ハルヒSSの部屋
七月七日の消失 2
俺たちを和やかに敷地へと迎え入れてくれた鶴屋さんに折りたたみのノコギリを丁重にお借りした後、竹林へと足を踏み入れた。用意の良い事に虫除けスプレーまでお借りして万全の体勢である。

「……寝巻き姿の朝比奈さんを見たかったんだけどな、俺は」

「いけませんよ。誰にだって見られたくない場面というものは有るのですから。それが女性であれば殊更に、ね。帰りにお顔を拝見出来るのですし、それでよろしいではありませんか」

むう。まあ、名目はお見舞いであるのだから、その相手がどのような格好をしていようがそれは本題とは何の関係も無いのは認めよう。認めるが、それでも納得出来ないものが込み上げてくるのは男子として産まれたが故の避けられぬ性である。

「あー、そういや古泉。ハルヒのオーダーだが『なるべく立派な笹』ってのは具体的にどんなものを指すのかお前、分かるか?」

前後左右を見回しながら聞いてみる。外から見て見事な竹林は言うまでも無く分け入ってもそりゃもう見事なものであり、しかしあんまりにも立派にドイツもコイツも成育なさっているがためにどれか一つを選びようがないってのが俺の本音だ。

大体、こんなデカいモンを朝比奈さんの家まで持っていく手段が俺には思い浮かばん。トラックを使うにしても軽トラじゃ収まり切らないだろうよ。

「……僕たち二人がかりで運搬が可能で、かつ公道を歩く際に歩行者や車両に迷惑が掛からないという条件を満たした上で一番大きなもの、と僕は推察しますが」

オーケー。なら一番小さい笹を探そう。周りに生えまくっている竹じゃなくて、笹な。

「了解しました」

二人であれはどうだ、いやいや大き過ぎて運ぶのが疲れるなどの問答をした挙句、結局は高さ二メートル程のこじんまりとした笹を持ち帰る事にした俺たちである。ハルヒに文句を言われそうだが、文句を付けるんなら自分で採ってこいってなモンだ。

大体、最終的に部室に飾るであろうものなのであるからして、大き過ぎては単純に邪魔である。

鶴屋邸玄関先になるべく邪魔にならんように笹を置いて玄関を潜ると、そこにはなんとなーく見覚えが有る気もする靴が置いてあった。朝比奈さんのものかとも一瞬いぶかしんだが、しかし右を見れば靴箱に「この愛らしさは朝比奈さん!」と判別可能なピンクのシューズが並んでいた。

という事はつまり……。

「お疲れ様、二人とも。遅かったじゃない!」

だよな。玄関近くの障子戸を開いて顔を出し、一番に俺たちの出迎えをしたのはハルヒだった。なんだよ、結局俺たちより先に見舞いを済ませちまってたのか。

「それで、笹は良いのを見繕ってこれたのかしら?」

「運搬の手間を考慮してから物を言え。まあ、去年と似たり寄ったりだ。多分、あれくらいがジャストサイズだよ。なあ、古泉」

うまく言い包める事を超能力少年に期待しつつ、話を振る。が、ソイツはこの話題には頷いたっきりで話題を変えた。

「それで、朝比奈さんはいかがですか?」

「みくるちゃん? 可愛いわよ」

そんな事はただの宇宙の真理である。古泉が聞いているのは断じてそういう事ではないだろう。ほれ、見ろ。古泉のヤツも苦笑い以外の反応が出来てないじゃねえか。

ハルヒ。分かっていたが再確認。お前、阿呆だろ。俺と古泉の閉口を分かっているのかいないのやら。ハルヒは顔を喜色満面に染め上げて、朝比奈さんの無事だけはそれで確認する事が出来るが後はさっぱりだ。

