呼べる感情でした。
「しかし……では、先程の発言の意図は何でしょう?」
然程コーヒーは苦い訳ではない。僕もキョン君もブラック派であり、そしてこの家で出されるコーヒーはよく親しんだものだった。僕がそうだったのだから、飲み慣れているキョン君なら尚更だった。
しかし、彼は苦々しい顔をしていて。数分の沈黙の後で口を開いた。
「アイツには願望を実現する能力が有る」
その言葉を、僕がキョン君に言われる日が来ようとは、正直思ってもみませんでした。

「それは……機関の人間から可能性は有ると聞いていました。しかし実際、彼女が世界改変をした事実は有りませんよね?」
「今の所はな」
キョン君の危惧は分かりますが……しかし、それは可能性の話でしか有りません。それに兆候が見えない以上、杞憂ではないか、という考えが僕の中では大半を占めていました。
「お前の言い分も分かるよ。実際、そうであれば良いと俺も思う」
溜息を吐いてコーヒーで一服する彼。
「いや、一概にそんな力が無い方が良いとも言えないか。周りがどうあれ、アイツさえ幸せならそれで良いと思うのは……心の底から父親になっちまったからなんだろな」
「同意します」
「お前が同意すんなよ」
キョン君がやれやれ、と呟く。その仕草をしている時の姿は、あの頃と余り変わっていませんね。
僕自身もまた、あの頃とは余り変わっていない気がします。だからでしょう。僕らは相も変わらず軽口を言い合って、笑う事が出来るんです。
「あれ? 気付いてませんでしたか?」
「何に、だよ」
「僕は貴方達のお子さんの事を自分の子供同然に思っているんですが」
「……気色悪いぞ、古泉」
「ここでその台詞を持ち出しますか」
あの頃と違うのは、その笑顔の裏に何の含みも持たないで済む、という点。

僕らは大人になった。
子供のままで、大人になった。それが僕らの誇り。

「気を付けろよ、古泉」
「彼女の手管に、ですか。冗談でしょう? 相手は女子高生ですよ。経験の差から言ってやり込められるとは考えにくいかと」
「分かってないな、お前は」

キョン君がちらりと部屋の端に目をやる。釣られて視線を動かすと、そこには満面に笑顔を浮かべたハルヒさんと、引きつった笑顔の、しかし分かる人には幸せを噛み締めていると分かる表情をしたキョン君の結婚式の写真。
「アイツは女神の娘なんだよ」
ウェディングドレスを身に付ける、したり顔のハルヒさんは「女神」と表現しても何もオカしくない程に綺麗で。
そして、その写真に写された彼女に、年の頃が今のハルヒさんよりも彼女の娘さんの方が近いからでしょうか。笑顔に愛しい少女が重なって見えた。
慌てて頭を振って今の映像を追い出そうとする。そんな僕の胸をキョン君がトン、と突付いた。
「女神は本気でお前の心臓を刺しに来るぞ」
「見事に刺された人の台詞と考えると、身に摘まされる思いです」
僕らは笑った。

そんな話をしていた時は冗談だとしか思っていなかったのですが。

しかし、歓談をしながらスローペースで食事をする、少女を目の前にしてようやく気付きました。キョン君の危惧は冗談でも何でも無かったのだと。
「それで未来(みらい)ってば泣きながら電話してきたんですよ」
「まぁ、朝比奈さんでしたら大事には至らないでしょうから、心配は要りません」
他愛も無い話をしながら箸を進める。そんなごく日常的な筈の食卓の端々で、彼女が僕を見つめている事に気付かされる。
何かの折に目が合う度、赤い顔をして俯く少女を見ながら食事をしなければならないのは一種の拷問でしょうか。
しかし、かと言って沈黙はもっと問題です。自分から「そんな雰囲気」を作る訳にはいきませんので。
ですが正直な話、間が持ちませんね……。
そんな中、苦し紛れに振った話は、我ながら不用意で。彼女が食い付くのも当然と言えるでしょう。
「朝比奈さんも、長門さんも、貴女達が可愛くて仕方が無いんですよ」
「えっと……古泉さんも、ですか? 古泉さんも私達の……私の事をそんな風に思ってくれていますか?」
兎みたいに目を赤く潤ませて少女が僕に問い掛ける。その姿を見て「恋する乙女」と気付かない人など居る筈はありません。

ああ、僕は何か……この子の保護者として間違った接し方をしてしまっていたでしょうか?

