ハルヒSSの部屋
古泉一樹の情操教育おかわり! 1
今日は二月十四日。バレンタインディです。
日本中の男性が浮き足立つこの日に、男女問わず一喜一憂の人間ドラマが詰まっているというのは、今更僕が言及するまでも無いかと思います。
恋の成就。
――あるいは喪失。
ご本人達にとっては「決戦」と言えるであろう日であるのかも知れませんが、微笑ましいですねなどと、僕辺りは苦笑してしまえます。
恋愛よりも仕事。
世界が続かなければ、恋愛だって出来ませんから。
しかし、バレンタインディ、ですか……。
製菓会社の販売戦略から始まったとは思えない、島国一つを北から南まであまねく黄土色に染め上げるこの一大イベントでしたが、僕自身としては余り興味も有りません。
……しかしながら無関係と言い切る訳にもいかないのが中々辛い所でして。
仕事と趣味嗜好は別物と言った所でしょうか。そんな当然の現実を再認識してしまいます。
今では毎年の恒例となってしまった二月十四日。
お分かりかも知れませんが、機関の特別警戒体制が敷かれる日です。
モニタだらけの作戦室を怒号が行き交うのも、最早、風物詩化してしまっているのが少し悲しくない事もなく。
その渦中で今年も陣頭指揮を取らなければならない立場の僕です。
肩書は「SOS団副団長兼作戦本部長」だそうで。
やれやれ。困ったものですよ……機関の茶目っ気にも……彼と彼女の焦れったさにも、ね。
涼宮さんも彼も、両想いであり、かつ、行き着くべき関係にまで落ち着いているのですから、本来ならばそこまで緊張するイベントでも無いはずなのですが。
身も蓋も無く端的に言ってしまえば、たかがチョコレートの受け渡しですしね。で、あるにも関わらず。彼女の心境を漠然とでは有りますが知ってしまえる僕たちの方まで、少なからず心を引き摺られて頬を引きつらせてしまう始末。
涼宮さんの影響力もそうですが、それよりも「どれだけ緊張しているのですか、貴女は」と言った感じですね。
全くもって。今更、何に躊躇する必要が有るのでしょう。何の懸念が有るのでしょうか。
正直、僕には分かりません。
彼は誰が見ましても涼宮さん一筋で、他の女性には病的なまでに見向きもしない(機関在籍女性全員一致の見解)というのに。
そして、その事は涼宮さんご自身もよく理解なさっているはずなのです。岡目八目とは良く聞く話ですが、それにしたって彼のゾッコン振りは……こう言っては何ですが「目に余る」ほどじゃないですか。
あ、ゾッコンって死語でしたか?
……こほん。失礼しました。
しかし、女性が初々しさをいつまでも持ち続けている事は、褒められこそすれ咎められるべき対象では無いのかも知れません。
「恥じらい」は「可愛らしい」と、前向きな解釈で歓迎されるべきなのでしょう。
ふむ……どうも、何かにつけて私情が混じってしまいるようです。
煮え切らない二人に対し、少しばかり僕は苛立っているのかも分かりません。
とは言いましても、まあ、もどかしい彼らを咎めるべき立場にも僕は居ませんしね。
何も出来ないと、人間は愚痴ばかりを生産してしまうようですよ。
まさか、涼宮さんご本人に「緊張する必要は有りません」などとアドバイスする事も……彼女の有り余る羞恥心は世界改変を起こしてしまいそうでは有りませんか。
その可能性は無いと、そう言い切れない以上……ね。
結論としましては、僕たち機関には彼と彼女のデート先に考えられうる限りの恋愛要素を配置するぐらいしか出来ないのが実情でした。
それはもう、不自然な程に彼らの行く先々には、いわゆる「カップル限定イベント」が目白押しです。
モニター上の彼がキョロキョロと不自然な頻度で辺りを見回している事から察するに……まあ、恐らくですが、彼の方も機関の仕込みには気付いているのでしょう。
別にそれ自体は危惧するような事ではありません。と言いますか、涼宮さんはともかくとして、彼にはこの裏方活動に気付いて頂けた方が僕らとしては都合が良いくらいです。
僕ら機関が動いている事から、聡い彼はきっと気付くでしょう。
涼宮さんが、このバレンタインディというイベントにひどく昂揚及び動揺なさっている、その事実に。
そうなればしめたものです。多少人からの好意に鈍い所が有る彼ですが、それでも前述の通り涼宮さんには非常に愛情を注いでいらっしゃるのです。不安がる大切な彼女に対して、彼なりに優しくあろうとなさるでしょう。
それは、彼に自覚は無いでしょうけれど、僕らにとっても助かる選択肢でした。
考えてもみてください。世界の平穏は、彼女の平穏と同義であるのです。
「事前に『涼宮に優しくしろ』と古泉が一報すれば済む話じゃないのか?」
作戦室で足を揺すっていた上司からの問い掛けに、僕は苦笑を伴いつつ首を振りました。
「いいえ。それではいけません。彼は、天邪鬼なんですよ。人に物を言われると反対を行なってしまう危険性が有るのです。自分から気付いて頂かなければ」
天邪鬼。
……天邪鬼、か。

