ハルヒSSの部屋
長門「それは古泉一樹の観察記録」2
秋と冬の入り混じる空はもうとっぷりと暗く。携帯電話を開いて時刻を確認するとまだ十七時であるという事実に驚かされます。

「さて」

「……?」

「どうしましょう、長門さん。真っ直ぐ僕の部屋へと向かいますか?」

僕は愛らしい、等身大宇宙人ストラップへと声を掛けた。
思い返せば誰か、少女と二人で下校道を歩くというのは初めての経験で。そしてまた、その終着点が自分の部屋だというのも初めての事ではありました。
何を思った訳でもなく自然と、このような質問が口を突いたのはそれでもどこかで先延ばしにしたいといったどこか疚しい思いが有ったのでしょう。
自分の事ではありますが、しかし無理も無い事かと嘆息します。吐いた呼気は街頭の下で白く染まって、そしていつしか消えている。

「どこか行きたい所が有るのでしたら、折角です、荷物持ちとして同行しますよ」

彼も今頃は雑用に従事しているでしょう。同じSOS団に所属する男性同士、これも役割ではあるのだと思います。
ただ、長門さんに荷物持ちなどというものが必要なのか、という疑問は有りましたが。
そして。
そして、彼女に「行きたい」「欲しい」といった感情が芽生えているのかという根本的な……止めましょう、この思考は。
世辞にも趣味が良いとは、言い難い。

「そう」

「何か、有りませんか?」

ふと、腰に回された腕に力が篭った。それは僕の行き先を誘導するように動いて。

「一つだけ」

長門さんは呟いた。

「一つだけ、有る」

静かな、降りしきる雪のような声で。
促されるままに歩く。その足取りは商店街を越えて、今僕たちは三車線の国道沿いを歩いていた。
彼女は一体、どこへ向かっているのでしょうか?
その疑問を口にだそうとして、しかし留め置きます。どうせ、そんな事は目的地に着けばすぐに分かるのです。であるならば、わざわざ聞く必要もありません。
目的地が分からないというのはそれはそれで、悪くもありません。少女が僕をどこへ連れて行こうとしているのか、それを考えながら歩くのもまた一興、であるでしょう。
思考や推理は嫌いではない僕です。

「お腹、減りませんか、長門さん?」

「別に」

「では、晩御飯をご馳走しますと、そう言ったら困りますか?」

「問題無い」

「ふふっ。分かりました」

さあ、これで考えなければならない案件がもう一つ増えてしまった訳ですが。
この近隣で少女を連れて行けそうなレストランの脳内検索を、少女の目的地推理と並行処理。中々の難題ではありましたが。
しかし、それを楽しんでいる僕が居るのもまた、確かなのです。
外気は十度有るか無いか。であるというのに僕はまるで寒さを感じなかった。
思えば、人とこんなに密着した事などここ数年で有っただろうか。……いえ、まあ相手は宇宙人さんなのですけれども、ね。

「そう言えば、まだ聞いていませんでしたね」

ふと、気が付いた疑問を口に出す事に躊躇いは無い。
デフォルトが無言の僕たちです。そこに居心地の悪さは感じなかったのですけれども、しかし会話が有るのならばそれに越した事もないでしょう。

「なぜ、密着しているのですか?」

「必要だから」

ドキリ、僕の心臓が高鳴ります。いけません。別に僕が必要とされている訳ではないと分かっているのに。
顔には出ないまでも体内は誤魔化しようが無く。抱き付かれているこの状況では心音など筒抜けである事は想像するに易い。静まれ、僕の心臓。
深呼吸を、一つ。

「必要、ですか。いえ、それは分かるのですけれども。必要が無ければこのような真似はなさらないでしょうし」

好きでやっている、訳もない。何せ、彼女は長門有希(ウチュウジン)。
僕ら地球人類の常識では計り知れないお方です。

「僕が疑問に思っているのは、このような真似をなさらなくとも貴女ならば僕の視覚を盗む事など簡単なのではないか、という事なんですよ」

「出来なくは無い」

歩きながら、時折横を走る車のライトが僕らの影を地に伸ばす。

「出来なくは無い、ですか」

「そう。しかし、この方が処理が容易で済む。処理速度には限界が有る以上、余剰メモリは残しておくべき」

備え有れば憂い無し。例えば急な敵性宇宙人の襲撃。例えば涼宮さんの唐突な思いつき。
咄嗟に彼女の力が必要になる事はままある話ではありました。

「なるほど……ですが、そんな危険を侵してまで僕に情報処理能力を割く程の価値が有りますかね」

「だから、危険にはならない水域を維持する為に接触している」

どこまでも、理に適った考え方だと僕は溜息を吐いた。車の産む風はそれが世界に留まる事すら許さない。
なんだか、僕の姿を映しているようで呼気すら滑稽です。いえ、曖昧にではなく滑稽なのでしょうね、今日の僕も。
車の灯りが傍を流れていく。視線を上げれば高架橋を走るその様はまるで光る河のようで。
下界が余りに明る過ぎて星は見えないけれど。人間が創り出した星だって、それはそれで決して悪くない。
その下には、一人の人生が光っているのです。
街灯の下を僕らが行き過ぎるように。
星の数ほど、命は溢れている。