「あーっと……朝比奈さんは元気なんだな?」

「そうね。軽い暑気当たりってだけらしいわ。なんでも、この死ぬほど暑い中体育してんだんですって。そりゃ、みくるちゃんなら一発だわ」

何気に失礼な発言をしている気もするが、しかして俺も同意せざるを得ない内容であったために注意するのも躊躇われる。小動物系だもんなあ、朝比奈さんは。そのお姿を見て感じるのは安らぎか不安の基本的に二択しかないし。

「そっか。折角ここまで来たんだし、顔だけでも見てって大丈夫そうか?」

「エロい事期待したって無駄よ」

期待してねえよ。こっからどんな超展開を繰り広げてエロいイベントに辿り着くってんだ。お前の頭の中の朝比奈さん攻略フローチャートをちょっと図を描いて説明してみろ。

「何よ。みくるちゃんがパジャマ着てたりしたら、どうせアンタみたいな程度の低い男はだらしなく鼻の下伸ばすんでしょ。お・あ・い・に・く・さ・ま! みくるちゃんはすっかり良くなっていつも通りの制服よ」

……勝手に人をパジャマ萌えに断定した挙句、品性をこき下ろすとか傍若無人にも程が有る。そりゃパジャマにある種の……こう、なんというか、なにがしかを掻き立てる未知なる力が有ってそれが俺に作用していないとは断言出来ないと言や、出来ないけれども。

しかしあえて言わせて頂きたい。パジャマとは寝乱れている、その襟元のはだけ具合こそが至高にして嗜好であると!

……なんでもない。只の妄言だ。

「大事無いと聞いてほっとしました。熱中症は酷いものだと死に至ることも有ると聞きますから」

「大袈裟っさ、古泉くん!」

ハルヒの後ろから元気の良い声がする。視線を飛ばせば、そこには仁王立ちする鶴屋さんと、その後ろに朝比奈さんだ。心配してしいたほどではなく、足元がふらついている事もなければ顔色もそこそこ良い。

いつもの、朝比奈さんだ。内心胸を撫で下ろす。

「ふふっ。大袈裟なのは鶴屋さんもじゃないですか。ちょっと立ち眩みがして転んじゃっただけだって、何度言っても聞いてくれなかったでしょう?」

おや? そうなんですか?

「だーって、マラソンの途中、あーんなジャストタイミングでずっこけられたら誰だって勘違いしちゃうよお。もう、悪かったって! みくる、許してよー」

言って鶴屋さんが朝比奈さんに縋り付く。その光景はいつもと立場が逆転していてなんだか新鮮だった。しっかし、この二人は本当に仲が良いな。

「後少しで救急車まで呼ばれるところだったんですよ。私、すっごい恥ずかしかったんですから。……心配してくれていたのは、嬉しいですけど」

ふむ、どうやら本当に俺たちが心配するまでも無かったみたいだな。朝比奈さんには鶴屋さんって素敵な親友が居る。古泉と顔を見合わせると、何を思ったのかソイツはハルヒへと目配せをした。何の合図だよ?

「……友達、か」

ハルヒの口から小さく掠れた声が漏れたのを俺は聞き逃さなかった。いや、「聞き流せなかった」だな。

だが、俺に何を言える? 朝比奈さんって友達がお前には居るじゃないか。俺や古泉は友達じゃないのか。そんな事くらいなら言えるだろう。だが、朝比奈さんと鶴屋さんの仲睦まじい姿を見て口にした、ソイツの本意はそうじゃないんだと俺は思う。

朝比奈さんはなんだかんだ言っても先輩で。

俺や古泉は異性に当たる。

ハルヒには「朝比奈さんにとっての鶴屋さん」みたいな相手がいないんだ。それは、例えば俺にとっての谷口や国木田みたいなモンで。フランクに何でも話し合える友人。そういうものの価値をハルヒは、この先輩二人を見てうっすらとでも感じたのかも知れない。

