ハルヒSSの部屋
雲を食むもの
『Starry Sentimental Venus 1』


未来ってーのは柑橘系の香りがするらしい。
きっと纏めてしまえばそれだけの話。

六月三十日、茹だる様な暑さは夏の到来をこれでもかと声高に俺へ教えてくれる。
季節は初夏。とは言いながらも一週間の内に日本列島のあちこちでは真夏日がちらほら見掛けられたりと中々に季節感溢れる今日この頃である。最近よく耳にする地球温暖化とやらの影響だろうか。
冬の頃こそもっと温暖化を全世界的に進めるべきだなどと下らない事を内心思わないでもなかった俺だが、そのツケとでも言うべきか俺の疚(ヤマ)しい考えに天罰を下そうと空の上の何かが考えたのかは知らないが……シャツが肌に張り付くのは気持ち悪い事この上ないぞ。
ああ、馬鹿な考えは今日を限りで悔い改めますのでどうか太陽さんよ、ここらでのんびり長期休暇でも取ってみたらどうだい?
窓際後方二番目というポジションは、頼んでもいないのに日焼けサロンに通っているような、見事な日当たりでございましたとさ。
そんな見事な日本晴れ。俺はと言うと夏休みを迎える前に学生が避けて通る事の出来ない天敵、一学期末の定期試験への憂鬱さも相まって夏本番を待たずして既に完全夏バテモードである。
ま、いつだって半分ほどバテモードだったりするのだが。そこはほっとけ。
さて、幾つになっても死刑はゴメンって事で。
今日も今日とて、誰に命令された訳でもないのにDNAに刻まれた本能がそうさせるのであろうか、せっせと餌を巣穴へ運ぶ働き蟻の様に何も考えず部室へと足を運び……お、今日は俺が一番乗りか。珍しい事も有るモンだ。
部室棟は静かだった。テスト前期間という事でクラブ活動の類は全面的に停止となっている。当然、お隣さんも今日はお休みである。
学校側の配慮なのか……単に教師がテスト問題を創る時間が欲しいだけだと俺は見ているのだが、真実がどうなのかは知らん。
前述の通り部活動は原則全面停止となっている。にも拘らず俺が文芸部室へと来ているのはなぜか。勘の良い方、あるいは涼宮ハルヒという人間の人となりを多少なりとも知っている方なら説明は不要だと思う。
蛇足と知りつつも敢えて説明をするならば、学校側の言う事をはいはいと聞くようなヤツが団長であったりした場合、この学校非公認の活動団体は既に公認となっていた筈で。
テスト期間何するものぞと今日もSOS団の予定表には休みなど書き込まれてはいない。
ま、ハルヒ以外がこんな活動内容不定(不逞?)の組織を作り上げるとは思えないので、そこは致し方が無いのだが。
人の気配の無い静かな室内で一人溜息を吐く。ああ、抵抗せど、抵抗せど、我が暮らし、楽にならざり。
団長サマへの日々の涙ぐましい、常識的と言っても決して語弊は産まないであろう俺の抵抗は、さりとて本日まで一向に実った例(タメシ)が無い。諦めろって事ですか。そうですか。
椅子に座り、せめてもの現実への抵抗として数学のノートと問題集を開いてはみた。
しかし常日頃からきちんとノートを取る様な授業態度であったのならば俺の学業成績は前回の一学期中間試験の結果を引き合いに出すまでも無く、墜落寸前の低空飛行を続けてはいなかったりする訳で。
ノートは真っ白とまではいかなくとも、所々に日々の度重なる睡眠不足を何とか打開しようと試みた痕跡が残っていたり、有り余る時間を無為に過ごしてなるものかと俺なりに努力した結果とも言うべき秀逸なパラパラマンガが隅に蔓延っていたりと使い物にはなりそうにない。
……さりとてこのノートの隅、親の贔屓目を抜きにしても素晴らしい出来である。全国パラパラマンガコンクールとかが有ったら無難に入賞出来るな……と、現実逃避はこの辺りで十分だろう。