「……興味深い」

長門さんが突然、ポツリと呟いた。足取りはそのままに首だけで少女を振り返る。

「何が、ですか?」

「ズレ」

「ズレ……ああ、そう言えば当初の目的はそれでしたね」

いつの間にか、そんな大事な事を忘れてしまっている自分が嫌になる。環境適応能力が人間は高いとはしっていましたが、まさか自分の身で体験する日がこようとは。
神人、そして機関と向き合った時以来の感覚でした。
慣れとは恐ろしいものです。それがなければ僕たちは生きていけないと、分かっていても空恐ろしい。

「何か、分かりましたか?」

「分析中」

「そうですか。出来ればお早めにお願いしますね」

僕が心底、少女の事を鬱陶しく思わない、そんな精神状態に至ってしまわない内に。
悟るには、まだ僕は若すぎる。そうでしょう。
歩く。歩く。少女に連れられて、立ち止まったのは照明がこれでもかと明るい郊外型の大きな雑貨屋の前でした。
予想外。とは言え、そうです。話の流れとしては決して意外でも何でもないのでしょう。
朝比奈さんと長門さんの話していた「計画」を知っていながらそれをまるで思考から隔離していたのは、長門有希という少女の人となりを知っていたから。
知っていたつもりでしかなかったのかも分かりませんね、これでは。

「ファンシーショップ、ですね」

「そう」

「朝比奈さんと来る予定では無かったのですか?」

「そう」

「では、なぜ今なのです?」

「貴方とであっても朝比奈みくるとであっても店舗に変化は無いと判断した」

「ふむ、なるほど。ならば善は急げとやらですか」

いえ、善かどうかは知りませんけれども。

「そう」

「分かりました。お供しますよ」

そう言って、一日限りの彼女の雑用役は歩き出す。少女の口が魔法の呪文を唱えている素振りはありませんが、しかし校内ではありませんし問題も無いでしょう。
涼宮さんにさえ見つからなければ、それで済むだけの話です。

二階建てのその建物は恐らく僕個人には一生無縁であるだろうと思われるもので満ち溢れていました。
朝比奈さんが言っていたぬいぐるみ、コーヒーカップばかりではなく。アクセサリ、化粧品、ガーデニング用品、舶来ものの菓子、キャラクターグッズに生活雑貨エトセトラエトセトラ。
変り種としては鞄や下着なんていうものまで陳列されていました。目まぐるしく目移りしますが、しかし目を奪われるようなものは有りません。
当然と言えば当然の話ですね。
ここは女性向けにコーディネイトされたお店なのですから。僕は招かれざる客でしょう。
傍らを歩く少女へと戯れを、口にしてみる。

「気に入ったものが有ったら言って下さい。奢りますよ」

「了承した」

いつもと変わらない彼女の返答。それが余りに場にそぐわない事務的さで僕は少し苦笑してしまう。
はしゃぎ、目を輝かせる長門さんというのも可笑しな話ではありますが。しかし、一目で良いので見てみたい気もします。
怖いもの見たさでしょうか……と、女性に向けてこんな事を考えるのは流石に失礼ですね。

「もしよろしければ、僕が選びましょうか? 気に入らなければ言って下さればよろしいでしょう」

言って、傍らに丁度良く置いてあった色ガラスで飾られた指輪を手に取る。

「たまにはこういうものも、付けてみたら気分転換になるものですよ」

長門さんの右手を取る。細く、白い指が五本整然と並んでいた。そこで僕ははたと気付く。
どの指にこれを通せばいいのだろう、と。
僕が少しばかり悩んでいると、彼女は言った。

「この追加装飾を私が着ける事の意味を求める」

ああ。
ああ。
少女はその意味も分からない。なぜだかそれが、悲しかった。無性に、切なかった。
他人事であるのに。ありながら。僕には……正直に言いましょう、辛かった。
崩れそうになった表情を、しかし咄嗟に僕は困った振りをして隠す。

「そうですね……これは理解する類のものではありませんのでそれを説明するのは少々難しいかも知れません」

「学習ではない?」

「はい。感じるものですから」

言いながら形の言い人差し指に金額の書かれたタグが付いたままの指輪を通す。

「よく、お似合いです」

「そう」

彼女は素っ気無く、頷いた。そして僕をまじまじと見つめる。

「追加装飾をする事が朝比奈みくるの言っていた『可愛い』という言葉の意味」

「いえ、違います」

そうでは、ない。彼女にそれを分からせる事は地球人類には無理な話なのかも分からない。
少女は左腕を僕の腰に巻き付けたままに右手を掲げ示した。

「この指輪は、可愛い?」

「はい、そこそこ可愛いと思いますよ」

思ったままを言葉にする。もしかしたら彼女の理解を促す事が出来るかも知れない、などと希望的な観測を抱きつつ。
しかし、それが適わないであろう絶望的な現実を目の当たりにしてなお、僕は自分を騙して。
人の姿をしているから。
僕らと同じ姿形をしているのならば。
意思の疎通を夢見る。夢に夢見る年頃というのも、満更偽りではないらしい。