今更。人によっちゃそんな感想を今のハルヒに抱くんだろう。ああ、確かに。友人ってのがどれだけ大切なモンなのかを知るのが遅過ぎるのは間違いないさ。

それでも。今からだってお前が望めばそういう相手に出会えて、仲良くなって一緒に遊びに行ったりってな事は出来るんだ。なんてったって、お前は古泉いわく世界の全てを自由に出来るらしいしな。いや、そんな摩訶不思議能力を使わなくても良い。ただちょっといつもよりもフレンドリーに人に接すれば、それこそ一発だぜ。俺が保障する。

そうだな……ハルヒ、お前はちょっと活発過ぎるきらいが有るし、落ち着いていて、でもって物静かなタイプが凸と凹がしっくり来そうだ。ただ、それだけじゃお前の有り余る力に翻弄されちまうだろうからな。なんでも出来るタイプって言っちまったらちょいと選り好みが激し過ぎるか?

いつか、そんなお前と肩を並べられそうなヤツとも、きっと会えるさ。いや、武闘派なお前にしてみたら「背中を預ける」って言い方が良いか?

ま、なんでもいい。

「……ゆっくりしていきたい所ですが、しかし、我々は笹を学校に持ち帰らねばなりませんし、朝比奈さんの無事もこうして確認出来ました。では、そろそろ帰りましょうか?」

こちらを見て超能力者は目配せ一つ。俺はゆっくりと頷いた。

「だな。そんじゃハルヒ、俺らは先に行くわ。そうだ、鶴屋さん」

「ん? なんだい?」

「朝比奈さんをよろしくお願いします。いや、ハルヒでもいいけどな。大事を取って家まで送っていってやれよ。団長の仕事だろ、こーいうのは」

出来れば朝比奈さんをずっと見ていたかったというのは本音であるし、彼女の家まで付き添うのならば是非とも俺がと言いたかったが。それより勝る何かが心の中に巣食っていた。


それほど大きな笹では無かった事も有り、そしてまた、二人で担ぐというのは先端部分を担当する方にとっては罰ゲーム以外の何ものでもなく、そのために交代制で運搬をする事に古泉と何を喋った訳でもないが自然になっていた。

「……助かりましたよ」

「何が?」

「先ほど。涼宮さんの心が小さく揺れるのを感知しました。いえ、特別珍しいという訳でもありません。よくあると言えばそれまでです。しかし、僕たち超能力者としてはそのような些細な引っ掛かりであっても気を揉むのには十分でして」

相変わらず要領を得ない話し方だ。

「それで? 一体お前は何が言いたい?」

「いえ、ご自分の言動にお気付きでないのならばそれはそれで結構ですよ。……友達が欲しい、と思われるようになったのは良い兆候ですね」

それはハルヒの話で間違いないだろう。どうやら耳敏くコイツにもハルヒの独り言は聞こえていたらしい。ハルヒの監視が超能力少年における高校生活最大の目的であるのだからして、ハルヒの一言一句を聞き逃してなるものかと、そういう職務に忠実な心根が聴力にも作用しているのかも知れない。

……単なる集中力の問題か。

「中学の頃には考えられませんでしたよ。羨望などといった感情は彼女には無縁でしたから。彼女……涼宮さんはただ孤高を望み、またそうでなければならないと自分に言い聞かせていた節が有りました」

そりゃアレだ。思春期特有の恥ずかっしーい思い込みだな。かくいう俺にも覚えが無い事も無い。お前だって有るだろ。自分は他人とは違う。自分は群れの中に埋没したりはしない。埋没したフリをしているだけだ、みたいなさ。

いつかハルヒから聞いた野球場の思い出話をなんとなく思い出してしまう。触れるもの皆傷付けるガラスの十代、って中学時代だったんだろうなってのは容易に想像が付いた。そも高校入学当時のアイツはそんな感じを引き摺っていた。

