ハルヒSSの部屋
オキノイシノ 5
喫茶店。午前十時ちょい過ぎ。デートをしている男女。泣いている少女。困惑する少年。
テーブルの上のコーヒーは冷め切っていた。誰かさんの心情を映した様に。
俺か。少女か。そんな事は分からない。
分かりたくも、なかった。
「でも、それも涼宮さんの力が消えるまでの事です」
少女の顔が俺の肩の上でぐりぐりと動く。決して短くない彼女の髪が服と擦れてさらさらと。細波(サザナミ)が砂浜を攫うような音を立てた。
「そこで、呪縛は終わり。この、茶番劇も、終わり」
「茶番……か」
「ええ。茶番です。神様のご機嫌取り。この冬……遅くとも来年の桜が見られる頃には、もう神様は神様ではありません」
それは――それってーのは。
古泉にとっては、決して良い事ではないのだろう。
「神様の力が無くなったら……古泉はいなくなるって聞いたぜ?」
「いなくなりませんよ」
一姫は俺の身体から離れた。俺を見つめる、その顔はもう泣いてはいない。
少し……肩口が冷たかった。
「古泉イツキはいなくなりません」
古泉一樹。
古泉一姫の付属品。
本来、存在しなかった少年。
神によって創られた、偽りの命。
「只、元に戻るだけです」
古泉イツキは言い切る。どうという事も無いと。それは当然なのだと、言いたげに。
「只、一つに還るだけですよ」
無感情に微笑む、彼女は確かに「古泉」だ。
「だ……だけど!」
「だけど、なんだと言うのでしょう。貴方に何が出来ますか? 私に何が出来ますか? 一樹の存在を救いたいという貴方の気持ちは分かります。私も同じ気持ちです。ですが、教えて下さい。どうか、教えて下さい」
まるで詰る様な口調でありながら、それでも彼女は顔色一つ変えず。先刻まで泣いていたのが嘘の様に。涙を見せたのが何かの間違いであったとでも言うかの如く。
気丈な居住まい。
「神様の手のひらから抜け出す方法なんて、有りますか?」
何も、返せない。思い起こすまでもなかった。
これまでに起こった全ての事件。それは「結果的に」見れば一つ残らずハルヒの為のモノでは無かっただろうか。
長門の暴走すら。それですら、涼宮ハルヒという破天荒な存在を俺に再度是認させる為の小芝居でしか無かったのではないかと、そう問われれば何も言い返せない。
神様。
これまで、俺は漠然としか考えていなかったその言葉の意味を、初めて突き付けられた気がする。
悩み込んでいる姿を見せるのが何故か癪に思えて、弱みを見せる事を苦痛に感じて、コーヒーカップを手に取る。文字通り、お茶に濁したい気分だったし、水に流せるものなら流したかった。
全てを。
それとも、来年になれば、喉元を過ぎて熱さを忘れてしまえるのだろうか。
熱さ――古泉一樹の事を。いなくなった少年の事を忘れて笑えるのだろうか。俺は忘れて、笑えてしまうのだろうか。
そんな事は無いと、言い切れない自分が、気持ち悪い。とても薄汚い生き物に成り下がった、そんな気がした。
「一つだけ、一樹を生かし続ける方法は、有るんですよ」
「そんな事が、出来るのかよ!?」
「ええ」
一姫は言う。ゆっくりと目を閉じて、吐き出すように、続きを告げる。
「一姫を……つまり、私を偽者に仕立て上げる事で。逆説、一樹を本物にしてしまえば、一樹は存続するでしょう」
一瞬、少女が何を言っているのか、俺には分からなかった。
古泉一姫を偽者にする?
古泉一樹を本物にする?
古泉一樹がそれで、存続する?
少女の言った意味をよく噛み砕いて、咀嚼して。
そして、漸く俺の脳裏に浮かび上がった言葉は「二者択一」だった。
「ふざけんな!!」
ソーサの上でカップが踊る。テーブルを揺らしたのは俺の怒号で、そして耐え切れずに振り下ろした右拳だった。
巻かれていた包帯に赤がじくじくと広がっていくが、そんなものには構っていられる筈も無い。
「ふざけてなんて、いませんよ」
「だったら尚更だ! そんなのは何の解決にもなってない!!」
「キョンくんの言いたい事は分かります。けれど……ハッピーエンドがどこかに必ず転がっていると信じているのも、貴方のこれまでを鑑みれば分かります……けれど」
一姫が開いた瞳は、表情筋を置いてけ堀にして瞳だけは、突き刺すような憎悪の赤に染まっていた。
「私には神様の庇護など無いのです」
貴方と違って、と彼女は――彼女は。
「一つ、昔話をしましょうか」
俺の右手を握って、包帯を解きながら語り出す。
「昔、一人の少女が居ました。彼女は超能力者に成り立てで、自分に力が与えられた意味を知りながら、それに戸惑っていました。未だ、機関すら設立されていない頃の話です。彼女にはボーイフレンドが居ました」
するすると手際良く解けていく白い布は、それはきっと古泉一樹の経験なのだろうと、そう思うとそれすら何か物悲しく感じた。
「その日、彼女はボーイフレンドを伴って買い物に出掛けました。ええ、丁度。こんな秋晴れの日ではなかったかと記憶しています。私は彼が好きでした。それは恥ずかしい話ですけれど、多分初恋だったのでしょう。知っていますか、初恋のジンクス」
「生憎、そういう方面には疎いんだ」
「初恋は、実らないものなのです」
手は止めずに訥々と、少女は語る。
「不幸な事故でした。閉鎖空間がその日その時間に発生した事も、閉鎖空間が私達の居たその場所に産まれた事も……そして、その時に私と彼が手を握っていた事、すら」
手を握る。その意味する所くらいなら、俺にも分かる。
「閉鎖空間で戦う事が出来るのは一樹だけですが、介入する事だけならば私にも出来ます。もう、お分かりでしょう。私は、彼を、巻き込んだのです。そして、その頃の私には覚悟が無かった。いえ、その一件によって覚悟を決めたのですけれど」
露出した傷口にもまるで臆する事も無く、一姫は持参していた鞄から消毒薬その他を出して、手際良くそれをテーブルの上に並べていく。
使い込まれた、それを。
「想い人の前で一樹を産み出す事を躊躇い、そんな事をすれば恋が瓦解すると恐れ、なぜ自分なのか。なぜ、私を普通の少女たらしめてくれなかったのかと運命を呪い神を呪い涼宮さんを呪い……結果、私は取り返しのつかない事をしてしまった」
「……死んじまった、のか、ソイツ」