恥も外聞も無く言ってしまえば、教科書なり問題集なりを眺めてその内容が手に取るように理解出来る脳味噌の持ち主では、俺はまるでない。
数学に取り掛かるのは解読書(ノート)が無いこの状況下。結論として自己学習を諦めざるを得なかった。後は野となれ山となれ……と言う訳にもいかないのだが。
我が家では成績が小遣いに直接響いてくる制度を採っている為に、最低限赤点だけは回避しないと、俺はこの年齢でもって定期支給金無しといううら悲しい学生生活を送らなければならなくなってしまう。
貯金を切り崩すのには限界が有るんだ。どっかに諭吉さんを入れて上からポンと叩いたら二人に増えているようなポケットは落ちてないものかね。有る訳無いよな。
溜息。世界は今日も俺に厳しい。
仕方がない。明日にでも国木田に頼み込んでノートを借りるとしよう。
朝比奈さんは上級生という事でテストの範囲が違うから参考にはならず。長門は授業中にノートを取っているかどうかも怪しい。
では同じクラスかつ成績もかなり良いハルヒはと言えば、授業とはまるで関連性が感じられない意味不明の公式がかなりの頻度でノート上をのたくっていたりする。
一度無理を言って借りた事が有ったが、三次関数を説明する教科書のどこに第一宇宙速度を求める演算式が有ったのかと一時間近く頭を捻る羽目になってしまった前科がアイツのノートには有るので、これも却下。
古泉は進学クラスという事でやはり俺達とは授業内容が違う。
結論として、下校中に何か適当な食い物を奢る提案をして国木田からノート及びご教授を賜るのが毎回の定期試験における俺の定番であった。
学力如きで人の価値は測れないと言うのが持論では有ったが、だったら何で真価を見せられるのかと問われれば、しがない学生の身、特に何も出来ないのが実情だ。
ああ、学生生活ってのは楽じゃない。只でさえ俺はハルヒのお守りをして世界平和に一役も二役も買っているんだ。自覚は無いがそうらしい。
だったら、その辺りを考慮してテストの結果にも下駄を履かせては貰えないモノかね、まったく。
日本史の教科書を眺めながらそんな下らない事を考えていると、不意に部室の扉がノックされた。世は将(マサ)に下克上真っ盛り。光秀は本能寺の門をノックをしたりはしないだろう。はいはい、開いてますよー?
「なんだ、お前か」
これ見よがしに溜息を吐く。マイスウィートエンジェルが勉学に打ち込む俺に対して一服の清涼剤を提供してくれるのを期待していただけに、室内に入ってきた嫌味の無い微笑に肩透かしを感じてしまうのも無理からぬと言えよう。
決して古泉に非が有る訳ではないのだが。気分の問題だな。恨むのなら自分の性別を恨め、優男。
「人が入ってくるなり溜息だなんて、趣味が良いとは言えませんよ?」
「悪いな、朝比奈さんの登場を心待ちにしてたんだ」
古泉が長机の上に広げられた教科書を見つけて小さく頷く。
「なるほど。そう言えば定期考査は来週からでしたか。気分転換を欲するその心境は理解出来ますよ。学生の本分、お疲れ様です」
ソイツが椅子に腰掛けるのを待って、俺は口を開く。
「他人事みたいに言うな。お前だって超能力者である前に学生の筈じゃなかったか?」
それとも定期テストに一々怯える様な頭の持ち主じゃない、とでもこのニヤケ面は言いたいのかね。ああ、クソ。憎らしい、忌々しい。さりとてかなり羨ましい。
「いいえ……」
言いよどむ少年がいつになく焦燥した面持ちをしている事に、俺は気付いた。ニヤケ面がニヤケ面していない。
「いつもならば僕も学生のカテゴリ内で良いかと思われますが、どうも……『いつも』では現在無いらしいんですよ。学生である前に超能力者である事を強制されている様でして」
古泉の言葉に唾を飲む。何だ? また何か面倒事が発生してるってのかよ?