「あの頃の涼宮さんならば。今日の朝比奈さんと鶴屋さんのような睦まじい間柄の他愛の無いやり取りを目の当たりにされても苛立ちしか覚えられなかったはずなのです」

「大人になったんだろ、アイツもな」

果たして大人になるというのが具体的に何を指すのか。俺にだってそんな事は分かっちゃいない。心穏やかに過ごせるようになる事か、それとも一人は寂しいものだと自覚する事を言うのか。まだガキの時分を抜け出せていない俺には理解出来ない領域の話さ。

「ですね。いえ、きっと、そうです。そしてきっと彼女はそのような自分の心を自覚なさったのだと思います。つい先ほど……」

「古泉」

叱咤するような声音になってしまったのは……理由は分からないって事にしておく。詳細に自己分析してみたとしても余り面白い解答が得られそうには無い。

「この辺で止めとこうぜ。アイツをプロファイリングすんのは、そりゃお前の仕事内容には有用なんだろうが。それでも誰かの心の中を別の誰かが覗き見たり、そういうのはどうかと俺は思う」

果たして古泉は俺の言葉に「……職業病ですね、すいません」と言って苦笑した。北高名物心臓破りの坂に差し掛かり、もう何度目だったかも覚えの無い荷物持ち交代をする際に古泉はポツリと言った。

「貴方は、変わりましたね」

俺に言わせて貰えりゃお前だってこの一年で随分変わったんだと、言い返す気力は夏日が奪い取っちまっていた。


ついだらだらと部室で古泉と七夕について喋っていたら家に一番近い駅に到着する頃には日は落ち切ってしまっていた。街頭には羽虫が集り、この暑いのに殊更熱い場所に群がろうとするその習性は俺みたいなのにとっちゃ永遠の謎だ。イカロスにでも憧れているのだろうか。

近所のコンビニには青い光で虫を誘った挙句焼き殺すという正式名称不明のあの機械が置いてあり、その横を通り過ぎる際にバチバチと耳障りな音が鳴った。ほらな。光に憧れちまった虫の末路ってのは呆気ない。暑い時に熱い場所に近付いてどうするんだよ、全く。

どんだけ昔から飛んで火に入る夏の虫なんて言われてると思っていやがるのか。学習能力が足りてないぞ。

なんて思いながら視線をコンビニから帰路へと戻した。コンビニを過ぎてしまえば住宅街へと続く道。俺の家もその住宅街の一角に有る。その道沿いにその見知らぬ少女は居た。

外灯の明かりが作り出す白いおぼろな円を出たら明日の自分は不幸になるって自分ルールでも作っちまったみたいに円の中心を違わずすっくと立つソイツ。立ち尽くす、といった感じでも無ければ誰かを待っているってようにも見えない。

ん? ……あの制服、北高だな。

いや、ちょっと待て。俺の家の近所で北高に入ったヤツは少なからず居るが、しかしソイツらは全員同じ中学校の出身なので顔も名前も覚えている。にも関わらず、俺はその少女の名前も、顔も知らない。以上から導き出される結論として、彼女は別の校区の出身である。

だが、果たしてそんなヤツがここで何をしているのか。俺の頭で出せた辛うじて納得のいく解はこうだ。すなわち、少女は誰かを待っている。でもって、こっちは多分に推測だがこの少女はこれから告白に至るのではないだろうか、と。

帰り道に誰かと待ち合わせているにしちゃ時間も遅い。そもそもそんなんなら普通は駅の待合室かファーストフードショップ、男子であればゲームセンタなんかが定番だ。

だったら待ち合わせているのではなく、待ち望んでいると考えて何の不条理も有るまい。そして、その考えに至った途端、高鳴りだす心臓。なんと浅ましい事だろうか。

ええい、告白されんのが俺って決まった訳じゃないぞ。それに告白するつもりなんじゃないかってのも穴だらけの推理によるものだ。この住宅街から北高に通ってる男子って他に誰が居たっけ……えっと……。

