ハルヒSSの部屋
今夜はブギーバック"ituki ring"
鈴の音、響き渡る。
靴音。
近づいてくる。
この店は貸切。
ウェイタすらいない店で一人佇んでいた僕は侵入者に声を掛ける。
「お一人様ですか?」
「知らん。後から誰か来るのかも知っているのは俺じゃない。お前だ」
僕は微笑む。君も苦笑い。
「ご注文は?」
「何が有るんだよ」
「何でも有りますよ」
まるで手品の様に。
「望むなら、何だって。貴方の手に入るでしょう」
「そっか。そうだな。そんなつまらない生き方はお断りだが」
「相変わらず欲の無い人だ」
「俺が欲なんざ持ってたら、きっとお前は今でもあの制服を着てるだろうさ」
「貴方も、ね」
とりあえず、と僕はグラスを差し出す。氷が揺れる。硬質の音を立てる。
「ロックでよろしかったですか?」
「尋ねるまでも無いよな。望むものが出て来るだろ?」
「それが、この店の売りです」
二つのグラスを打ち鳴らす。
「お帰りなさい」
「遅いんだよ、迎えに来るのが」
彼は微笑む。僕も苦笑い。
「機関が解体した後の僕は、ちょっと貯金を持っているだけの一般人ですよ?」
「だったらどうやって俺の連絡先を突き止めたってんだ、馬鹿野郎」
「昔取った杵柄、とやらですか」
BGM、リピートワン。
「こっちはずっと待ってたっつーのによ」
「おや、待っていてくれたんですか?」
「前言撤回だ」
「つれないですね。そして、変わってない」
彼は顎を撫で擦る。
「変わっちまったよ」
「後悔は?」
「山ほど」
「戻りたいですか?」
「半々、ってトコか」
「幸せでしたか?」
「それも半々、ってトコだな」
「同じですね、僕と」
ウイスキを流し込む。喉の奥が焼けるような、心地よさ。
「幸せだったか?」
「半々、ってトコでどうでしょう?」
「戻りたいか?」
「それも半々、といったところで」
「後悔は?」
「だらけですよ」
「同じだな、俺と」
ウイスキが彼の喉奥へと滑り込む。喉仏を上下させる、その姿は変わらない。
「何の用だ?」
「おや? 用件が有ると思いますか?」
「用件も無いのに呼び出したのか?」
「一人で飲むのが寂しかったんですよ」
「似合わない台詞だな、元エスパー」
「そうですか? 昔の僕はこんな感じだったかな、なんて考えながら受け答えをしてるんですけどね」
「それだけの為に場末のバーを貸しきるのは、それだけはお前らしいと言えなくも無い」
彼が懐からシガレットを取り出す。僕はポケットからライタを取り出してカウンタを滑らせた。
「生憎、煙草じゃない。パイポだ。嫁が怖くてな。禁煙してる」
ライタが滑って手元に帰ってくる。
「吸っても良いですか、僕?」
「構わんさ」
「では、失礼して」
身体を蝕む紫煙を肺一杯に吸い込む。
「彼女は、息災ですか?」
「ああ。見せてやりたいくらいだよ。余りに変わってなくて腰抜かすぜ」
「既に驚かせて頂きましたよ」
「覗き見か。趣味が悪いな、ピーピングトム」
「お子さんを連れて、あの頃よりも一段と綺麗になっていらっしゃいました」
「綺麗に? 実感無いな」
喉の奥で笑う。肩を震わせて笑う。
「ああ、こんな風に笑うのは久しぶりですよ。こんなに愉快なのも」
「こんなに懐古に浸るのも、か」
「ええ。あ、もう知っているかも知れませんが一応。機関の決定だったんですよ」
「知ってる。ハルヒを刺激しないように、だったか」
「宇宙人、未来人、超能力者……その頃には『元超能力者』ですが」
「アイツが力を取り戻さないように、その全てはアイツの前から消える、か」
僕は二人分の空のグラスに琥珀を注いだ。
「彼女の望みでも有るのかも知れませんね」
「別れが?」
二本目に火を点ける。
「そうです」
「かもな」
彼はパイポを口に咥えて濁った空気を吸い込んだ。
「ようやく手に入れた、幸せが続くように」
「お前らが邪魔になった、ってか。ハルヒはそんな女じゃないぜ」
「分かっていますよ」
煙草の箱とライタがカウンタテーブルを滑る。彼の手にコツリと当たった。
「優しいのでしょう。だから、叶えてくれた」
「何を?」
「僕らが貴方達の幸せを見なくても済むように、してくれたんです」
「そんなもんか」
彼はそれ以上の追及はせず、煙草に火を点けた。
「そんなものです」
「この再会も、アイツの手の上か?」
「恐らくは。実は僕、今、結構泣きそうなんですよ」
「奇遇だな」
二人分の紫煙が視界を曇らせる。
「俺もだ」
「それはまた……奇遇ですね」
「泣いても、誰も見てないぜ。煙草の煙が目に沁みたとか、言い訳も出来るだろ」