「閉鎖空間が三日前から発生しています」
いつもの回りくどさはどこへやら。単刀直入、徹頭徹尾まで無駄なワードが見当たらない。どうした、古泉。悪い物でも食ったか……って、イヤイヤ、ちょっと待て。
この超能力者の余裕の無さ……マジモンの非常事態?
「……三日前? どういう事だ? なんでそんなに長い事放置しておいたんだよ? お前らが仕事サボったら『ぼくらのちきゅう』がヤバいんじゃなかったのか?」
疑問文四連鎖。次はブレインダムドだな。そんな俺の言葉に、机に肘を突いて小さく息を吐く超能力者。
「いえ、サボっている訳では決して有りません。昨日学校を休んだのはその対策が理由ですし」
そう言や、姿を見なかったな。あんまり気にしてなかったが。
「端的に言いますと……この度出現した閉鎖空間が壊せないので、その対策会議に出席していました」
「そんなにヤバい神人が出現し……」
台詞は途中で止められた。コイツが人の話を遮るなんてそうそう有る事ではない。記憶を探ってみたが、矢張りと言うべきかそんな過去には思い当たらなかった。
「違います。逆です」
「逆?」
今一要領を得ない。何が逆なんだ? ヤバくない神人が可愛くて機関員全員が骨抜きとかそういうオチなら前に誰かがやってたぞ?
「貴方の想像は中々に愉快ですが……今回は本気で余裕が無いのでそういった話題は広げられません。分かり易く言うとですね……居ないんですよ、神人が」
「なっ……!?」
神人が居ないと言われて、いの一番に思い出したのは、いつぞやの橘に連れて行かれた佐々木の閉鎖空間だ。だが、今回の話は佐々木のモノではない。話しているのも橘ではない。
ハルヒの閉鎖空間で、対処を迫られているのは古泉だ。
「通常の閉鎖空間の処理方法は以前に見て頂いたと思います。つまり、涼宮さんの苛々の元を断つか、ないしは苛立ちの具象化である所の神人を僕ら超能力者の手で倒す事です」
一度しか見てはいないし、一年も前の話ではあったがよく覚えている。と言うか、あんなレアで非常識な体験は忘れようとして早々に忘れられるモンじゃないしな。
「その神人が閉鎖空間に居ない。だから閉鎖空間を崩壊させる事が僕達超能力者には出来ない。でありながら拡大を、こうして話している今、現在も続けています。最早、我々機関には打つ手が有りません」
なるほどな。神人を倒すのが仕事のお前らが、その仕事をさせて貰えない、って訳か……いや、全然分からんぞ?
「説明しろ、古泉」
俺の促しに微笑みの貴公子はその二つ名を丁重に返上して、口元に苦笑いすら浮かべず頭を振った。
「説明……したいのは山々なんですけどね。分からないんですよ、理由が」
「……マジか」
言いながらも、古泉の顔が冗談を言っている顔に見えない事だけは平時から鈍い鈍いと言われ続けている俺にも理解出来て。
「エラく、マジです。……分かるのはタイムリミットだけ」
「……タイムリミット?」
俺の問い掛けに頷く古泉。オイオイ、そういうのはあのサンタスティックな十二月でコリコリに懲りまくってるんだぜ。大概にしてくれよ、チクショウ!