まさかな、とは思いながらも問い掛けた俺に向かって、少女はこっくりと頷いた。
「はい。死にました」
古泉は言う。
はっきりと、言う。
「私が、殺しました」

見殺しにした、とは決して言わず。

殺した、と。

「私の幼さが、一人の少年を殺しました。私の弱さが、一人の少年を殺しました。私の汚さが、一人の少年を殺しました」

それはどんな心持ちで口にした言葉なのだろう。十六年間平和に生きてきた俺には、幸いにもと言うべきだろう、その気持ちが分からない。分かる筈も無い。

分かってなど、あげられない。

「つまらない、昔話です」

古泉一姫は、彼女にとってはつまらない訳が無いその話を、しかしつまらないと、そう言って締め括った。

人が死ぬっていうのは、結構凄い事なんだと思う。
それはきっと、決して「つまらない」事なんかではない。だから、それを「つまらない」とそんな風に言える境地ってのが俺にはよく分からない。
それも、好きだったヤツの事を。
そして、自分のせいで死んだヤツの事なのに。
一姫はどんな気持ちなのだろう。どんな気持ちで、俺にこの話をしたのだろう。考える。考える。考えても、元々そんな方面に理解も知識も経験も、何一つ有りはしない俺には分かりもしないと、気付いていながら考える事を止められない。
「なあ」
「はい」
「えっと……いや……あー……」
何を言えば良い。何を言ってあげられる。お前のせいじゃない? 一姫が悪いんじゃない?
だったら誰が悪いってんだ。ハルヒか? 違うだろ?
アイツだって、犠牲者なんだ。だけど……だけど天災だったなんて言って。不幸な事故だったなんて一言で。片付けられる訳が無い。だから、一姫は言ったのだろう。
「それでも私は涼宮さんが嫌い」
だから、一姫は言ったのだろう。
「超能力少女も、貴方の前では例外無く普通の少女になれるのだろう、と。私はずっと羨ましかった」
普通。普通の生活をして、普通に学校行って、普通に友達付き合いして、普通に恋愛して。
そういった普通を、この古泉一姫という少女は四年前を境に失った。
だからこそ、俺を選んで。
だからこそ、デートにはしゃいで。
だからこそ、彼女は呟いた。
「時間が止まってしまえば良いのに」
それは、本音だったのだろう。
本当に、本心から、賭け値無く、全身全霊から放たれた、願いの言葉だったのだ。
なあ、俺。
なあ――俺。
もう、お人好しで良いじゃねえか。
好きだから、で恋愛しなきゃならないなんて法律で決まってる訳でもないだろ?
「……いちひめ」
「はい。なんですか?」
恋愛感情なんかよりも、もっと大切なモンが、有るだろ?