「では、あのぬいぐるみは? 可愛い?」

少女の右手がすっと伸びる。人差し指に掛けられたサイズがだぶだぶの安い指輪は、店内の照明を受けてヒスイのような輝きを見せた。
視線を向ければそこには間延びした表情をしたくまの等身大ぬいぐるみが飾られている。

「可愛いと思います。朝比奈さんが好みそうですね」

「貴方は? 好みではない?」

「可愛いとは思いますが、欲しいとは思いません。僕は男ですし……何より僕の部屋は手狭なのですよ。物を増やす余裕はありません」

「そう」

「そうです」

デートのようではありましたが、ここまで色気に欠けていてそれでもなおデートという言葉を用いて良いものなのか、僕には判断が付きかねました。
その後も、長門さんによる質問は続きました。僕はそれに一々可愛いか可愛くないかの判断を下さねばならず。
まるで○×二択式の感受性のテストを受けているような気分になってしまったのは、まあこれは仕方の無いことだと割り切りましょう。

「では、あのプランタは?」

「そうですね。非常に独創的な形をしていらっしゃいます。機能美ではありませんが、これはこれで部屋のアクセントになるかと。ええ、可愛いのではないでしょうか」

「では」

入り口近くの園芸コーナを回りだした頃には、僕は少しばかり疲れていました。女性の買い物に付き合う事を男性は基本的に苦痛に感じるというのにも納得することしきりです。
長門さんが指を差す。僕はゆっくりと顔を上げ、そして凍り付いてしまった。

「彼女は? 可愛い?」

店舗の外、ガラス越しにこちらを見てにやにやと微笑んでいる、意地の悪いその表情は僕もよく知っている顔です。
見られた。しまった。という思考よりも先に「どうしてここに彼女が」という疑問で僕の頭はいっぱいになってしまっていた。
ああ、反射ですぐには分かりませんでしたが、よくよく見れば笑む彼女の傍らにはアコーディオンヒータに腰掛ける彼の姿も有る。
……なんと間の悪い事でしょう。

「非常に、魅力的だと思います。そうですね……僕は可愛いと思いますよ」

涼宮さんのしたり顔を見つめながら、僕は今日何度目かの溜息を吐いた。
涼宮さんがガラスの向こうで彼に向かって何事かを話している。こちらから目線は逸らさず。
これは……憂慮すべき事態であるのかも知れませんよ? 彼女に捕まってしまえばNASAに捕獲された宇宙人よろしくの質問攻めに遭う事は先ず間違いなく。
別に長門さんと恋仲であるという勘違いをされる事は構わないのですが、しかし出来れば回避したいという本音がむくりと顔を出す。

「逃げましょう」

意識せず口を突いて出た言葉は、きっと本心などという類ではないのかと考えます。
決断してしまえば善は急げの鬼は外です。踵を返して店内へと早歩きで逃げ込む僕と、それに付き従う長門さん。涼宮さんが僕らを指差して何事かを叫んでいましたが、生憎店内BGMでそれは聞こえません。
正しく黙殺というヤツですね。
レジにて少女の指にずっと引っ掛かっていたアクセサリの会計を早々に済ませる。どこに置いてあった物なのか、それを捜し歩く時間さえ、惜しい。

「奢ります。代わりと言ってはなんですが不可視をお願いしても? いえ、貴女だけで構いません」

「分かった」

店内深く、ぬいぐるみコーナに身を潜めた、ちょうどその時に店舗入り口の自動ドアが開きました。
かくれんぼの鬼の登場です。

「キョン、絶対にあの二人を逃がすんじゃないわよ!」

「へいへい。で、やっこさんはどこにいらっしゃいますかね、っと」

「逃がさないわよ。あんな衝撃の瞬間を見せられたとあっては、詰問しない訳にはいかないわ、SOS団の団長として!」

「お前、いつになく目が輝いてるよな……」

「キョン、見事捕まえた暁には今度の期末テスト対策用にまとめたアタシの完っ璧なノートを貸してあげるわ」

「よし、乗った」

僕の身柄は、本当に彼の中で安く見積もられているのだな、と。ついには紙束と交換ですよ?
そんなものくらいならば、機関で幾らでも用意するというのに。もしかして彼を友人だと思っていたのは僕の方ばかりなのだろうか。
雑貨の陰に隠れて注意深く彼らを見守っていると、涼宮さんが彼に何事かを言いつけて階段を上がっていった。少年は入り口近くのその場を動かない。
なるほど、上手いやり方だと内心舌を巻いてしまう。二人居るのですから店内に一つしかない出入り口を一人が塞いでしまえばそれで後は時間の問題……弱りました。
これは、長門さんにお願いして僕の身にも不可視属性を付与して貰おうかと、そう思った矢先でした。彼がきょろきょろと周りを見回し、そして右手で小さくOKサインを作る。