結局、彼と彼女は似た者同士なのでしょう。

夜も更け、時刻は二十三時になろうとしていました。
お二方の就寝を確認し、長い長い一日掛かりの作戦行動も終了です。
お疲れ様でした。
危惧されていた世界改変も無く、まあ、涼宮さん相手ですから予想外の展開は有りましたが……とにかく、世界は今日も継続した訳です。
陽はまた昇る。それが僕の仕事の結果。
今日のこの日が有る事を当然と感じていらっしゃる通行人の波を爪先程度に疎ましく思いながら、家路を急ぎます。
僕の仕事とは「当然」を「当然」の形で存続させる事。褒められる事は有りません。
所詮、裏方です。
それは「平和」と良く似ているでしょうか。失って、初めてその価値が分かる……などと。
……戯言ですね。どうやら、疲れているようです。
「……はあ」
電車を乗り継ぎ、駅から徒歩三分のマンション。その一室が僕の住居でした。
クリーム色も鮮やかな新築物件でして、少しばかり自慢なのですけれど、こう暗いとその雄姿も確認出来ませんね。
「……ふう」
何でも無い……本当に何でも無い事にさえ一々溜息が出てしまうのは、少々、物悲しいものです。
暗証番号を入力して入口のロックを解除。そのままの足取りでエレベータへ。
自室の有る七階で降りると、エレベータのドアが開いた丁度そこに喜緑女史の姿が有りました。
こんな時間に……珍しいですね。
「こんばんは」
「はい、こんばんは。お待ちしていました。では、交替です」
「交替?」
その言葉の意味が分からないで首を捻る僕を、まるで嘲笑うように喜緑女史は、無駄の無い動きでエレベータに乗り込んでしまいました。閉じる自動ドア。
吹き曝しの通路で、後に残されたのは僕一人です。
交替?
……僕の帰宅を待っていた?
「……考えるだけ無駄でしょうか?」
何より身体が疲労を訴えていました。ので、意味深な「交替発言」の解読は後回しにしようと考え、何も考えずに自室のドアに鍵を差し込み……おや?
部屋の鍵が、開いてますね……。
これは一体、どうした事でしょう?
職業柄(僕は真っ当な大学生の筈なのですけれどね)、慎重に緩やかにドアノブを引くと……途端、室内から溢れ出て来たのは芳醇なカカオの香りでした。
チョコレートの、甘ったるい香。
……なるほど、これ以上無い程に納得です。
振り返ってみれば簡単に予想の付く事では有りませんか。
僕はなぜ今日、一日を焦躁していたのか?
「今日はバレンタインディですからね」
疲れていた身体の芯に温かいものが点ります。
それはきっと「愛情」と呼ぶものではないのでしょうか?
ええ、そうです。
僕の愛しい少女が、あの優しい少女が。こんな絶好の機会を見逃すはずが無いのです。
そうでなくとも、何も無くとも。何かしら理由を作って僕に関わりに来てくれている彼女なのですから。
僕に、心からの笑顔をくれる彼女なのですから。
「全く、敵いません」
しあわせにすると。告げた以上にしあわせにして頂いている実情。
形無し、という言葉がしっくりと来ます。
しあわせにすると。告げた言葉まで形無しにする気は有りませんが、ね。
自嘲気味に笑いながら、リビングダイニングへと続く内開きのドアを押して……、
「……おやおや」
そこは、まるで殺人現場の様相でした。多少、覚悟はしていましたが……それにしても……。
フローリングの床に俯せに倒れている少女(恐らくエネルギー切れでしょう)。そしてその周りに散乱する赤黒い液体は、光の角度によっては血液に見えない事も有りません。
噎(ム)せ返る甘く苦い香り。
「これはまた……派手にやりましたねえ……」
キッチンは使用した調理器具や余った材料で散らかし放題。テーブルの上などはデコレーション用の粉砂糖で白く様変わりしていました。
「そして、テーブルの中心にはハート形とは言い難い手作りチョコ、ですか」
僕は天井を仰いで。まるで空き巣にでも入られたような自室の惨状でありながら、けれど不幸だとは欠片も思わなかったのです。
どころか。
僕はしあわせで、しあわせで。
狂いそうなくらい、しあわせでした。
チョコレートの中心にホワイトのチョコペンで書かれた「だいすき」の四文字だけで。
それだけで、僕は今日もこの世界を守れて良かったなどと。
何の引っ掛かりも無く言ってしまえるのでした。
「僕も貴女の事がだいすきですよ、有希さん」