「その為に禁煙の誓いを破ったんですか?」
「まさか。隣で煙草吸ってる奴が居て、まだ我慢が出来るならソイツは人間じゃねぇよ」
「言い付けますよ?」
「よく言うぜ。アイツの前には二度と出れないくせに」
小さな店に煙が充満するのにはそう時間が掛からなかった。
だから、視界が定まらないのは、きっと、そのせいで。
「会いたいか?」
「残酷な質問ですね」
「悪かった。撤回する。聞かなかった事にしといてくれ。得意だろ、そういうの」
「幸か不幸か、得意です」
「きっと、不幸だ、そりゃ。……いや、不器用、だな」
「貴方には言われたくありませんよ」
「ははっ。違いない」
「別のにしますか?」
グラスが手元に滑ってくる。僕はそれに杏子酒を注いだ。
「会いたいですよ、ずっと。今も」
「そうかい」
「どの面下げて、って感じですよね」
「会えば良いじゃないか」
「貴方の生活が一変しますよ。そう、それこそ高校時代に舞い戻りかねません」
「そうなっても、今度の主人公は俺達じゃないさ」
「お子さんがどうなっても良いんですか?」
「可愛い子には何とやら、さ。それにな、古泉」
「はい」
「俺はお前達を信じてる。……この酒、甘すぎるな」
「そこで、その台詞は卑怯でしょう。ああ、炭酸で割りますか?」
「そうしてくれ」
冷蔵庫を開ける。そこにはキンキンに冷えたドリンクが並んでいた。
あの頃、ずっと渡せなかった小箱がそこで一緒に冷やされている。
「好きな分量で割って下さい」
「客に手酌させるのかよ、この店は」
「残念ながら、今日は店員が居ないんですよ」
笑いたいのに、笑い声が出て来ない。ただ、笑顔だけを浮かべられたのが……ああ、僕は本当に不器用になってしまったのだな。
「そうか。ソイツは仕方ない」
「僕が貴方の前に出てくるのすら、協定ギリギリなんですよ」
「お前らの内情なんざ知ったこっちゃないね」
「おや? それにしては頬が緩んでませんか?」
「目が悪くなったんじゃないか、お前」
彼の言う通り。今夜の僕は目が悪くなっているらしい。
何もかも、曇りガラスの向こうに有るような視界。
「視力検査なんて免許の更新ぐらいでしかやりませんからね」
「ああ、俺もだ」
「少し、酔っているのもあるようです」
「お前、こんなに酒に弱かったか?」
「いえ、夜が悪いんですよ」
「そういう台詞は異性相手に言え」
「女性が相手なら、貴女の瞳に酔ってしまいました、でしょう」
「俺が言ったらぶん殴られる台詞だ」
「棘の有る言い方ですね」
「棘が無いように聞こえたら、お前は耳も悪いよな」
杏子酒は、少し塩味がした。
口の中は鉄錆びた味。唇が破れていた。
「貴方に、会いたかった」
「そうか。俺はいつかこんな日が来るだろうな、とは思っていたが」
「彼女に、会いたい」
「そうか。俺はいつかそんな日も来るだろうな、とは思っているが」
「来ますかね?」
「来るだろうよ。アイツが優しいなら。きっと。お前の思いだって汲んでくれる」
「想いは汲んではくれないでしょうけど」
「俺の前でそういう事言うか、お前?」
「恨み言くらい、言わせて下さいよ」
新しい氷を二つのグラスに躍らせる。
「あまり強いのは勘弁してくれ。帰れなくなる」
「では、ジンジャーエールで割りましょうか」
「辛い方が好みだ」
「カナダドライは置いてません。貴方が望まなかったので」
この再会は、彼女の掌の上。望めば全て手に入る彼に、この場が与えられたのは。
彼が望んだから。僕が望んだから。そして、もう一人。
「元気だったか?」
「聞くの、遅くありません? その手の質問は最初にするべきでしょう?」
「忘れてたんだよ」
「元気でしたよ。貴方は?」
「見れば分かるだろ」
「残念ながら、今日の僕は目が悪いのですよ」
「元気だった。お前らの事を忘れた事は無かったけどな」
「忘れられる、訳は無いでしょう。あの日々は、僕の一番大切な時間だった。貴方にとって忘れられる記憶だったら、悲しくていっちゃん泣いちゃいますよ」
「もう、泣いてんじゃねぇか」
「煙草が目に沁みたんです」
「もう少し上手い言い訳を考えたらどうだ。らしくない」
「貴方が知っている僕というのは、何年前だと思っているんですか」
何年前だっただろう。あの日々は。なのに、今でも僕の心の中心を支配している、輝かしい思い出。
けれど、それはやはり過去で。
けれど、それはやはり懐古で。
「何年前でしたっけ?」
「さぁな。自分の年齢すら管理してるのは嫁と役所くらいだ」