「俺と……俺なんかで良ければ付き合ってくれないか?」



これで俺も、道化師の仲間入り。
「同情……してくれるんですか?」
「ああ。可哀想だと思った。俺で笑顔にさせてやれるんなら、させてやりたいと思った」
「貴方は……お人好しですね」
「らしいな。自覚は無いけど。なあ、一姫。こんな事を言うのはこれっきりだ。今、俺は間違い無く迷い無く気が迷ってやがる。今、付け込まないとアウトだぜ?」
一時の気の迷いで。そんなんでも構わない。
一生を棒に振ってでも助けてやらなきゃいけないヤツが、目の前に居る気がした。
「嘘かも、知れませんよ、全部。貴方の気を惹く為の。貴方の、同情を誘う為の」
「それでも良い」
少女の涙が全部嘘なら、それはそれで騙された俺が全部悪いって事にしとく。だから、付け込んじまえよ、古泉一姫。
「私はずるい女ですよ」
「なら、さっさと許諾しちまえ。誰でもない俺が許すからさ」
「私は、貴方が何を思うか。どう思うかまで考えて昔話を披露した、身汚い女ですよ」
「すっかりその手管に嵌まっちまった俺にも非が有るだろ。それに、それをちゃんとお前は俺に説明してくれてんじゃねえか……っと。しまったな」
「どう、しました、キョンくん?」
「お前、って言ったらキスだったのをすっかり忘れちまってた」
これで俺も、晴れて道化師の仲間入り。
自分で言ってて歯の浮く台詞だ。でもさ、それで笑ってくれるなら、良いじゃねえかってそう思った。
そんな風に思える自分が、意外と悪くなかった。
運命に翻弄されて、神様を呪う少女が、それでも世界は悪くないってそんな事を欠片でも思えるんなら。
それはきっと「いいこと」だ。
長門に教えて貰うまでも無く、それはきっと「いいこと」なのだろう。
なあ、俺は間違ってるかい?
「……貴方は……優し過ぎます」
「良いんじゃないか? どうでも、いいんじゃないか、そんなの? 優しいってのは、悪い言葉じゃ、ないだろ?」
「……貴方は……貴方は」
テーブルに、ぽとりぽとりと。包帯を巻き直していた手も止めて少女は。
「私は、貴方が好きです。キョンくんが、好きです。そういう貴方だから、私は好きになりました。そういう貴方だから、私は――」
世界よりも、神様よりも、恋愛感情よりも、何もかもを投げ打って。
俺は目の前の彼女の涙を止めたい。



不意打ち、した。
不意打ちは、防げない。だろ?