「出て来て良いぞ、長門。古泉」

二階に居る涼宮さんには聞こえない音量で、ありながら僕らに届くであろうぎりぎりを見計らって彼は言う。

「ハルヒに見つかったら厄介だろ。俺だって面倒事は御免だからな」

……そういう事ですか。つまり、彼は味方。先ほど涼宮さんに迎合してみせたのは嘘も方便という訳ですね。
いつ二階から降りてくるか分からない少女に留意しつつ、陳列棚の死角となる位置を進む。

「よお、色男」

「どうも。嘘吐きは泥棒の始まりですよ?」

「そんな憎まれ口よりも先ず感謝の一つくらい有っても罰は当たらんと思うんだがな、俺は」

共犯者は笑った。

「貸しにしておいて下さい」

「元よりそのつもりだ。お前、この貸しは高く付くぜ?」

「それは怖い。お手柔らかにお願いしますよ」

彼がすっと右手を挙げる。僕はその意を汲み取るとすれ違いざまそこに右手を叩き付けた。

「行けよ。どうやら、今回ばかりはお前がヒーローで俺やアイツは脇役だ。そうだろ?」

「芝居掛かった台詞ですね。そういうのは僕の領分ではありませんでしたか? それともそういったものまで取り替わってしまったのでしょうか?」

「うっせー。さっさと行け、ヒーロー」

「後は……涼宮さんのご機嫌伺いは任せますよ、元ヒーロー」

自動ドアを潜る。出入店時のサウンドに涼宮さんが階下に降りてくるのは時間の問題だった。
うかうかしては、いられない。

「今日はなんか、配役交代の日なんだろ。こういう日がたまには有ってもいいさ。変わり映えしない日常に一粒のスパイスってヤツだ」

「では」

「おう」

外に出た僕は脇目も振らずに走り出す。背後から、少女の怒声が聞こえた気がしましたが、きっと気のせいでしょう。
そういう事に、しておきましょう。


秋と冬の間の季節には名前が無い。
冬ほど空気が澄んでいる訳でもない、秋ほど過ごし易い気温でもない、そんな中で目に入る路地という路地を曲がり疾走する僕とそれに付いてくる少女。

「疲れませんか?」

「平気」

「愚問でしたね」

まるでヘンゼルとグレーテルのように、アスファルトの森を迷い行く僕たち。パンくずは全て小鳥に食べられてしまって、お菓子の家なんて終着点も見当たらないけれど。
息は上がり、脈は速くともしかし、これくらいで体力が無くなるような軟(ヤワ)な鍛え方はしていないつもりです。
腐っても、機関の構成員ですから。

「さて、ここまで来れば大丈夫でしょう」

「涼宮ハルヒの追撃は振り切った」

いつの間にか、不可視を解いていた長門さんはやはりと言いましょうか、僕とは違って汗一つかいていない。
まあ、汗をかく長門有希など僕にはそもそも想像出来ない訳ですが、ね。

「追撃……追撃ですか。ふふっ、長門さんも言うようになりましたね」

少女は少しだけ首を傾げる。その様子が、先ほどまで神経を緊迫させていた僕には妙に可笑しかった。
笑ってしまう。

「いえ、褒めてます。日本語が堪能になられた、とね」

少しばかり人間臭さを感じて、それは彼女の超然とした立ち居振る舞いにミスマッチで。
ああ、なるほど。
これが、ギャップですね。彼女が僕の目を通して探している。
果たして少女には、届いただろうか。少女自身が内包している、ズレは。

「よく分からない。この個体は存在が開始した時点で必要と思われる言語はインストールが終わっている」

「そうではないんですよ、長門さん」

背中にぴたりと張り付く、彼女に語り掛ける。

「了解語彙と使用語彙というものが有ります。意味が分かっている事とそれを利用出来る事とはまるで別物です。
会話や文章で使用される言葉とは後者ですね。それはつまり、言語の選択。そこにはどうしても個々人のセンスというものが含まれてきます」

センス。そんなものは彼女には存在しないと思っていた。思い込んで、枠に嵌めていた。
その枠外。この人はこういう人なのだ、という既存を打ち壊す一瞬。
それはやけに眩しく、僕らの目には映る。僕の視覚情報を共有しているという彼女。
彼女には、それが共有できただろうか。
共有出来ていれば、良い。
さて、一息吐いた所でそう言えばお腹が減りましたね。とは言ってみたもののまだ界隈を名探偵涼宮ハルヒさんが現場検証なさっているであろう事は想像に容易く。
仕方が有りません。折角レストランには目星を付けておいたのですが無駄になってしまったのも、これも天命と諦めましょう。
神様が相手ですし、下手をしなくともレストランで偶然……いえ、必然に鉢合わせになってしまう可能性も考えられます。

「長門さん」

「何?」

「好きな食べ物は有りますか?」

「特に」

これまた愚問でした。彼女は目の前に有るものは全て平らげてしまう大食漢(漢?)である事を僕は知っています。
でしたら、遠慮は要りませんね。

「手料理とか、お嫌だったりしませんか? もしよろしければ僕の部屋で夕飯を振舞おうと考えているのですが」

「平気」

「そうですか。助かります」

了承を得て僕は歩き出す。その僕に少女は抱きつき、寄り添って。ああ、もうこの状況に何の不思議も抱かなくなっている自分が居ます。
やれやれ、困ったものですね。神人よりも、神よりも、僕は一人の少女に参ってしまっている。
挙句、何かを勘違いしてしまいそうになるのですから。全く人間とは御し難いと言わざるを得ません。