「明日は彼女の誕生日ですよ」
「それくらいは覚えてる。ああ、後数時間だな」
「ええ。このタイミングで貴方に連絡を入れたのは、偶然ではありません」
「流石に日付が変わるまでには家に帰らせろよ」
「良い旦那さんですね、貴方は」
「ハルヒが五月蝿いだけだ。後、ガキ共もな」
誕生日午前零時。貴方はきっと彼女に、誰よりも早い「ハッピーバースデー」を告げているのでしょう、ずっと。
ずっと。僕と道を別れた後も。
彼女の傍には、貴方が居た。
既定事項。きっと未来人ならそう言うに違いない。
「幸せですね、貴方は」
「言ったな、半々ってトコだ。お陰様でな」
「そうでないと、困ります」
「古泉」
「はい」
「お前は? 幸せなのか?」
「ええ。彼女が幸せなら。僕はそれだけで幸せですよ」
「嘘吐け」
「半々、ってところですか」
「幸せには、なれそうか?」
「少なくとも、今夜は愉快です」
それは本音。アルコールのせいで、口に蓋が出来なかったようだ。そう。僕は今、愉快で、愉快で、そしてとても切ない。
「そうか。俺で良ければまた付き合ってやらんでもないが」
「言ったでしょう。この再会はギリギリなんですよ」
「その割には、ゆったりとしてないか?」
「用件が無いと、会ってはいけませんでしたか?」
「からかうな、古泉」
「これは、失礼しました」
紫煙が、喉に痛い。今夜の為に用意した煙草は吸い慣れず、少しキツかったかも知れない。
「お気付きで?」
「気付かない振りをしていた方が、お前の事だ。どうせ良いんだろ」
「あの鈍感だった貴方が、こうも変わられるとは。これは驚きを通り越してちょっとしたスペクタクルですよ」
「大袈裟が過ぎるし、それに昔もそこまで鈍感だった訳じゃねぇよ」
「では、気付いていない振りをしていただけだ、と。驚愕の真相ですね」
「確信は無かったからな。臆病者だったし。いや、今もだが。演技と地と、半々ってトコだ」
「それでも。貴方が大人になられた事を実感しました」
彼はグラスの中の氷を揺らして笑った。
「いつまでも子供じゃ居られないだろ」
「流石。『パパ』が言われると重みが有ります」
「おい、茶化すなら俺は帰るぞ?」
「申し訳ありません。タクシーがこの店に来る時間は指定済みなんですよ」
「抜け目無いな。ああ、褒め言葉だ」
「ありがたき幸せ。皮肉が上手くなりましたね」
「その台詞も皮肉だな」
この空間だけが、時間から取り残されているみたいだった。いや、もしかしたら本当に切り離されている可能性も有る。
彼女に出来ない、行為ではそれは無い。
「グラス、空ですよ。何を飲まれますか?」
「何が有るんだ?」
「貴方が望むものなら、なんだって中空から取り出しましょう」
「流石だな、超能力者」
「そこは手品師にでも鞍替えしたのか、と言って欲しかったですね」
「お前に先回りされるような台詞を吐いてたのは、昔の俺だよ」
「前言撤回です。貴方は変わられていらっしゃらない」
「それも……そうだな……」
「半々ってところ、でしょうか?」
「そうだ。半々ってトコだ」
何年も経っている。変わっていない訳が無いのに。時折、見せる仕草の中に君が変わっていないような錯覚を覚えるのは。
君が僕に合わせてくれているからだろうか。
それとも、神が会いたい人に会わせてくれたのだろうか。
考えても、答えなどは出る筈も無く。
「変わらないモノなんて無いさ」
「妙に実感の有る言い方ですね。何か、有りました?」
「いや、ウチのガキ二人な。昨日生まれたと思ったら、もう上は小学生だとよ」
「お父さんは大変だ」
「全くな。願いが叶うなら、もう少しマシな労働環境を俺に与えて欲しかったね」
「おや。幸せでは、ないんですか?」
「皆まで言わせるな。察しろ。頭の回転まで悪くなったか?」
グラスになみなみとアイスコーヒー。ウイスキを少しだけ混ぜて。
夜を溶かしたような味がする。
苦く、芳しく。少しだけ、頭を狂わす。
「古泉、結婚は?」
「秘密、としておきましょう」
「のくせに薬指に日焼け跡が有るんだな」
「そんなに目敏かったですか、貴方」
「人間は成長する生き物だろ」
「成長なんてしませんよ。人間はただ、忘却するのみです」
「へぇ。言うようになったな。何か有ったか、超能力者?」
「元、ですよ、その呼称も」
君が薬指に光る銀を弄る姿なんて、見たくは無かった。
……駄目ですね、僕は。
「今はどう呼べば良い?」
「お好きなように」
「だったら、決まってるな」
彼はニヤリと笑った。あの頃みたいに、意地悪く、笑った。
 