「私は貴方が、大好きです」
そして、もう一度。
俺達は喫茶店の奥で。誰からも死角になるその場所で。
まるで神様から隠すみたいにキスをした。

まるで契約みたいなキスをした。



秋晴れの日。午前十時ちょい過ぎ。デートをしている彼氏彼女。

それは、まるで彼女がずっと待ち望んでいた画そのままの分かり易い、極普通の、極々普通のデートだった。


外は昨日の冷え込みが尾を引いて少し肌寒い。タートルネックにジャケットってスタイルの俺がそう感じるのだから、それよりも軽装の少女は尚更だろうと考える訳だが。
「くちゅっ!」
ほら見ろ、やっぱりだ。
「……今の、くしゃみか?」
一姫は少し顔を赤くして恥ずかしそうに小さく頷く。ああ、だから、そういう幼い表情をすんなっての。
「誰か、私の噂でもしているんでしょうか……いえ、そんな筈は有りませんね。私の存在を知っているのは、機関でも極僅かですから」
機関でも、僅か。それってーのは、つまり。いや、間違いない。この古泉一姫という少女は四年前を境に外出すら自粛しているんだ。
曇りそうになる顔を、けれどわざと明るく振舞ってみせる。
そんな心配をして、過ぎた時間を俺が蒸し返して、それが一体何になるってんだ。そんな事よりも。俺にはやるべき事が有るだろ?
「だったら、寒いからだ。ただ単純にな。んな格好してちゃ、当たり前だ」
何にも気付いていない振りをして。この少女に笑顔をやるだけで、それで良い。今は、それで。
「だったらキョン君、私と腕を繋いで貰えますか? 知ってます? 男性って女性よりも体温が高いんですよ?」
言って元々殆ど無かった俺との距離を、更に縮めてくる少女。その表情は、嬉しそうで。楽しそうで。
気温が低い上に風は強い。俺達が歩く道には他に通行人が居る訳でもなく。
やれやれ。俺にはこの誘いをどうやって断れば良いのか、ちょっと咄嗟には思い浮かばん。
ま、断る気なんざさらさら無いけどさ。
「許可を求める必要なんざ無いだろ。いちひめ、俺は、お前の、彼氏なんだよな?」
なーんて口走ってる俺は、ああ、頭がおかしくなっちまってるとしか思えない。
「はい。キョン君は、私の、恋人です」
一語一語、自分に言い聞かせるように。夢のような今を再確認するように。少女は言って俺の左腕に腕を通す。
「ん……あったかいです」
「そりゃ何よりだ」
そっぽを向いて相槌を返す。仕方ないんだよ。当たってるんだ。俺の顔は今、茹蛸みたいに真っ赤なんだ。
「だが、いちひめさんや」
「ん? なんですか、キョン君」
「お前はこっちだ」
少女の左腕を掴んで一度腕を外す。そして少女の左側に移動した俺は彼女の左腕を誘導するように右腕と脇腹の間に隙間を空けた。
「車道側は野郎に譲れ。こんなんは常識だぜ。少しばっかり俺にも格好を、付けさせてくれるような思考をして貰えると嬉しいね」
もう一度言う。ああ、頭がおかしくなっちまってるとしか思えない。
俺は一体どうしちまったんだろうね。こんな、古泉でさえ苦笑混じりでしか言いそうに無い台詞を。
ま、顔が引き攣ってるのはお約束なんだが。ほっとけ。
「ふふっ」
一姫が笑った。笑って、俺の右腕に抱きついてきた。
「嬉しいです。すっごく、嬉しいです。ええ。なんでしょう……本当に、デートなんですね」
「デートに偽物も本物も有るかよ」
でもって、俺達は恋人同士だ。だったらパチモンなんて、有り得ないだろ。
「いえ、そうではなくて……えっと、怒らないで下さいね」
一姫は、俺の腕に頭をコツンとぶつけると、小さな声で、しかしはっきりと、言った。
「こんなイベントが私に待っているなんて、ずっと思えなかったから」
俺の彼女は、そんな物悲しい事を言って、それでも可愛らしく笑うんだ。
「私は、今、生きてきて一番しあわせですよ、キョン君」
全く、俺の考えなんか全部見透かして。勘の良さなんか古泉♂の方に全部押し付けちまえば良いのにな、と。俺はぼんやりと空を見上げた。
「グッモーニン、眠り姫」
「知ってますよね。眠り姫は王子様のキスで目覚めるんです」
お約束、ってヤツだな。
「だから、責任、取って下さいね」
言われずとも。喜んで。
少女の悲しい過去は、全部俺が上塗りしてやる決意くらいしてから、告白したつもりなんだ、これでもさ。