少女がくっ付いている状況では靴を脱ぐのも一苦労です。

「お上がり下さい」

「お邪魔します」

玄関傍らのスリッパを彼女に差し出し、僕は室内の電気を点ける。
独身用のワンルームマンションは当然に今朝のままで。長門さんの突然の襲来に乱れたベッドも、シンクに置かれた洗い物も、見る度に今朝の狼狽を思い起こさせます。
朝に畳もうと思っていた洗濯物はまだ軒先に掛かっているでしょう。その中には当然下着も含まれている為に、まさか少女の手前取り込む訳にもいきません。
……もう一日、放置ですね。明日雨が降らなければ良いのですが。

「……着替える?」

「いえ、制服のままで問題有りません」

朝の時のような、あんなやり取りはもう真っ平ですので。左手を少女の目に翳したまま自分の体すら見ずに触覚だけを頼りにして服を着るとか、あれはもう殆ど曲芸の域でしょう。

「しかし、料理をするのであれば制服は機能性に欠ける」

「エプロンをしますから」

「……そう」

なんでしょう、今の三点リーダは。背筋を薄ら寒いものが上っていきますが……いえ、気にしてはいけない事のような気がします。ええ。
僕は意識的に思考を切り替えて、冷蔵庫の中身を思い出す。炒め物など油が飛ぶ恐れの有る料理は長門さんに悪いですね。

「……ポトフにしますか」

確か、棚にホールトマトが買い置きしてあったはずです。あれならば女性受けもそう悪くないでしょう。
ニンジン、ジャガイモ、カブと定番の野菜にカレー用の豚肉。ソーセージの賞味期限は……どうやら大丈夫なようですね。

「あ、セロリって大丈夫ですか? 嫌いな人結構多いんですよ。僕は好きな野菜なんですけれど」

「問題無い」

「ホールトマトを使うのはどうやら邪道なんですよね。最近、レシピを見てビックリした覚えがあります。でも、とても美味しいんですよ?」

「そう」

野菜の皮を剥くのはそこそこ慣れた作業です。こう見えて独り暮らしはそこそこ長い事も有り、否応無く身に付いてしまったスキルでした。

「本当はニンジンなどは皮を剥いたら切らずにそのままを入れて煮込むんですけどね。今日は時間が惜しいので省略しましょう」

一々、作業内容を説明してしまうのは彼女が興味深そうに僕の手元を覗き込んでいるから。そんな風にしげしげと見つめられては楽しくなってきてしまう。
食材が料理に変わる、その過程はまるで魔法のようではありませんか?

「ベーコンなどを入れても美味しいですよ。と言いますか、ポトフという料理がコンソメスープによるごった煮、日本で言う所の鍋ですから」

思わず鼻歌が出そうになるほど料理に夢中になっている自分の存在に気付く。おっと、危ない危ない。
炊飯器には十分な量のご飯が用意してあります。本当は今朝から食べ始める予定だったのですが、そんな余裕はありませんでしたね。
トーストとコーヒーという簡易の朝食であっただけにお腹も空いてしまっています。
それは今日一日、僕に連れ添っていた長門さんも同様でしょうね。であるならば、彼女の胃袋を満たすにはこれだけでは足りませんか。確か冷蔵庫にマカロニサラダが有ったはずです。

「本当はもう少し寒くなってからの方がカブも旬なのです。また、冬にでもリクエストがありましたらご馳走しますよ」

「是非」

「ふふっ。そこまで気に入って貰えるか分かりませんけれど、腕によりを掛けて作らさせて頂きましょう」

鍋を火に掛けバターを溶かし、そして下味を付けた豚肉を投入。この匂いだけでもお腹が空いてきますね。空腹は最高のスパイスと、昔の人はよく言ったものです。

「さて、後は煮込むだけですね」

野菜が浮かんだ赤い色のスープをかき混ぜながら、僕はふと、そこでもう一品を思いつく。
長門さん相手ですし、献立は少なくとも多いという事はないでしょう。

「後は魚ですね。冷凍室に鮪のサクが有ったはずです。それを解凍しましょうか」

もう冷蔵庫の中身を空にしてしまう勢いでしたが、こんな日もたまには良いでしょう。来客など稀な事ですし。

「刺身?」

「いいえ、カルパッチョです。いえ、まあ似たようなものですか。お刺身よりも薄めに切って作り置きのソースを掛けるだけなので、手間は変わりませんし」

下に敷く野菜は……そうですね、水菜にしましょう。シャキシャキとした食感はこれも僕の好きな野菜の一つです。

「ああ、なんだか調子に乗って作っていますが、そういえば長門さん、食べ切れますか?」

「任せて」

「流石です」

僕は笑った。この頃にはもう、腰にしがみ付いている少女にまるで違和感を感じなくなっていた。
それが最初からそこに有るのが自然なように、僕は感じ始めていた。とは言えそれに気付く事は無く。
来客を純粋に楽しませようとしている、ただ一人の個人、超能力者でも機関の構成員でもない、ただの古泉一樹がそこにいた。