「一週間後の七月八日の零時零分……七夕を境に、この世界は消滅するという事だけが機関の全会一致による結論です」
古泉は諦める事に慣れた中間管理職の哀愁を背中に浮かべ、そう言った。

七月二日、日曜日。週明けの明日より四日間の期末試験が開始される。当然ながら執行猶予最終日の今日、学生はテスト対策に追われる訳で、昨日今日ばかりはハルヒの奴も俺達の事を鑑みて恒例の不思議探索を取り止めにしてくれた。
何でも……団員から赤点が出たらSOS団の沽券に関わるとか何とか。その手の発言をする時に俺の方ばかりを睨む様に見ていたのは……まぁ、確かに成績がヤバいのはSOS団在籍五人の内、俺一人だけなんだが。
神様というのが確実に不公平であるなんてのは今更俺が言うまでも無いだろう。二物こそ与えないらしいが三物四物なら平気で与えるのは、一体どういう了見だよ。
なんて割に俺なんてのは一物すら怪しいぞ。忌々しい。ああ、忌々しい。忌々しい。
さて、世界が五日後に終わるなんて話を聞かされて、それでも試験勉強に集中出来るような奴は恐らく宇宙人な訳で。俺はというとごく一般的な地球人の類に漏れず、一向にノートへとは向かわない手の中でシャーペンをくるくると回していた。
しかしだ。世界の平穏無事の為、いわゆる普通の人間でしかない俺なんかに何が出来るのかと問われればそれこそ頭を捻るしかない。
ハルヒに接触する? いやいや、テスト勉強をしている筈の俺が連絡なんかしたりしたら、それこそ火に油を注ぐ事になりそうだ。
古泉からの連絡待ちか。はたまた何も出来ずに世界改変か。今回も流され体質の俺はひたすらに待ちの姿勢である。
実際そこまで焦ってはいなかったりするのも悠長にならざるを得ない一因だった。
ハルヒが憂鬱になるのは何か有る度の恒例とも言えたし、それに一々振り回される俺達って図もそれこそ今更、って感じだったからな。
ま、有り体に言ってしまえば今回も何とかなるんじゃないか、と少なからず楽観視していた訳で。しかし、それにしたって世界が終わる……ねぇ……。いつもながら、スケールでかいぞ、ハルヒ。
俺みたいな小市民にとってアイツが引き起こす何やかんやは、規模がでか過ぎて現実感に欠けるんだよな。
もう少し……こう、等身大とでも言えば良いのか。ご近所商店街の危機に立ち上がる高校生! みたいなイベントにして頂けたら、などと考えるのは真実俺が小さい人間なんだろう。自覚はしてるから、ほっといてくれ。
ごく普通の学校に行ってごく普通の高校生をやっている(私的には)筈なのに、放課後の部活動で「世界の危機です」なんて言われんのはマンガやアニメじゃないんだよ、全く。
いい加減にしてくれ。
俺は正義のヒーロー変身用のゴーグルもバックルも貰った覚えなんかこれっぽっちも無い。巨大化も出来なきゃ、秘密兵器の一つだって自宅に隠し持っちゃいない。
こんなんで「貴方が鍵です」とか言われても……俺じゃなくったって首を捻る筈さ。
しかし、だからと言って古泉の表情が緊急事態のそれだったのは疑いようは無く。
ああ、そうだ。あのいつも笑っているカーネルサンダース人形みたいな男の、柄にも無い焦燥っぷりも気にならないと言えば嘘になる。アイツは余裕綽々で気持ちの悪い微笑を浮かべているのがデフォルトだ。
そんな変態が……微笑の欠片すら見せなかった。つまる所、真実、非常事態なんだろう。余り考えたくは無い類の案件ではあるものの、頭の片隅を占領して離れない以上それを置いておいたままに勉強なんざ出来る脳味噌の余裕は持っておらず。
「……仕方ねぇなぁ……」
溜息が零れる。俺は元素記号と睨めっこするのを諦めてケータイを手に取った。アドレス帳から目的の名前を探す。
テスト勉強に集中する為だ。小事の前の大事。俺の成績が浮上する素振りすら見せないのはハルヒ他の所為にしてやろう。責任転嫁は言われんでも分かってる。
「……」
ワンコール目すら待たずに電話が繋がった。電話に出たら「もしもし」くらい言うように今度教えておこうと考える。が、取り敢えずそんなのは後回しだ。
「……」
「長門か? 俺だ」
「……何?」
無機質で抑揚の無い声が聞こえてくる。いつだって俺達のピンチを救ってくれたSOS団の万能選手。すまんな、また頼らせて貰う。