「副団長、息災かい?」
 
僕は、ついに滂沱の涙を堪える事が出来なかった。
 
この夜は、僕が望んだ通りの再会になっているのかも知れない。
「卑怯ですよ、貴方は」
「お互い様だろ」
「一番弱いところを、狙い澄まして刺すのですから」
「言ったろ。成長したのさ。やられっ放しだった頃とは違う」
「いいえ、全然」
僕は首を振った。カウンタに滴が落ちる。
「貴方はまるであの時のままだ。あの時の、あの貴方だ」
「誰よりもお前には言われたくないね」
「ははっ。違いありません」
「だろうよ」
僕は、変わってない。変わって、変わってない。
君は、変わった。変わらないままに、変わった。
違うのは、手の中の飲み物に残らずアルコールが入っている事と……。
「幸せ、なんですよね、僕」
「そうか。奇遇だな。俺もだ」
「でも、少しだけチクリと刺す、この思いはなんて名前でしたかね?」
「俺は語彙が少ないからな。間違ってるかも知れんが、それで良ければ答えてやろうか?」
「お願いします」
「センチメンタリズム、ってんだ、そりゃ」
懐古主義(センチメンタリズム)。
「モラトリアムの続き、でしょうか」
「残滓、だな。俺もお前も、モラトリアムなんて言ってられる年齢でも、立場でも無いだろうよ」
責任猶予期間(モラトリアム)。
「そうですね。ああ、メランコリック、なんてどうです?」
「ちょいと情感的過ぎるぜ、その言葉は。お前はともかく、相方が俺なのを考慮してくれ」
憂鬱(メランコリック)。
「センチメンタルの方が余程恥ずかしいかと」
「それもそうか。なぁ、古泉。言葉にする事に意味は有るのか?」
「貴方が僕と同じ時間と感傷を共有してくれる助けになるでしょう?」
「大分前から、共感してるつもりだったんだけどな」
「おや、これは嬉しい誤算だ」
「言ってろ」
「良いんですか? 許可を貰ってしまうと、僕は際限無く喋り続けますよ?」
「ああ、良いぜ」
彼はグラスを揺らして氷を鳴らした。そんな仕草が、けれどよく似合っていた。
昔の彼なら、きっと似合わなかっただろう、そんな仕草が。
「悪くない気分だ。今なら付き合ってやれる」
「今夜しか、無いんですよ、僕達には」
「まるで未来を見てきたように言うな、お前」
煙草が彼の手元と僕の手元を行き来する。灰皿に積まれていく吸殻だけが、時間の経過をしっかりと僕に伝えていた。
「協定、ですよ。言ったでしょう」
「悪いが俺はその内容を知らんし、知る気も無い。俺が知ってるのはたった一つさ」
「一つ、とは?」
「俺達の女神はツンデレだが、慈悲深い」
彼が口にして、これほど似合う台詞も無い。
「再会を、お約束しても?」
「約束したら、守らなきゃならんからな。そんなのが無くても、俺達はきっとまたこうして酒を酌み交わせるさ」
「僕は信じてしまいますよ、その言葉」
「ああ、信じちまえ。信じる者は救われたりするらしい」
君は。僕は。変わった。変わってない。
どちらなのか、なんて意味は無い。
きっと、半々といったところなのだろうから。
「この場は、誰が用意してくれたんだ?」
「僕と、彼女と、彼女が。いえ、神様が望んでくれたのでしょうね」
「そうか」
彼は煙草を深く一度吸って、そして大きく煙を吐き出した。
溜息を、吐くように。
「朝比奈さんと、長門によろしく言っておいてくれ」
「承りました」
「ああ、後、元超能力者の変態にも、一応な」
「……必ず、伝えますよ」
「なんか有ったら……何も無くても、俺の方はカムカムウェルカムだ」
「そんな事を言っていると、非常識が大挙して押し寄せてきますよ?」
「言ったろ。ウェルカムだ。酒くらいなら出してやっても良いぜ」
彼が微笑む。僕も苦笑した。
そんな「いつか」は決してやってこない。知っている。
宇宙人が、未来人が、機関が。彼と彼女を今でも取り囲む全てがそれを許さない。
でも、僕はその真実を決して君に告げない。
告げては、ならない。
希望は、届かなくとも輝いているだけで価値が有る。
それが分からない子供では、僕はもうない。
「では、いずれ」
「ああ。いつでも来い。ハルヒも喜ぶ」
「開口一番、怒られそうですよ。どこに行っていたのだと」
「それくらいは、甘んじて受けろ」
「ええ」
BGM、リピートワン。空気を、気だるく染めていく。
「古泉」
「はい」
「だから、別れ際に『さよなら』は無しだ」
「臭い台詞ですね。しかし、よくお似合いで」
「茶化すな、って言っただろ」
「ならば、何と言って別れましょうか?」
「決まってる」
 