大学を卒業と同時に結婚した彼女と彼の間に子供が出来たと聞かされた時に、僕は余り驚きませんでした。
何と言えば良いのでしょうか。それが当然で、至極自然な流れだと感じたからです。
お二方にその話をメールで報告された夜、僕達SOS団は誰に呼ばれた訳でもないのに二人の家に集合していました。
「男の子ですか? 女の子ですか?」
朝比奈さんがまるで自分の事のように嬉しそうに問い掛けて。
「調べてないわよ。産まれるまでどっちが来るか分からない、って事にしておいた方が面白いじゃない!」
涼宮さん……失礼。この頃には既に苗字は変わっていましたか。ハルヒさんは妊婦だというのに、まるで普段通りに「楽しさ」を追いかけていました。
「私は男の子だと思う」
長門さんが呟きます。ハルヒさんのお腹に手を当てて、愛しそうに撫で回す姿は受胎告知の絵を思い浮かべ……ませんね。天使はあんなに不思議そうな顔を浮かべたりはしませんでしょうし。
長門さんにとっては初めて立ち会う「ヒトの始まり」なのですから、不思議に思われるのも分かります。
まぁ、僕にも初めてではあるのですが。
「そうか。長門は男の子だと思うか」
キョン君の問い掛けにこっくりと頷く長門さん。
「ねぇねぇ、みくるちゃんはどう思う? 男の子かな? 女の子かな?」
「えっと……私も男の子だと思います。勘ですけど」
「そっか。みくるちゃんも男の子に一票か……なら、男の子かもね」
ハルヒさんが笑う。キョン君も笑う。その笑顔は照れ臭さと嬉しさで満ち溢れていて。
きっと、二人には子供の性別なんてどちらでも構わないのでしょう。ただ、無事に産まれてくれれば。
古今問わず、親となる者が持つたった一つの願い。
そんな二人を見ていると僕も嬉しくなってくるんです。
「きっと、女の子ですよ」
僕の言葉にその場に居た全員がこちらを振り向きました。珍しい物を見るような顔で僕を見ています。なんでしょう? 僕の顔に何か付いてますか?
「いや、そうじゃなくてだな」
「古泉君がこういった話に逆の意見を出すのって珍しいわね」
ああ、なるほど。確かに場の流れは「男の子」で集約されていましたからね。
ですが、れっきとした根拠も有るんですよ?
「へ? 根拠って何ですかぁ?」
「私も聞きたい」
「アタシもアタシも!」
僕の方へ身を乗り出してくる三人の女性。キョン君はそれを微笑ましそうに見ていて。
ああ、何だかんだ言いながらも、SOS団はずっと一つなのだなと思う。
それが嬉しい。
「ハルヒさんの顔ですよ」
「顔?」
長門さんと朝比奈さんが一斉にハルヒさんの顔を注視する。そんなハルヒさんはと言うと自分の顔を指差して不思議そうでした。
「自分では気付いてらっしゃらないかも知れませんが、特にここ最近、優しい顔になられました。産まれて来る赤ん坊が女の子なら優しく、男の子なら鋭く、顔付きが変わると聞いた事が有ります」
実際は幸せで頬が緩んでいるだけなのかも分かりませんし、この話が真実かどうかも知りません。
しかし、何故でしょう。
僕は産まれてくる子が女の子だと、信じて疑っていませんでした。

「きっと、女の子です」
僕の全てを持って支えていく。この世界でたった一人、僕が産まれた理由。
そんな少女がハルヒさんのお腹の中に居るような気がしていたんです。

そう。今僕の目の前に居る彼女は僕が望んでいた少女で。その彼女に好感を持たれている。その事は素直に嬉しい。
それもその筈。彼女は僕が心から好意を抱いているキョン君とハルヒさんの娘で。
僕が彼女を愛さない道理なんて有る筈も無い。
ですが……。
ですが、僕が彼女に抱いている感情は父親の娘に向けるそれであって、彼女の僕に向けている感情とは隔たりがある事を、僕は知っている。

だから、彼女の想いに応える事は僕には出来ない。

……筈なんですけどね。
「すきです」
食事を終えて、洗い物をしている僕の腰に彼女は背中から抱き付いてきて。
「あなたが、すきです」
そんな告白をされていたのは……全く、我ながら無警戒にも程が有ると言わざるを得ません。いえ、背後に来ているのは気配で気付いていた訳ですが。
流石にこの状況は想像外でした。
蛇口から流れる水の音だけが部屋の中を支配する。いや、背中にぴたりと吸い付く少女の心音が体の中の水を通して僕の耳に届いていた。
……喉が……カラカラで。
マズい……この状況はかなりマズいですよ……。
「古泉さん、心音……早くなってます」
「この状況で動揺するな、と言う方が無理でしょう」
実際、さっきまで皿を洗っていた手は全く動いてくれなかった。そこを目ざとく指摘される。
「手、動いてませんね」
「今、洗い物を続行したら皿を割りそうな気がしますので」
「それ……異性として意識してくれてるって事ですか?」
「年頃の娘に抱き付かれて動揺しない父親はいません。さ、洗い物が出来ませんので手を離して頂けますか?」
僕の言葉に素直に腕を解く少女……って、おや? もう少しごねられると思っていたんですが。
「どうかしましたか?」
父親、という発言がお気に召さなかったのでしょうか。しかし、それなら逆に好都合です。ここで少女を受け入れてしまえば後でキョン君に何を言われるか分かったものではありません。
「どうもしません。こんな風に迫って、それで古泉さんが困るのなら私は二度とこういった事をやりません。言いましたよね。あなたがすきだ、って」
振り返る。少女の目線は真っ直ぐで。
僕を、真っ直ぐに見つめていて。
「困らせる事は本意ではありませんから」
「では、何がしたいんです?」
「しあわせになって欲しいんです、あなたに」