「ああ、そういえば。認識のズレ、でしたか。理解出来ました?」

切った魚肉を散らした水菜の絨毯に並べながら僕は問いかける。彼女は鼻を少しだけ動かして、そして僕を見た。

「貴方が私と違う視界、思考をしている事は分かった」

「そうですか。少し興味が有るので具体的に教えて貰えたら、嬉しいですね」

「例えば。貴方の視点はとてもよく動いていた。眼球運動その他、貴方は周りに常に気を配っていた。これは私にはない行為」

「ふむ、なるほど」

対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェイス。情報を拠り所とする彼女たちは基本的に視点を変えるという事をしない。
視覚情報にそれほどの重きを置いていないからであり、そしてまた視覚に頼らずとも死角が存在しないのがその理由だと僕は考えます。
つまり、周囲を映像として認知していないという事です。

「それは……勿体無いですね」

僕は呟いていた。自分でも、なぜこんな事を言い出したのか、分からない。
そんな事を言う必要も、義理も無いのに。

「勿体無い?」

「僕らの世界は、美しいもの、醜いもので溢れているんですよ、長門さん」

例えば、僕が魚を整然と並べているのだって、それを目でも味わって貰いたいからであり。

「それらに目を向けないのは、とても勿体無いと思います」

僕は少女の指先を見る。そこにはあの指輪がまだ引っ掛かっていた。
この視覚は長門さんに届くだろう。
けれど僕が今から吐く言葉は、届くだろうか?

「可愛いものだって、あんな小さな空間でありながら、それでもたくさん有ったでしょう?」

僕が可愛いと可愛くないの判断に頭を悩ませた、あの時間は無駄だったのでしょうか。そう思いたくない僕が居て、そして諦めてしまっている僕が居る。
だぶだぶの、その指輪は彼女の指に絡んだままにくるりと半周している。

「分からない」

ただ、そう一言。彼女は呟いた。それが全てだった。

「視覚を通した映像に情報としての価値が有り、それは一考に価すると私は考える。しかし、可愛い、美しいといった概念は非常に抽象的と言わざるを得ずそこに唯一規定の概念も存在しない為私には判断する事が出来ない」

誰かにはきれい。誰かにはきたない。
そこに絶対の線引きなどは、ない。だから彼女にはそれを判断する事が出来ない。分かっていた事。
好きも嫌いも、見方次第。
視点が違う。
始点が、僕と長門さん(ウチュウジン)では違う。
産まれ方が違えばそれは交わらない。

「そう……ですか」

胸に去来する、この想いに寂しさとそう名付けてしまうのは僕の独善に過ぎない。
結末など、所詮はこんなものなのです。彼のようにはいかない。僕はヒーローには向いてない事を嫌というほど思い知らされる。

「僕らの価値観や考え方を、貴方に押し付けようとするのはこれは強要ですね。いけません……いけません」

僕らと同じ姿形をしていても。
いや、しているからこそ。僕はそこに勝手に期待した。もしかしたら分かり合えるのかも知れないなどと、夢想してしまった。
少しづつ変わっていっている少女を間近で見てきたから、けれどそれは高望みでしかなかったと。そういう事ですか。

「……もうすぐ、ポトフも良い具合ですね」

溜息は、湯気で隠した。
彼女に罪は無い。悪いのは、一人よがりな僕でしかないのですから。

「晩御飯に、しましょうか」

なるべく明るい声を装って、僕は言った。本心を隠すのは散々練習して、もう苦でも何でも無くなっていた。
失望にも、慣れさせられていた。

今から思えば、この時の僕は勘違いしていたとそう言ってしまえるでしょう。
彼女が映像の価値を理解して、他者との認識のズレに納得したとそう口にしておきながら、それでもまだ僕の腰から離れなかったのは、なぜか。
……いや、ここで語るのは野暮ですね。
これはもう少し後のお話と、そうしておきましょう。
トッテオキは、取って置く主義ですから。
ショートケーキの苺は最後に食べるもの、でしょう?


翌日の朝、目が覚めた時にはもう、長門さんの姿はなくなっていた。どうやら無事に帰って頂けたようです。これでいつもの日常が戻ってきたというものでしょう。
……おや? 何か忘れているような……眠い頭を撫で付けつつ靄が掛かっているような昨日の記憶を反芻していきます……。
あ。
ああ、そう言えば涼宮さんの質問攻めが待っていますね。朝から憂鬱な一日の予感に、布団から這い出る事も億劫な僕。
昨日の夕食の後片付けもしなければならないし、洗濯も朝の内にやってしまわなければならないのに……仕方ない。
一つ勢いを付けて息を吐くと体の上から布団を剥ぎ取ります。途端に寒々しい室内の空気が僕の体を襲いました。
速やかにホットカーペットとエアコンの電源を入れなければ。ああ、エアコンのリモコンはどこに置いておいたでしょうか、と。辺りを見回してそして気付く。
畳む事も出来ず適当に座椅子に掛けておいた制服が、移動している。窓際のハンガに掛けた、そんな記憶は僕にはありません。ならばどうしてそんな所に有るのです?
カーテンを開ければ、朝日と共に僕の目に入り込んできたのは何も掛かっていない物干し竿。出しっ放しにしておいた洗濯物は影も形も無い。
まさかと思いシンクを覗けばそこに有るべき多量の汚れた食器類はやはり消えていて、キッチン下の引き出しに洗って乾かした状態で収納されていた。
……という事は。
箪笥を開ければ……干しておいた洗濯物はここにテレポートしていたようです。きちんと、畳まれた状態で。