僕は、昔、彼女に渡せなかった小箱を、彼女の連れ合いに渡した。
「また会おう」
「またお会いしましょう」
その別れの言葉も小箱の中身と同じで、きっと半々。
 
靴音。
近づいてくる。
この店は貸切。
ウェイタすらいない店で一人佇んでいた僕はずっとテーブルに着いていた彼女に声を掛ける。
「お一人様ですか?」
 
返答は無かった。いや、三点リーダは何よりも雄弁だったと言うべきか。
「朝比奈さんは?」
「帰った」
「そうですか」
背後を見ると、そのテーブルでは誰かの涙が水溜りを作っていた。
「これで良かったですか、長門さん」
彼女は何も答えない。
「一目見るだけ。声を聞くだけ。ストイックですね」
違う。
彼女達は声を掛ける事すら出来なかった。
不可侵協定が、彼女達を雁字搦めに縛り付けていたから。
「……古泉一樹」
「はい」
「ありがとう」
「その言葉は向ける相手が大分的外れです」
彼女の前にグラスを差し出す。アルコールが彼女を酩酊させてはくれない事を、僕は知っている。
だから、戯れにそこへウイスキを注ぐ。
「一緒に、飲みませんか?」
「構わない」
「ありがとうございます」
「その言葉は私に向けるべきではない」
宇宙人がジョークを言える事を、久しぶりに思い出した。
数年振りに。
「長門さん」
「何?」
「いつか、五人で飲みに誘いますから、その時は良い返事をくれませんか?」
だから、戯れにそこへ繰り言を告ぐ。
 
「喜んで」
前言撤回。アルコールは、宇宙人からも笑顔と涙を引きずり出す事が出来るらしい。
 
「望むなら、何だって。貴女の手に入るでしょう」
「変化の無い時間はもう過ごさないと決めた」
「相変わらず欲の無い人ですね」
「わたしが欲求を所持していたら、きっとわたし達は今でもあの制服を着てる」
「ああ、それは願ってもない。そしてお断りです」
「……半々で」
「ええ。半々で」
 
 
こうして、誰かと誰かと誰かの、初恋が幕を閉じた。
甘い、苦い、芳しい。ウイスキを飲み干すように。少しだけ喉と思い出を焼いて。
まるで、ミルクに蜂蜜を溶かし込んだような、少しだけ特別な夜のお話。


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