古今稀に見る超高速で頭の中に有る虫食いだらけのタウンページを捲っていく。歩みは止めないが、意識していないと緊張して右手と右足が一緒に出てしまいそうだからそっちにも気を配らねばならん。チラリと気付かれないようにその少女のご尊顔を拝見させて頂けば、これがまあ「マジかよ」と脳内で絶叫してしまうに足りる美少女である。

誰だ? 誰に告白する気なんだ。三組の鈴木か? それとも七組の吉田か? もしかして俺じゃないだろうな? 見覚えの無い娘なれど「だったらお友達から」なんて返答を既に弾薬庫に用意してしまっている俺は……だって仕方ないじゃないか。美少女だぞ、美少女! それも毛色は違えどハルヒや朝比奈さんレベルのとびっきり。

物静かそうなトコもこれはこれで……と、ヤベッ。眼が合っちまった――って、オイ。俺を見て近付いてくるのかよ!? 誰か俺の頬を抓ってくれ、今すぐ!

古泉ならともかく、まさかこの俺に告白イベントなんてものが訪れるとは夢にも思っちゃいなかった……って、ああ! 少女の歩みは狂い無く俺の眼前に立ち塞がるコース!

こんな時、俺に出来るのはと言えばなるべく堂々と、男らしく立ち止まる事であり……誰かこの鳴り止まない心臓を鷲掴みして止めてくれ。今ならこちらからお願いする。少女に聞こえてしまえば格好悪い事この上無い。

そして俺と、謎の美少女は対面した。俺の肩口くらいのちんまいサイズ。大きくつぶらな瞳はまるで宇宙を内包しているような不思議な魅力を湛えて俺を見据え……お互い足を止めて沈黙する事三十秒強。沈黙に耐えられなくなったのは俺が先だった。

「……あー、っと」

立ち塞がったんならそっちから声を掛けてくれよ。どうして俺が何と言って切り出そうかを考えなくちゃならないんだ。良い天気だな? 阿呆か。時間を考えろよ、俺。

「俺に……何か用か?」

しまった。先に名前を聞くべきだっただろうか。なんて考えても遅い。既に口に出してしまったのだ、矢継ぎ早に名前やらクラスやら所属するクラブやら……聞きたい事は山と有ったが聞ける訳ねえだろ。

「……私を」

見た目から想像していたよりもハッキリとした、耳に残る声。

「覚えている?」

耳に残る声で、でもその声は記憶には残っちゃいない。当然だ。目の前の少女とは初対面だからな。

「ん……いや、悪い。どこかで会ったかも知れんが覚えてないな。どこで会ったのか、言ってくれたら思い出すかも知れんが」

「……覚えていないのならば、それでいい。私は覚えている」

「そ……そっか。なんか、悪いな。こっちばっか覚えてないのも。気分悪くないか?」

少女は俺の質問には答えなかった。代わりに、って言うべきなのかどうかは分からないが俺の眼をじっと見つめて一言「ごめんなさい」と言った。

だが、ちょっと待ってくれ。突然の謝罪に申し訳なくなっちまうのは俺の方だ。そんな事されてみろ。俺の姿をした俺ではない俺。まさかのドッペルゲンガーの仕業を疑ってしまうじゃねえか。

あながち無いとも言い切れないのが更にタチが悪い。最近大人しいと思っていたら単なるフェイクでしかなくて、またやってくれたのか、あの神様は?