「鶴の恩返し……いえ、一宿一飯ですね、この場合は」

出来れば下着には触らないで貰いたかったと思いながらも、歯を磨く際に見た鏡には作り物でない笑顔を浮かべた少年の姿が映っていた。

放課後の文芸部室。女神が僕を見ていた。じっと、疑惑のこもった目で見つめられていた。
いつもであれば僕はそれを受け止めて微笑んでみせただろうけれど、しかしどうもいつもではないらしいのでそれも適わない。
いわくに緊急特番、だそうです。僕らの活動が映像化されていた事は初耳でしたがしかし、そんな軽口を言えるような空気でもなく。
目を逸らしたまま、およそ三分が経過した頃にようやく彼女が口を開いた。

「それでは、百五十七回SOS団緊急会議を始めます! 被告、古泉君は前に出なさい!」

まるで、審判を待つ罪人のような気分でした……が、果たして僕が何をやったというのでしょうか?
完全に冤罪です。
おや? 昨日も同じような事を考えていた気がしますね。昨年の八月以来の既視感に少々危惧を感じつつも、しかし名指しされたのでは仕方有りません。
僕は「被告」と書かれたカラーコーンの立つ特別席に腰掛けました。

「あの……昨日も確か同様の事を思ったのですけれども、僕の扱いがオカしくありませんか?」

「さあて、オカしいのはどっちかしら!? キョン、罪状を読み上げなさい!」

僕らの女神は目に見えて生き生きとしている。他人の不幸は蜜の味。そんな言葉が僕の頭を掠めて過ぎていきました。

「へいへい、っと」

彼は少女とは正反対に気だるそうに手にしたA4サイズの紙を読み上げ始めました。ああ、それが罪状とやらですね?
裏面に筆致が見られない所を見るとわざわざプリントアウトなされたのでしょうか。相変わらず、こういった事には手を抜かない方ですね、涼宮さんは。感心します。

「被告、古泉一樹はSOS団規定による『団内恋愛の禁止』の項を侵し、アタシ達……ああ、これはハルヒが書いたからか……俺たちの大切な団員である長門有希をその毒牙に……なっ、毒牙だと! 古泉、てめえ!!」

「待って下さい! 完全無欠に冤罪ですよ、それ!?」

「シャラップ、黙りなさい、被告人。よく言うでしょ。火の無いところに煙は立たないの。出た釘は叩き込む主義だしね、アタシ」

超裁判長との腕章を付けた彼女は……こんな人が裁判を取り仕切っていてはこの国はお終いです。ええ。

「そんな殺生な!?」

「あら、今更じゃない、古泉くん。生かすも殺すも上に立つ者が決めるのは社会の常識よ、ジョーシキ。知ってるでしょ?」

「いや、そんな事はどうでもいい。おい、古泉。ここに書かれている毒牙ってのはどういうこった。返答によっちゃ俺は切り札を発動するぞ。ジョ……」

「嘘っぱちの出鱈目です! 長門さん、何か言ってください! お願いです!」

僕の訴えは届いたのか、少女は普段重い口をやけにすんなりと開けてくださいました。

「沈黙は金」

……僕、今日で機関によって存在を闇に葬られるかも知れません。
超裁判長による僕への追求はその後も苛烈を極めました。

「何を言っても無駄よ、古泉くん。アタシの目は誤魔化せないわ! 昨晩、有希と雑貨屋に居たでしょう、それも女の子向けのファンシーな!」

「え? あれ、長門さん、わたしが昨日話してたお店、もう行っちゃったんですか?」

「行った」

ナイスアシストです、朝比奈さん。そして自陣のゴールに向けてネットが破れそうなシュートを叩き込むその行為を止めて貰えませんかね、長門さん!
そこは否定しておいて貰いたかったですねえ、ええ!