「話が有る……今、何時だ?」
「十時二十六分三十二秒」
秒までは要らないが……これも長門の個性だと思い、優しい俺はツッコミを敢えてスルー。
「分かった。なら、十一時に駅前に来てくれ。話が有る」
「……そう」
「悪いな、休日に」
「気にしていない」
だろうとは思っていたが。コイツの休日の過ごし方を聞いた事は無いが、自室でじっとしているか、読書しているか、図書館に行っているかの三択でほぼ間違いはあるまい。
今度……遊びにでも誘ってやるかね。……ま、この事態が終息したら、だけどな。
「昼飯まだだろ? 飯くらいなら奢らせて貰う」
「……そう」
「用件はそれだけだ。それじゃ、後で」
さよならも、またねも無く、通話は切れる。宇宙人は挨拶に必要性を感じない。知ってるさ、そんな事。
そして……アイツはそれだけじゃない事も。
不言実行、宇宙人は背中で語るってか。まったくいつもいつも申し訳無いが……それでも。小さい身体に百万馬力。頼りにさせて貰うぜ、長門。

玄関を出ると表にタクシーが停まっていた。その脇に超能力者が佇んでいる。
「張ってたのかよ。趣味が悪いな」
「そう言わないで下さい。これも仕事の内ですので」
「生憎、タクシーを使うような金銭的余裕は無いぞ」
軽口を叩くと、ソイツは苦笑した。
「このタクシーは後払いなんですよ」
古泉は後部座席へと続くドアを俺に向けて開き、迎え入れるように手を広げる。
その流れるような仕草に、ホテルのベルボーイなんかがコイツの天職ではないかと勘違いしそうになった。が、言われるままに車に乗り込む事に抵抗を感じてしまうのは減点だな。
「そうですね……支払いは『この世界の継続』で代えさせて頂くというのはいかがです?」
「ちょっと高く付き過ぎやしないか?」
「いえ、妥当でしょう」
押し問答をしていても埒が明かないし、エアコンの効いた車内は抗い難い誘惑だったのも確かである。俺は車に乗り込んだ。
「どこまで行くんだ、古泉?」
「貴方と共に。行ける所まで」
俺達は火遊びを企む中学生の悪ガキみたいに顔を見合わせてニヤリと笑った。
お? ようやく、調子が戻ってきたみたいじゃないか、超能力者。

「新川さん、なんか……すいませんね、ハルヒの奴が」
運転席の初老の男性は少しだけ笑った。
「いえ、お気になさらずとも結構ですよ」
車は静かに加速する。揺れが少ないのはドライバーが良いのか、車が良いのか。多分、両方なんだろう。
「先ずは駅前でお願いします。長門……同級生と待ち合わせをしてるんで」
「了解しました」
口をつぐんで流れていく景色を見ていると、古泉が声を掛けてきた。
「長門さん、ですか」
「ああ、この手の事態はアイツ抜きで話す事は出来んだろうと思ってな」
「……確かにそうですね」
言って古泉は顔を俯かせる。何だ? 何か不都合でも有るのか?
「いえ、不都合ではありません……ただ……」
「ただ?」
「既に機関は彼女達に相談したんですよ」
彼女「達」……情報統合思念体の事か。なるほどね。俺が考え付くような事は既に実践済みってか。そうだろうよ。
「貴方を卑下するつもりは有りませんが、仰る通りです」
でありながら、機関が未だ動いている以上、対処はおろか有益な情報すら引き出せなかった、って事か。……まぁ、いい。
「現場百回、って言うしな。取り敢えずは心当たりを回って見ようぜ、古泉」
「ですね……僕らが気付けなかった事にも、貴方なら気付けるかも知れません」
それは無いな、と思いながらも口にはしなかった。言った所で、何がどうなる訳でもないと考えたからだ。

駅前に着くと、既にそこには長門の姿があった。広場の片隅の日陰で座るでもなく佇む、その姿は今日も今日とて制服である。
「よ、待ったか?」
「……そうでもない」
「そっか。腹とか、減ってないか?」
「平気」
うーん、確かに空腹宇宙人とかはちょいと想像が付かないが……でも、コイツ普通に食事するしな……要らないってんなら別に無理強いはしないが。
「用件は?」
「あ……ああ、そうだったな……っつっても具体的にどうするかとかは考えてないんだが」
とは言え、こういった事は俺が考えるよりも他に適任が居る。俺は振り返った。
「古泉、どうする?」
「……そうですね……取り敢えずは閉鎖空間にご案内しようかと考えていますが」