心から、そう言える自分を、僕はしあわせだと思った。

少女をベッドまで運んで(当然ながら僕の部屋にベッドは一つしか有りません)、そして散らかったリビングダイニングを片付ける事とします。
疲労は否めませんが、何しろこの惨状です。
サラダボウルをひっくり返したようなキッチンは、そのままにしておく事など出来ないでしょう。
僕はともかくとしましても……有希さんが落ち込みます。
少女が目覚めた時に、罪悪感を抱かずに済むならば、それに越した事は有りませんよね。
僕はもう十分に、彼女から頂いたのですから。
多少の労働など、なんでも有りません。

今日を生きる意味と。
明日を迎える理由と。

それをくれた少女の為なら……いいえ。少女こそが僕の在る意味。
だから、僕は予想外の労働であっても……疲れるよりもむしろ。
チョコレート運河の中に彼女の努力の片鱗を見つける度、頬が緩んでしまって。
テーブルの中央。不格好なハートチョコレート。
しかしてそれは。
僕だけの為に作られた事を思えば。
きっと、いえ、間違なく「しあわせ」の味がするんでしょうね。
端を少しだけ割って、口に入れたその一欠けは、甘い、甘い、疲れを吹き飛ばすに十分な、少女らしいミルクテイストでした。
彼女の愛らしさが、僕をつき動かす。ひいては、世界を回す。