「言質は取ったわ。有希? 一人で行ったの?」

「古泉一樹と一緒に行った。二人で可愛いと彼が感じているものを見て回った。色々と教えられた」

嘘は言っていません! 嘘は言っていませんが、少しは彼を見習って嘘も方便という言葉をどうか貴女の使用語彙の末端に加えておいて貰いたかったです!
ふふん、と涼宮さんが鼻を鳴らします。その顔は何も言わずとも「それ見た事か」と書いてあります。
そして僕には反論の余地も残されない……ABCD包囲網に晒された日本軍というのはきっとこういうものだったのではなかったのでしょうか。

「まあ、アタシ一人の判断っていうのも公平性に欠けるしね。傍聴人の意見も聞きましょう。みくるちゃん、どう思った?」

「え……えーっと、その。そういうのってちょっと羨ましいな、って思いました。……えへへ」

ダメです、朝比奈さんに意見を求めるのは殆ど「仕込み」ではありませんか。

「デートよね、これってもう完全に」

「そうですねー。わたしそういうのって全然縁が無いから、憧れます」

ほう、と。色っぽい溜息を吐く朝比奈さんに対して、僕は今日ほど憤りを覚えた日は有りません。
何も知らない振りをして、実は僕を抹殺する為に未来から送られた刺客なのだとしたら、僕はその予見振りに賞賛の拍手を惜しみなく捧げることでしょう。
いえ、未来からすれば予見などはただの歴史に過ぎないのでしょうか。

「……つまり、有罪ね」

なるほど、これが冤罪が成立する瞬間とやらですか。書記の方、同じ男性として擁護はして貰えないのですか?
そんな想いを込めた僕の視線は、けれど彼に届く事は決してなかった。
それは彼があらぬ方向……長門さんへと視線を向けていたからであり、そしてそれは彼女の一点に集中してブレなかったからでもありました。

「おい、長門」

「何?」

「それ、買ったのか?」

彼の頓狂な声に涼宮さんと朝比奈さんも一斉に視線を長門さんへと集め。一拍遅れで僕も首を回しました。
ペラリと。本を捲る少女の、その右手。
その、薬指。
人差し指よりもぶかぶかに、空回る玩具。

「へえ、珍しいわね、有希にしては。気に入ったの?」

少女はその問い掛けにたった数ミリこっくりと。
首肯を。

「 気 に 入 っ た 」という「感情」を周囲に伝える信号を。

発信したのでした。

「ふわー、可愛いですねー。サイズが合ってないのが残念ですけど、あ、でもわたしそういうのを直してくれる所を知ってますよ?」

「行く」

「はい、一緒に行きましょう」

朝比奈さんが読書を続ける少女に歩み寄る。そして、しゃがみこんでその指輪をしげしげと眺めた。
安物の、ガラス球の。
そんな指輪。

「こんなの売ってましたか? わたしも欲しいなあ。昨日言ってた内のどこのお店か教えて下さい、長門さん」

「ダメ」

珍しい。少女からの拒否。僕と同様のイエスレディであったはずの彼女はしかし、未来人に対して明確な「NO」を告げた。

「これは私のもの」

「そっかー。なら、仕方ないですね。うん、同じものを人が持ってるのってなんとなく嫌ですし、気持ちは分かりますう」

ねえ、朝比奈さん。貴女が簡単に言うその「嫌」という感情。それがどれだけ尊いものか貴女は知っていますか?
それが長門さんの口から出て来るというそれが、どれほどの奇跡か気付いていますか?
いいえ、これは言いふらしたりする事では、きっとない。
僕だけが知っていれば、この思いは。
僕だけが、独占していたい、そんなディスカバリィ。
それはあたかも、彼女の薬指に掛かった、今にも外れそうな指輪と同じように。

「でも、正直意外ね。有希ってこういうものに興味無いって勝手に思い込んでたのかしら。少し不思議だわ」

少し不思議。SF。サイエンスフィクション。その王道はこういうもの。
機械知性体が人との触れ合いによって感情を手に入れるという、ファンタジィ。いいえ、それは作り物でも幻想でもない。
長門さんは、そこに居るのだから。

「まあ、その指輪が可愛いのはアタシも認めるわ」

「可愛い?」

「え? 可愛いから着けてるんじゃないの?」

小さく首を振る少女。

「可愛いとは、古泉一樹を指す言葉」

僕を含め、その場に居た全員が絶句する。



「慌てながらも私に朝食を提供してくれる古泉一樹」

「オセロをして自信の有る顔で彼に負ける古泉一樹」

「私との接触を最小限に抑えようと尽力して空回る古泉一樹」

「一つ一つの私の質問に丁寧に答えてくれる古泉一樹」

「料理に熱中して鼻歌を歌い出す古泉一樹」

「着替えの度に私に目隠しをする古泉一樹」

「自分よりも他者に気を回す事の出来る人」

「彼を私は」

「可愛いと思った」

「変?」


さて、これ以降の話は僕の都合により自粛という形を取らさせて頂きます。
大変申し訳なく思いますが……しかし、こういった事は共有するものではないというのは皆さんお気付きでしょう。
長門さんでさえ手に入れた「独占」を、まさか皆さんが理解していないとは僕は思いません。
後はご想像にお任せします、と。そう言った所で如何でしょう。
しかし、僕も心苦しくは有るのです。ここまで付き合って頂きながら、その後を秘密にしてしまうのは。
そこで、お裾分けと言っては何ですが、この日における朝比奈さんのとある発言をもって、僕の感情を欠片程度理解して頂く目安として頂きたいと思います。
長々と、どうもありがとうございました。

「長門さん、可愛いと思っていないのだとしたら、なぜその指輪を着けているのですか?」



長門「これは古泉一樹の観察記念」 is closed.

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