閉鎖空間……ね。コイツ等超能力者のフィールドか。ま、現場百回と言った以上、妥当な選択では有る。
「実物を見ても何が分かるとは思えませんし、長門さんは三日前にに引き続きという事になりますが……申し訳有りません」
「構わない」
液体ヘリウムばりに冷たい瞳を揺らす事無く言う長門。三日前……古泉が学校を休んだ日か。二十九日だったな。
「お前……俺に相談するより先に、長門にはちゃっかり相談してたのかよ」
「先程も言いました通り、僕達に分からない事でも情報統合思念体ならば分かると思いまして」
抜け目の無い奴だ。しかして、確かに俺よりも数段この宇宙人少女の方が頼りになるという事は認めないでもないさ。どうせ俺は普通人ですよー。
「いえ、貴方も頼りにしてるんですよ?」
どうだか。お世辞は程々にしておけ、古泉。
「世辞ではありません。ただ、貴方に頼るのは出来れば最後にしたいんですよ。言わば切り札(ジョーカー)ですね。……超常現象への対応は、超常現象の顕現……僕らの様な人間がやるのが筋だと思いますし」
ちらりと古泉の視線が俺の隣へ刺さる。その先に居るのは宇宙人製有機アンドロイド。……僕ら……つまりは超能力者や宇宙人、未来人の領分って事かい。
「貴方は……ご自分でも仰られた様に普通の人ですから」
そう言って古泉は踵を返す。俺は長門を連れてその後を追った。
新川さんの待つタクシーへと歩を進める男の背中に声を掛ける。
「朝比奈さんは? この件に巻き込まなくても良いのか?」
「その必要を認めたら、巻き込みますよ」
こちらを振り向く事も無く、悪びれもせず、ソイツは呟いた。

車から降り立った場所は、どこにでもありそうな学校の校門前だった。
「……ここ、か」
「まるで最初からここに来るのが分かっていたような口振りですね」
「ちょっとした縁が有ってな」
日曜でありながらグラウンドには部活動をする学生の姿がちらほらと見受けられる。
流れる汗。若人はこの灼熱の太陽の下であっても元気だ。俺だったら三千円積まれてもそんな苦行は御免被る。そんな枯れ果てたお兄さんの分まで駆け抜けろ、青春!
……五千円なら考えるな。どうやら俺はスポーツマンにはなれそうにも無い。なりたい訳じゃないが。
「ちょっとした縁、ですか。いえ、涼宮さんに関連しているのは知っていましたが、貴方も何かお有りで?」
東中学と書かれた表札を見て溜息を吐く。……さて、お気付きの方も多いと思う。俺達が降り立ったここは言うまでも無くハルヒの出身校、その校門前だ。
ちなみに谷口の出身校でも有るが……そっちはどうでもいいか。まかり間違ってもアイツが世界の危機に関係している事は無いと言い切れる。
普通人、一般ピーポー……なんか、懐かしい響きだと思ってしまう自分に自己嫌悪。どこで道を違えたのか。高一の春か。後悔先に立たずとは金言だな、全く。
「まぁな」
ハルヒの出身校。憂鬱な少女。七月二日。リミットは五日後の二十四時。七夕。うーん、何と言おうか……厄介事の臭いがぷんぷんするのは気のせいじゃ無いだろうな。
「これで何も気付かない奴は頭がどうかしてるだろ?」
「ふむ……どうやら、キョン君は僕達が知らない情報をお持ちのようだ。……貴方が動くと考えて僕を張らせた機関の見解は当たりですか」
少年が笑う。久方振りにコイツの安堵の表情を見た気がするが、残念ながら同性のそれには興味無いぞ、古泉。
「そうでもないな。肝心な事はまるで分からん。なんっつーか……『ああ、あの事件絡みか』って程度が分かっただけだ」
「十分かと」
「……そんだけ切羽詰ってる、って事か?」
「残念ながら、キョン君が仰られる通りです。どんな小さな手掛かりであっても……藁をも掴む、といった所ですよ」
古泉が俺と、俺の隣の長門に向かって手を伸ばした。
……欧米人なお前はどうか知らんが、純粋培養の日本人な俺にはシェイクハンドの趣味は無い。知ってるか? ここは日本だ。郷に入りては郷に従え。握手がしたいならヨーロッパにでも行って来い。
「いえ、閉鎖空間にご案内しようと思いまして」
「分かってる。冗談だ。流せ」
隣を見れば既に長門は古泉の手に手を重ねている。役得だな、超能力者。なんだか腹が立つから握る手に力を入れてやろう。喰らえ、ヘルズクロー!