こんなにも真っ直ぐに、人に想われた事など僕には無かった。

「僕にとって、貴女は娘ですよ。年齢的にも、精神的にも」
長年、保護者として接してきた、これは僕の本心でもありました。少女が「知っています」と一つ頷いて。
「でも、きっと振り向きますよ、古泉さんは。今は私の事を娘としか思ってくれていないとしても。必ず、振り向かせてみせます」
僕は知っている。強い決意と好意の篭ったこの瞳を。この、眼差しを。
それは、僕があの頃ずっと羨んでいた、瞳。十数年の時を経て、それが自分に向けられているというのに、僕は戸惑っていた。
「何故なら、私がそれを望んだからです。そして、貴方が心の奥底ではそれを望んでくれているからです」
少女は笑った。微笑んだ。向日葵のように。僕が好きだったあの頃のハルヒさんのように。
「お母さんから聞きました。古泉さんは私が産まれた時、泣いてくれたんですよね」
少女の言う通り。僕はあの日、涙を流した。それがどんな涙なのか、それは長門さんではないけれど「分析不能」で。
でも、きっと……その涙は嬉し涙だったのだと今になって思う。
「私は貴方に望まれて産まれてきました。貴方が私をこの世界に呼び寄せたんです」
交錯する視線を逸らせない。少女の一挙手一投足に強く惹きつけられる。
彼女はまるで恒星。大きな引力を持って、惑星を引き付ける。
「だから、古泉さんには責任を取って貰わなければいけません」
少女は力強く、そう言い切った。その言葉に、僕は何も返せなくて。
女神のDNAは遺憾無く受け継がれている事を、今更ながら骨身に叩き込まれた気がします。

「それに、古泉さんが私以外の女の子を好きになれるとは思えません」
そう言って笑った。真夜中に場違いな、明る過ぎる笑顔で彼女は笑った。

彼女が望んだ事はある一定の節度を持って実現する。
僕の感情が改変された可能性は極めて薄い。それはあの驚天動地の日々にあって、ハルヒさんがキョン君だけは何が有っても改変しなかった事からも容易に予想出来ます。
しかし……。
ならば、この想いはどういう事なのでしょう? どう説明を付ければ良いのでしょう。
気付けば僕は、少女に父性愛以上のものを抱いていて。
……取り敢えず、今はキョン君にどうやって言い訳をするか考えなければいけませんね……。

いつの間にか閉鎖空間は消えていた。長門さんに後から聞いた所、そういった類の空間が出現した痕跡も見受けられなかったとの事で。
僕と同じ境遇の同僚に聞いても同じ答えが返ってきました。しかし、あの時僕の部屋は閉鎖空間と化していたのは紛れも無い事実。
……ここまであからさまに彼らとの認識に隔たりがあれば、僕にだって分かります。
彼女は恐らく、創ったんでしょう。

誰にも迷惑を掛けない、僕に告白をする為だけの舞台を。

ただ、それだけの為に全世界を欺いた。機関の能力者とヒューマノイドインターフェイスと未来人の全てに、この小さな密室を気付かせなかった。
ハルヒさんならきっとこんな風に評すると思います。
「我が娘ながら末恐ろしいわ……」
本当に。全く、困ったものです。

「私が敬語を使い始めたのは、貴方に近付きたかったからなんです。少しでも、貴方との距離を詰めたかったから」
少女は僕に言った。
「私は貴方の為に産まれてきた事を、物心付いた頃にはもうなんとなく知っていました。笑いますか?」
「いいえ」
僕もそれを感じていましたから、とは言える訳もありません。ので、少し考えて言葉を継ぎます。
「僕がそういった類で笑わない事は知っていますよね」
「はい。十七年間、貴方を見てきましたから。古泉さんはよく私の家に来て、誰より私の傍に居てくれましたよね」
そう。貴女は僕の為に産まれてきてくれたと思っていたから。貴女の傍で貴女の成長を見届けるのが何より僕の幸せだったから。
キョン君とハルヒさんが拒まないのを良い事に、僕は二人の家に何か有る度に通っていた。
「……なるほど。距離を縮め過ぎたのが問題だった訳ですね……」
「何の話ですか?」
「いえ。こちらの話です。聞こえなかったのなら、流して下さい」
「分かりました」
僕が何を言ったのか、聞きたそうな少女。少しだけ口先を尖らせた、その表情はとても可愛くて。懐かしくて。