さて。俺達の行き先はと言うと三駅先に有る映画館だ。ま、映画館とは言ってもショッピングセンターに隣接されたものであり、そんなデカいモンじゃない。
他にも映画館は無くも無いのだが(去年の夏休みに行った所な)あっちはハルヒの行動半径内なのでパス。
別に見られて困る所は無いのだが……いや、嘘だな。見られては困る。困りまくるだろう。うむ。
別に一姫とそういった話をした訳ではないのだが、俺達は極自然に遠くの映画館に行く事で考えが一致していた。
「デートに横槍は興醒めでしょう」
成る程、上手い言い訳だ。その辺は流石、「古泉」ってか。口を開けば詭道主義。煙に巻くのはお手の物だな。
実際の所は俺も、それからきっと一姫も。分かっていた。世界改変。神の逆鱗。そういったものに。だけど、気付いていない振りを、矢張りここでも俺達はしていた。
まるでそんなものは無いかのように。
本当に、俺達はただの、どこにでも居る高校生カップルであるみたいに。
いや。
……そうであれば良かったのに、だな。
俺達は映画館に向かう電車に乗り込む。当然と一姫は俺の隣に座った。ゼロ距離。なんだ? どこのデンドロビウムだ?
「今やってるので見たい映画とか、いちひめには有るのか?」
「んー……有りませんね。と言いますか私、今どんな映画がやってるのかをまるで知りません」
デートプランはスカスカだった。いや、らしいっちゃらしいけどさ。
「キョン君と映画を見るのが目的であって、何を見るかは二の次なんですよ」
だから、そういう事を……言っても良いけど耳元は勘弁してくれ。頼む。マジで頼むから。
俺の顔が肌色に戻らなくなったらコイツは責任を取ってくれるんだろうな?
「あー、いちひめ。その……耳は、ちょっと……だな」
「耳? ああ、可愛らしいお耳ですね」
そう言って一姫は右手で俺の耳を触……ぁふん。
ち……力が抜ける……なんだ? 俺の耳たぶは一体いつの間にサイヤ人の尻尾並の弱点と化しちまってたんだ?
「うふ。キョン君、可愛い」
「可愛くない!」
つーか、年頃の男子高校生に向かって「可愛い」ってのは……なんだ? あれか? これが世に言う「いちゃいちゃ」ってヤツなんだとしたら……。
いやいや、こんなんがそれな訳は無い。俺は断固立ち向か……はあん。
「弱点、発見です」
「弱点だと分かったんなら弄り回すんじゃねえよ……」
顔を振っても未だ、性懲りも無く俺の耳を弄ぼうとする少女の手を取る。ふははは。これで悪戯は封じ込めたぞ。
……あれ? なんでこの子嬉しそうなの?
「キョン君、そうやって、電車に乗っている間、私の手を握っていて下さいね」
しまった、と。気付いた時には既に遅い。俺はどこまでこの少女の掌の上で踊らされにゃならんのだ。
「じゃないと、また、悪戯しちゃいますよ?」
「だから、耳に息を吹きかけるんじゃありませんっ!」
ああ、デートってのは、楽じゃないと知る十七の秋。
けれど、嫌じゃないってのは……俺も男の子なんだ。頼む。これ以上俺に言わせないでくれよ?