「……怖がる必要は、有りませんよ?」
怯えて力を入れてるんじゃねぇっつの。……この野郎、渾身の握撃に眉一つ動かしやがらない。……クソ、今だけで良い。俺の右手に宿れ、花山薫!
「あ、目は閉じていて下さいね。網膜が引っ掛かってはコトですから」
……ハイ、無言の戦闘行為は端から勝負にならず俺の完敗である。なんだよ、握力なんてモンまで鍛えてやがるのか、秘密機関の構成員。
しっかし、網膜が引っ掛かるとか……脅しだよな、古泉? 若干眼を閉じる眉に力が篭っちまったのは……こ、怖いわけじゃ……ないんだからねっ。
そんなツンデレは男がやっても気色悪いだけか。うん。正直、すまんかった。反省してる。

トンネルを抜けると、そこは灰色だった。って感じだろうか。実際はトンネルなんか潜っちゃいないし、雪国に比べたら情緒もへったくれも無いのがうら悲しいね。
「現実と閉鎖空間の間をトンネルと言えなくも無いかと考えますが」
そんなフォローは要らん。
「これは失礼しました」
はてさて、何度目ましての閉鎖空間は過去数回の記憶に漏れずやはり灰色で、気温なんてものが最初から存在していないみたいに暑くも寒くも無かった。
先程までじりじりと鉄板の上に置かれた牛肉みたいに惜し気も無く降り注ぐ陽光に焼かれていた俺としては……しかしちっとも涼しいと感じないのは真実この世界に温度が無いからだろうか?
その辺は後で古泉にでも聞いてみれば良いな。
「で? この閉鎖空間がどうしたって?」
「いえ、一昨日説明した通り、どうもしないから問題なんですよ」
「どうもしない……ねぇ。長門、何か分かるか?」
長門は茫洋とした瞳で辺りを見回した後で、俺を振り向いた。
「……何かって何?」
いや、俺に振られてもそれはそれで困る。俺だって何がなんだかさっぱり分からんしな。
勉強が分からない子にどこが分からないのかを聞いても、どこが分からないのかすら分からないのだから分からないのだと言われる感じによく似ていた。
で、あるからして。この場で唯一何が分からないのかを分かっている奴に司会を頼むしか無い。
「古泉……俺はこの場合、長門に何を聞けば良いんだろうな?」
「そうですね……長門さん、彼にこの空間がいつ産まれたのかと、どの様な状態に有るのかを説明して頂けますか?」
「了承した」
古泉は近場に有った植え込みの段差に座り込んだ。真似て俺も座る。長門も俺達に追従した。三人並んで縁石に座り込む……場所さえ違えば青春のワンシーンとかタイトルを付けて写真を撮りたくなりそうだ。
「この空間は五日前、六月二十七日の二十時二十六分八秒に発生した」
だから、秒までは要らんって。
「現在は二十七次関数の速度で拡大を続けている。拡大速度から演算した結果、七月七日の二十三時時六分十一秒をもってこの星を内包。後、拡大速度を爆発的に加速させ、地球時間の七月八日零時零分零秒をもってこの宇宙を飲み込むと考えられる」
……二十七次関数?