貴女が本当の娘であったなら、どれだけ僕は満たされていた事でしょう。
そう思わずには、いられない。

「僕は貴女の事を恋愛対象として見る自信はありませんよ」
少女が淹れてくれたコーヒーを飲みながら僕は言う。その言葉がどれだけ少女を傷付けるか分かっていて、毒を吐く。
「先ず第一に年齢が違い過ぎます。貴女は僕に親愛を越えた感情を抱いているのかも知れません。しかし、僕には父性愛以上のモノを持つ事は出来ないでしょう」
嘘を吐く。騙しているのは彼女と、もう一人。自分自身の心。
騙されているのは、騙している本人が一番良く分かっている。でも、世の中には騙されて良い嘘が有る事を僕は知っている。
コレは、騙されても良い嘘。心すら、騙しても良い嘘。
「貴女が赤ん坊の頃から見てきましたので、こればかりは仕方がありません」
呟く。少女がゆっくりと顔を上げた。
「古泉さん……女子高生に興味は有りませんか?」
「ぶふっ!?」
むせた。
「な……何を言い出すんですか、貴女は!?」
「女子高生とか、幼な妻とか。そういった言葉に男性は弱いからそこをアピールしていくべきだと、お母さんから教わりました」
……ハルヒさん……何を実の娘に教えているんですか。
「えっと……僕が今の貴女に手を出したら犯罪だという事は分かりますか?」
「後一年で解禁だという事も理解しています」
「……そうですか」
結論から言うと。僕自身に迫っているこの状況は、これまで僕が経験した中で最大級の非常事態でした。
迫っている……少女に迫られている訳ですから? ええ、上手い言い回しをしても現状がピクリとも動かない、むしろ悪い方向に進むばかりなのは理解していますよ。
ハルヒさんを相手にしていた昔の彼は、こんな気分だったのでしょうか。
「ですから、後一年我慢して下さい」
赤い顔をして頭を下げる少女。
「僕が貴女の感情を受け入れる事を前提に話をしないで下さい……。その前提からして間違っていますので」
こんな時でさえコーヒーが無駄に美味しいのが憎らしい。
「さっき言いましたよね? 古泉さんに私以外を好きになる事が出来るとは到底思えません、って」
少女がカップに口付ける。ふっくらとした唇が濡れて、朝露を含んだ薔薇を僕に連想させた。
「なんででしょう。予感よりももっと……確信に近い部分でそう考えています。ですので、私の言っている事は間違っていませんよ」
小刻みに動く形の良い薄紅に見惚れる。僕は二十二も歳の離れた少女に心を奪われていた。
「それとも、私以外を好きになれると本気で思っていますか?」
反論なんて、出る筈も無く。

なるほど。これが神に選ばれる、という事ですか。
彼女以外を好きになる事なんて、どこをどう間違った所で出来そうにも無い。
それを認められないのは理性で。認めているのは感情。
理性と感情を秤に掛けた時に、どちらが沈むかなんて火を見るよりも明らかでした。

例え彼女の言っている事が真実であったとしても、このまま流されるのは非常に危険です。ここは嘘でも何でも、否定しておくべきでしょう。
脳細胞を総動員して言葉を捜す。
「根拠も無い言い掛かりは止めましょうか」
「言い掛かり?」
「はい。散々言ったでしょう。僕は貴女に親愛以上の情を持つ事は有りません、と」
男として最悪の台詞だと、分かっています。しかし、彼女にはきっと……僕よりも年頃も似合いの男性が現れる筈で。
ここで彼女の想いを、受け入れる訳にはいきません。
僕は、彼女の「父親」ですから。血の繋がりは無くとも。たとえ一方通行な思い込みであろうとも。
だから……ならなんで、こんな「当然」の覚悟をするのに、奥歯を噛み締めなければならない?
「……私は嫌です」
搾り出すように少女が声を上げる。
「何がでしょう?」
「古泉さんの隣に私以外が居る事が」
彼女は顔を上げた。泣いていた。大粒の瞳に大粒の涙を浮かべて。泣いていた。
「古泉さんの隣に私以外の女性が居る事が。手を繋いで歩いている事が。笑い合っている事が。将来を誓い合う事が」
少女はきっ、と僕を見た。まるで噛み付くように睨んだ。
「私は絶対に嫌です」
声のトーンこそ変わらなかったけれど、それは叫び。

心の底からの叫び声でした。


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