今、僕はしあわせなのです。


古泉一樹の情操教育おかわり
「百万回生きた猫の子猫」


「おきて」
誰かの声が耳元で聞こえます。それが誰のモノかは知りませんが、しかし昨晩眠りに付いたのは結局二時過ぎだったのです。
「……すいません……もう少し……寝かせて……下さいませんか……?」
寝ぼけた頭でそう言って。僕はソファの背凭れに顔を埋めました。
「……わかった」
僕を起こさんとしていたどなた様かにも、僕が今、何よりも睡眠を欲している事は理解して頂けたようです。
ああ、助かります。
「なら……かえる」
綺麗な声の誰かはそう言い……頬に冷たい何かがポトリと降りました。
「……ごめんなさい」
「有希さん……いえ、謝る必要は特にな……え!? 有希さん!?」
ああ、僕が飛び起きたのは今更言う必要も無いでしょう。走り寄って、玄関のノブに手を掛けていた少女の腕を取ります。
「おきた?」
「起きましたよ。ええ。僕を置いて帰ろうとするなんて、少し薄情ではありませんか?」
何か言いたそうな少女に口を開く暇を与えず、その小さな体を抱き上げてその頬にキスをしました。
「お早う御座います」
「……おきても、いいの? ねむく、ない?」
「ついさっき、ばっちりと目が覚めましたよ」
貴女の悲しげな声を聞かされて、それでも寝ていられると本気で思っていらっしゃるのでしたら……これは少し啓蒙が必要ですね。
さて、何をしてこの少女に僕からの想いを再確認させてあげましょうかと考えていると。
「……ありがとう」
「何が、ですか?」
「いろいろ。たくさん。ありがとう」
君はそう言って、僕にピンクと白の市松柄の紙袋を差し出すのです。
「ほんとうは、きのうわたしたかった」
「すみません。昨日はどうしても、外せない用が有ったんですよ」
「しっている。あなたがこのせかいのためにがんばっていること。だれもしらないけれど、わたしはしっている。ちゃんとしっている」
まるで見透かしたように。君は言うのです。誰からも何も言われないと自嘲していた昨日の僕の心を知っているみたいに、君はそう、言うのです。
僕が欲しい言葉を。僕が欲しい時に。
君は惜しみなく、捧ぐ。
ありがとう、なんて。僕が君に言うべきでしょう。……ねえ。
「あなたはえらい。だから、ありがとう」
言葉が、出なかった。ただ、半自動的に差し出された紙袋を僕は受け取る。
「中を……見ても?」
「いい」
「では、失礼して」
綺麗とはお世辞にも言えない不格好なラッピングを施された、紙袋の中にはチョコレート。そしてそれと――丸まった紙。
「これは?」
「ひらいて」
「はい」
少女に促されるままに、丸まった厚紙を開きます。その中は、目も痛くなるようなビビッドカラーで所狭しと彩られていました。

『しようじよう 古泉一樹どの』

ねえ、有希さん。貴女はどれだけ僕をしあわせにすれば気が済むのですか?
「しようじよう……賞状、ですか?」
「そう」
「えーっと……」
「きみどりえみりにくれよんとあつがみをかってもらった。それでわたしなりにつくってみた。かんじがむずかしかった」
それは袋のラッピングと同じで上手い出来とはとてもとても言えはしないのです。「の」は左右反転していますし、小さな「よ」だってまるで小さくないから「しようじよう」なんて意味の分からない日本語になってしまっているのに。
なのに。

『あなたは古泉ゆきのためにまいにちがんばっていることを
みとめられましたので
ここにそれをひようしよういたします』

自分の名前さえ漢字を覚えていない彼女は。それでも「古泉一樹」だけは。
きっと一生懸命、練習されたのでしょう。
何度も何度も。何度も何度も。
間違いだらけのひらがなの中であって異彩を放つその漢字は、けれど正確に書けている事を思えば。
「……有希さん」
「なに?」
「抱きしめても、良いですか?」
「かまわない。だきしめてほしいと、わたしもそうおもう」
僕の――古泉一樹の居場所は、どこまで行っても君なのです。