「すまん、三次関数ですらキビしい俺に分かり易く説明してくれ」
「二次関数と同じだと思って頂いて宜しいかと。二次関数は分かりますね? ただ、時間に対しての侵食の速度がその比ではないと考えて下さい」
古泉が補足する。……いや、流石に二次関数なら分かるが。
「ある一定の大きさを越えた時点で拡大速度は手を付けられなくなる。そうなってからでは何をしても結末は変えられない可能性が有る」
まるでコンピュータに論文の朗読をさせているように抑揚無く淡々と喋る長門。あーっと……つまり、何が言いたいんだ?
「涼宮さんが世界の変革を望まなくなったとしても、変革が行われてしまう時間的なリミットが今回は有るんですよ。
少しづつ傾斜角度がキツくなっていく下り坂をスキー……スノーボードでも構いませんが。そのどちらかで滑り降りる事を想像してみて下さい」
古泉に言われて目を閉じて空想する。初心者用のコースを滑っていた筈がいつの間にか上級者用を滑っていて、にも関わらず俺自身は別にスキーの腕前が上手くなっている訳でもない……となると。
「……途中でコケるな」
「そこまでリアルな想像は要りませんよ」
分かってる。冗談だ。
「停まろうとしても停まれなくなってしまう、ある一点が存在するのはお気付きですか?」
コケてそのまんま転がって雪玉になって転げ落ちていくのなら、なぜかリアルに想像出来るんだが。昔の漫画は偉大だな。
「それで構いません。現在、閉鎖空間は我々の感覚ではまるで拡大してはいないのです。拡大を続けていると分かったのは長門さんをここにお招きした、三日前」
拡大していないのにしてるってどういう事だよ?
「つまりですね」
古泉は手近な木の枝を使って植え込みにグラフを書き始めた。
「二次関数……キョン君も授業で放物線を描くグラフくらいは見た事が有りますよね?」
まぁな。あれだろ? 横線に対して直線じゃない奴だろ? ぐわっ、って上に伸びてく奴だろ? ぐわっ、って。
「はい。『Y=AX27+B (Y>1、X>0)』と考えてください。X軸が時間、Y軸がこの空間の体積。AとBは正の定数です。少々細かくなりますので具体的な数字は置換させて頂きました。この関数の特徴としましてはX=1を越えた後で一気にY正方向へと伸びていきます」
「それがどうした?」
「この、X=1が今回のタイムリミットになる訳です。これ以降、どれだけ涼宮さんにアプローチをした所で、改変能力が涼宮さんの手を離れ暴走してしまっているので意味は無いのではないか。
というのが機関と情報統合思念体の共通認識です」
……って事は……えっと。タイムリミットが七月八日の午前零時零分きっかりじゃない、って……そういう事かよ、古泉?
「察しが早くて助かります。……長門さん、具体的な時間を彼に教えて頂けますか?」
「試算の結果、タイムリミットは七日の二十一時三十二分十七秒。プラスマイナスの誤差は1,51秒以内」
「と、こういう事なんですよ」
それまでに何とかしないといけないんだな。
「ええ。原因が分からない現在、対処のしようが無い……というのは先日申し上げた通りです」
古泉の言葉を裏付けるように、結構長々と会話をしていた筈なのだが一向に神人とやらが出てくる気配は無い。無音。サイレント。大声で叫んだら山彦が返ってきそうだ。
「唯一つ言えるのは、涼宮さんは苛立ちを抱えているのではないという事ですね。もしその様な精神状態であるのならば僕らが感知しない訳はありませんし、また、神人が発生するでしょうから」
長門を見る。何を考えているのか分からないが、やはり茫洋とした眼で何も無い空間の一点を見つめていた。猫か、お前は。怖いから止めなさい。
「しかし、涼宮さんは現実に世界を作り変えようとしている以上、何かを抱え込んでいると見るのが妥当でしょう。僕にはそれが何なのかは分かりません……が」
超能力者がウインクする。顔近いぞ、お前。
「貴方は少なくとも糸口を掴んだようです」
「さてね……頭の中で超展開を繰り広げる他称神様の思考回路なんか、俺にはちっとも読めんよ」
言いながらも、俺には一つの確信が有った訳だが。秘すれば華。もう少し俺の中で確信が持てるまでは黙っておくとしよう。


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