何かが有れば即「今度はハルヒのヤツ、何やらかしやがったんだ」と思考を巡らせてしまうように、この一年半でなってしまった。どんな親切を目の前の美少女にやらかしたのかは知らないが、それでも俺の評判を上げてくれてありがとうよなんざどうしたって思えない。当たり前だ。思える訳ねえ。

「……俺は、えーっと、君に何をしたんだ?」

記憶に無い事を少女に対してやらかしていたとあれば、これは久し振りに朝比奈さんと古泉の助力を頼まねばならない事態である。そうでだけはあってくれるなと思いながらの俺の問い掛けは、しかしなんとも要領を得ない回答を招き、殊更に俺を混乱させるだけとなった。

「助けてくれた」

はてさて、俺は川で溺れる少女を見た事など無ければ、飛び降り自殺をはかる少女を説得した記憶も無い。火事の現場に出くわした事すら無いという考えようによっては天下泰平事も無しってな人生を歩んできた男である。

……助ける、ってのは一体どういう意味だ? いや、広辞苑を寄越せって言ってるんじゃないぜ? そうじゃなくて、俺に少女を助けるなんて大それた事が果たして無意識かつ無自覚に出来るのか、って聞いてるんだ。行間紙背ってーのを読めば、ま、そのくらいは分かってくれるよな?

「助けた? 俺が、君を?」

「そう」

「いや、覚えが無いんだけどさ」

「貴方が記憶しているとは考えていない。しかし、それでも私を助けてくれた人が貴方であるという事実に変わりは無い。だから、ごめんなさい」

……どうも、知らない場所で大変な恩を売ってしまったようである。こうなると益々ハルヒが俺のそっくりさんを作り出した線が濃厚になってくるだけあって、その真摯なる言葉に苦い表情を作ってしまう俺が居る。が、その前に、だ。

「あー、俺が君に何をしたのかは悪いが本当に覚えは無いんだけどな。それでも言わせて貰うと、だ。多分、そういう時に使うべきは『ごめんなさい』じゃなくて『ありがとう』だと思うぞ、うん」

例えばだ。見知らぬ他人から突然言われるにしても謝罪よりは感謝の方が対応し易かろう。しかも、それが美少女ならば尚更だ。これを機会にお近付きになっておこうと俺が考えたとしても、それは別に咎められるような事じゃない……よな?

あ、なんか自分がマジョリティだってのに自信が無くなってきた気がする。

「……そう」

もしかして、この子は三文節以上続けて喋る事が出来ないとか、そういった呪いめいたものに罹っているのではないかなどと失礼な事を考えてしまう。それくらい謎の美少女は言葉が少なかった。全く喋らないというのではないが……物静かではなく無口系なのはたったこれだけのやり取りでもよく分かったよ。

「でもって、出来れば俺が君を助けたっていう、その詳細を教えてくれたら今度は俺が助かる。それで貸し借りをチャラに出来るレベルでそりゃもう助かるんだ」

いや、割とマジで。頼むから不可思議な事例を口にのぼらせないでくれよ?

「それは今の貴方に言っても理解出来ない」

お前が三文節以上喋られる事は理解した。それはそうとして、言葉の端々から危険な匂いがするのは俺の気のせいだよな? な?

ん? ……「今の貴方に」って言ったか? それはつまり今の俺じゃなければ分かるって事だから……この美少女、もしや朝比奈さんの関係者か?

にしては胸が慎ましくいらっしゃ……いや、なんでもない。可及的速やかに忘れてくれ。

「けれど、貴方が知らない事と私が貴方に感謝している事とは無関係」

「いや、まあそりゃあな。だが、知りたいのが人情ってモンだろ」

「教える事は出来ない。これは私の意志であり、また貴方の意思でもある」

また訳の分からない事を言い出したぞ。俺の意思? そりゃどういうこった。俺と少女は初対面である。彼女にしてみれば違うのかも知れんが、俺にとっちゃ間違いなく初めて注視する顔だと言い切ろうよ。

その美少女が。俺の何を知っているというのか?