二月十五日。昨日、彼と彼女がデートをしていた事からも推察頂けるかと思いますが、今日は日曜日です。
バレンタインディに都合良く休日が来る事に機関の人間が数人、頭を捻っていた、その光景を思い出して少しだけ含み笑い。
全く、分かっていませんね。
都合良く。運良く。タイミング良く。
そんな言葉が涼宮さんの前でどれだけの価値が有ると言うのでしょうか。
偶然ではなく、全ては必然だと。何かのラブソングに歌われていましたけれど。他は知りませんが、事これが涼宮さんの話に至れば。それは紛れも無い必然なのです。
誰も気付かない内に暦すら操作されている可能性も……それすら笑い話ではありません。
冗談のような真の話。
彼女が願えば、それは叶う。彼女が望めば、それを叶える為に東奔西走する僕たちが居て……そして、彼が居る。
まるで御伽噺のような、しあわせな現実。
彼女の世界を彩る、そこに居る登場人物は、皆が一様にしあわせでなければならないのです。彼女は優しい。自分の周りで悲しい顔が有れば、彼女はそれを許さない。
この今は、しあわせのお裾分け。
少女を膝の上で愛子(アヤシ)ながら、僕はこのしあわせな時間をくれた少年少女に、思いを馳せるのです。
願わくば、このしあわせがいつまでも続く事を。
その為ならば、僕はどれだけでも下世話な裏方に回りましょう。
彼の友人として。彼女の友人として。
僕に出来る限りの、しあわせのお裾分けを。
「ねえ、有希さん?」
「……なに?」
「今度、涼宮さんと彼と一緒に、デートをしませんか?」
「……ふたりきりじゃなくて?」
「たまにはいいでしょう。それに涼宮さんにこの間怒られたんですよ。貴女を独り占めするな、と。彼女にしてみたら着せ替え甲斐の有る可愛い妹を持ったような、そんな心境なのでしょうね」
そんな風に言う涼宮さんの気持ちも分からないではありません。僕とて有希さんと一緒に外出した際はどうしても子供服の店に足を伸ばしてしまうのですから。
三年前の彼女が嘘のように、今の彼女の自宅(喜緑江美里さんの部屋です)にある衣装箪笥には溢れる程の服が並んでいました。
……中には僕が購入したものではない服が五割、といった所でしょう。全く、喜緑さん……宇宙人であっても魅了されてしまう有希さんの可愛らしさは最早罪と言っても過言ではないかと。
……誰ですか、バカップルなどと囃し立てるのは。
「でも、もうたんすにはいらない」
「分かりました。喜緑さんには僕から掛け合っておきましょう」
「なにを?」
「箪笥の追加購入を、です」
きっと涼宮さんならば「可愛い子を着飾らないなんて、罪悪よ! 公共の福祉に反するわ!」などと言ってくれる事でしょう。
ちなみに。今日の彼女は涼宮さんに見立てて貰った薄い緑のツーピース。まるでフランス人形のように、などと有り触れた比喩を用いる事に何の抵抗も抱かない程に、愛らしい。
「今日の服も、似合っていますよ、有希さん」
「ありがとう」
「ところどころのチョコレートがアクセントですね」
「……あ」
少女が少し、項垂れる。
「……このままでは、しみになる。それはこまる。えみりにおこられる」
幸いにもと言いますか。僕の家に少女が泊まりに来る事はまま有る事で、つまり服の替えには困りませんでした。
「着替えますか? ああ、今着ていらっしゃる服はクリーニングに出しましょう。ご安心を。喜緑さんには黙っておきますよ」
とは言え。昨晩、有希さんと喜緑さんは一緒にいらっしゃったのでしょうから、僕が沈黙した所で意味も無いのですが。まあ、これは後で電話をして「怒らないであげて下さい」とフォローを入れておけば良いでしょう。
「きがえる」
「分かりました。では、今着替えを持ってきますね」
「こいずみいつき。そのまえに」
「はい?」
彼女は、なんとかかんとか形にしたチョコレートや不恰好なプレゼント包装を引き合いに出すまでも無く。お分かり頂けるとは思いますが。
不器用さんです。

「ぬがせて」
「畏まりました」

服を脱ぐのだって、一苦労する程に。

少女の細い足首からレースの靴下を脱がせる行為に、何がしかを思わないでは有りません。いえ、まあ僕だって至って健康的な男性です。
超能力者であるのは、閉鎖空間の中だけで後の部分は一般的な男子大学生となんら変わる事は無いのです。
有希さんと僕は、届出こそ出していませんが(どこの役所が六歳の少女の婚姻を認めますか?)、しかし夫婦と言っても決して過言ではありません。彼女と僕は半年と少し前に結婚式を挙げているのです。
……その時の有希さんは宇宙人で、同年齢でしたが。
紆余曲折有ってその身の「宇宙人」という属性を彼女は失い、そして人間で言えば六歳児相当になってしまったのですが。
しかし、高校一年生からの記憶を僕たちは共有しています。
つまり、外見は兎も角として、僕らは同年代の感覚で付き合っているのです。
「……よくじょう、した?」
何を言い出すのですか、この人は。
「ノーコメントです」
「わたしならば、かまわない」
「僕が構います。せめて身体が出来上がるまでは、そういった事は待ちましょうよ?」
「……まっていて、くれる?」
「ええと、有希さん。……ああ。もしかして、不安に思っていらっしゃるのでしょうか?」
そうです。考えてみれば、彼女がそれを負い目に感じない筈は無い。子供になってしまったとは言え、彼女は聡い。
恋愛に年齢は関係無いとはよく聞きますが。それは裏を返せば「そうとでも思わなければやっていられない」方々の心の叫びであるのかも知れません。
そして……それは、彼女も同じ。
例えば、ここで。僕には何を言ってあげられるのだろうか。僕の最愛の少女に対して。何を言えば彼女の不安を拭う事が出来るのだろう。
僕個人としては、そんな気遣いは無用でした。性欲よりも、大切なものがこの世界には確固として存在し、そしてそれは少女が傍に居てくれるだけで目に見えて満たされ、溢れ返らんばかり。
なのに。
人間とは言葉でコミュニケーションする生き物です。テレパシーなどは持ちません。朝比奈さんの居る未来はどうか分かりませんが。彼女にしてもそういったものはお持ちではない、と。僕はそう思いますね。
何を言った所で、上辺をどれだけ取り繕おうとも。そんなもので誤魔化せる年の差では、僕と有希さんは、残念ながら無い。
なら、僕に何が出来るでしょう?
幾らでも待ち続けるのに。君以外を必要とはしていないのに。その想いは言葉でどれだけ伝わるものでしょうか?
キスは魔法を掛けるものではない。キスは魔法を解くもの。
本来、僕の年齢であればきっと、こういった不安はスキンシップで解消するものなのだと思います。ですが、その手段は有希さんが相手である限り、ご法度でした。
まさか、六歳児に対して狼藉を働く訳にも行きません。そんな事をしたら……想像するだけで身の毛がよだちます。
ならば、僕は僕らしく。
詐欺師は詐欺師らしく、口から出任せを。
少女が暗闇を不安がって眠れないのならば、しあわせな御伽噺を語るのが。それが保護者というものです。
不器用なコミュニケーションツールだからこそ、伝えられるものがある。
僕はそれを知っている。
僕はそれを、誰あろう有希さん。貴女から教えられたのです。

少女の着替えを終わらせて、右足にしがみ付く彼女の目線に合わせてしゃがみ込むと、僕は指を指しました。
本棚の一番下は、彼女の為の棚。
「一冊、増やしておきました」
「……なに?」
「僕もとても好きなお話なんですよ。きっと気に入って貰えると思います」
有希さんは僕の足から離れると、そろりそろり、おっかなびっくりといった調子で本棚に近付いて。そして本の背表紙を右から指でなぞり。
細く、白い指が、一冊の前で止まります。

さあ、本日の情操教育を始めましょう。


「100万回生きたねこ」はこちら

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