「待ってくれ。さっぱり訳が分からない」

「知る必要は無い」

きっぱり言われてしまった。この子、さっきから表情が全く変わらないんだが、もしかしなくても嫌々俺に謝罪に来ているんじゃ、などと考えてしまうのはこれは流石に穿ち過ぎかもな。

「それでも」

彼女は顔色一つ変えず、そして俺の眼を見たままに決してその眼を逸らさず、小さく口を開いた。小さく、けれどはっきりと。

「ありがとう」

どうやらその言葉の内訳は教えて貰えそうにないってのは、ここまでのやり取りで理解した。まあ、いいさ。興味も関心も尽きないが、それでも美少女に感謝されるってのはそれ単体であっても価値が有る。悪くない、ってヤツだな。

なんとは無しにぼんやりと、そして何も言えずに彼女を見ているとそこで、その手に何かを持っている事に今更ながら気付いた。暗がりだったからってのも理由だが、それよりも彼女の深い瞳に視線を吸い寄せられていた方が理由の八割を占めると自己分析しよう。うん。

見蕩れていた、って言ったらちょいと語弊が有りそうだけどさ。

「なんだ、その――手に持ってるのは? 紙切れ……に、俺には見えるんだけどさ」

「これは、短冊」

短冊。言われてみりゃ確かにだ。ぱっと見はやる気の無い栞にしか見えないが、そこはそれ、時節を鑑みれば納得出来なくもない。

「ああ、七夕に吊るすのか?」

「そう。正確には笹に吊るす」

って事は願い事が書いてあるのか。いやいや、それともこれから書く白紙の短冊なのか……って、俺にはどうでもいい話だったな。

ああ、そういや俺もそろそろ今年の短冊に何を書くか考えておかないと。またハルヒに、やれ地味だの、やれ夢が無いだのと散々こき下ろされるのは勘弁だ。

「願い事を、する」

「そっか。なんか意外だな。君はてっきりそういうのには縁遠いタイプだと思ってた節が俺にはあ……あ?」

なんだ、この違和感?

意外――何が意外だ?

今日、ついさっき初めて会った女の子じゃないか、目の前の彼女は。だったらその子がどんな趣味嗜好をしているとか、そんなんが俺に欠片程度でも分かって堪るか?

人は見かけに依(ヨ)らない。ハルヒに出会ってから俺の胸に深く刻まれた言葉である。超絶美形であってもエキセントリック。谷口曰くの中身さえ違えば深窓の令嬢。つまり何が言いたいかってーとだ。

外見で人の内面を判断するような愚行を俺はなるべく避けようと、そう心掛けて毎日を生きている訳だ。これでもな。

となると。やはり俺の中で疑念が浮上するのであり。

「……なあ、やっぱり俺はお前とどこかで会った事が有るんじゃないのか?」

「知る必要は無い」

一刀両断。俺の放ったクエスチョンマークを迎撃する、その切れ味はきっと名の有る刀匠による業物に違いない。そして――そしてこの切れ味にもどこか覚えが有るのは、一体どういうこった?

話は終わったとでも言いたげに踵を返す少女。なんだよ。本当に、訳の分からない謝罪と一切の修飾と無縁の感謝を俺に告げたかった、要件はそれだけなのか、コイツ?

何だろうか、この胸の内側でざわざわする嫌な感じ。このまま少女を帰してはいけない。そう俺の第六感が声高に叫ぶも名前すら知らない少女を何と言って引き止めれば良いってんだ?

「……ま」

待ってくれ。そう言おうとした声帯は不恰好にひゅうひゅうと息を漏らすだけ。見知らぬ少女なのは確かだ。けども……ええい、どんだけ臆病者なんだよ、俺は?

俺が口をパクパクとさせる間も少女は足取りを緩めず。一歩一歩確実に俺から遠ざかっていく。走り寄って名前くらい教えてくれよとでも気軽に聞いたところで不審がられたりはしないさ。そう囁く右耳の俺。

けれどこの時の俺は左耳の俺の囁きに耳を傾けて、しまった。

――同じ北高の生徒なんだから、校内をうろうろしてりゃ見つけられるだろう、である。

結論から先に言えば、彼女は北高の生徒では無かった。

今は、もう。


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