「ねえ、キョン君」
電車での三駅なんてのは瞬く間に過ぎる。目的の駅名がアナウンスで流れる頃に、一姫は呟いた。
「映画館では、私と絶対に手を繋がないで下さい」
「……ん? いや、別に良いが」
そもそも、俺から少女の手を握る勇気なんてのは持ち合わせが無い。チキンで悪かったな。初デートなんだよ。その辺の少年ハートはどうか察してくれ。
「だが、理由を聞いても良いか?」
一姫の顔を覗き込むと、少女は少しだけ握った手に力を込めてきた。
「……昔話をしましたよね。手を握っていたから、閉鎖空間にボーイフレンドを連れて行ってしまった、って」
……ああ、そういう事か。
「映画館、だったんです」
「そっか……そう、かい」
「はい」
少しだけ目を伏せて。そんな表情も元々が綺麗系の彼女には良く似合う。
似合う。だけど。
俺は、それよりも、笑った顔が見ていたい。この少女を笑わせる事が、俺の今日の任務で……それで合ってるよな。だよな?
「分かった」
「ありがとう……ございます」
俺は、少女の少し冷やっこい手を握っている、左手に指令を与える。指を絡ませるように、握りを変えてやる。
「だったら、尚更だな。映画観てる間、ずっと、この手を握っててやるよ」
仕方ないだろ。少女の手は、顔の火照りを移した浅ましい俺の手に、その体温がすげえ気持ち良いんだから。
そういう事にしておこうぜ、俺。古泉ほどじゃないけど、まあまあの詭弁ぶりじゃねえか?
「あ……あの、その……えっと」
「言っとくけどな、いちひめ。お前も知っての通り、俺は閉鎖空間に何回かご厄介になった事が有るんだよ」
「それはそうですが……」
「でもって、俺はお前から優男が出て来る事も知ってるぞ」
その現場を見た事は無いが。まあ、今更何を見せられた所で驚いたりもせんだろ。これでも超常現象関係の経験値だけは高いんでな。
「だからさ。何を怖がる必要が有るってんだよ」
そうだ、一姫。お前が誰にも自分を見せれなかった分。誰にも打ち明けられなかった秘密。誰とも接触をしなかった四年間。
そういうのを埋められるのが俺なんだろ? だから俺を選んだんだろ?
そう、お前はなりたいんだろ?
「逃げんな」
「え?」
「俺も絶対お前から逃げないから。いちひめも、俺から逃げんな。曝け出す事から、逃げんなよな」
俺はお前を受け止めてやるから。
だって俺は、お前の恋人なんだ。だったよな?
お前から、言い出したんだぜ? 俺の心をこんだけ引っ掻き回しておいて今更、前言撤回とかは無しにしとけよな。
「……はい。お言葉に、甘えさせて頂きます。ありがとう」
「ああ。甘えちまえ。そんかし、もしも閉鎖空間が産まれたら守ってくれよな」
なんせ、俺は完全無欠に一般人。神人なんか相手に出来る変態体質は持ってないんだ。いや、別に一姫を蔑んでる訳じゃないぞ。赤球に変身する変態超能力者の方の話だ。
「命に換えても」
「換えんでいい!」
「ふふっ。私が用心棒ですか。なんか、良いですね」
「何が?」
俺としちゃ、彼女に守られるってのは情けなくって涙が出て来そうな話なんだが。いや、神人に立ち向かった所で、象に噛み付くアリンコだけどさ、俺なんざ。
「好きな人を守る事が出来るっていうのは、ちょっと気分が良いものです」
「ああ、そうかい。俺はピーチ姫かよ」
マリオー、ヘルプミー。ってな具合かい。
「だけど貴方は、私の心を守ってくれる。守られっ放しでもありませんよ?」
「……知らん」
一姫の手を引いて立ち上がらせる。目的の駅はもう目と鼻の先だ。近付いて来るプラットホームを注視する振りをして、俺は目を逸らした。
世の中のカップルってヤツらに心から賞賛を送りたい。彼らはこんなこっぱずかしい事をやって、よくスライムにならないよな、などと。
俺なんかはもう一歩手前だ。気分はスライムベスだ。赤いし。
「貴方で、良かった。私の目は、想いは、間違ってなかった」
……もう良い。今日から俺の事はスライムと呼べ。

映画館は、まあ、予想通りと言うべきだろう。ロクな映画がやっていなかった。その中でも割とマシな(カップルで観るには無難な、という意味だ)ヤツの上映時間までには、少し時間が有った。
「席は中央を取れたんですけどね」
「まあ、封切り直後ても無い限り混まんだろうよ。しかし、後列で良かったのか?」
「その方が、色々出来るじゃないですか」
全く。コイツは何をする気なんだかね。……ま、別にどうでもいいが。二時間後の俺の事は二時間後の俺に任すとしよう。
ああ、自分でも分かってる。流され体質なんだ。齢十七。今更このスタンスを変えられるとは思ってねえよ。
「で、だ。開幕までには時間が有るが、なんかしたい事は有るか?」
「時間的にはお昼ご飯ですね」
「だな。いや、だが飯に二時間も俺は掛けられねえって」
「だったらウインドウショッピングでも付き合って頂けますか?」
ああ、前述の通り、ここはショッピングセンター内である。しかも割と最近出来たばかりの。ここまで言えば理解して頂けるとは思うが、所謂デートスポットでもある。
女性服の店には困らない。俺は居心地の悪さに困るだろうが。
「……分かった」
「ありがとうございます」
にっこりと彼女は、ハルヒに負けない大輪の花をその顔に咲かせる。ハルヒが向日葵なら、こっちはブーゲンビリアってトコか。生憎植物には詳しくないので余り良い比喩対象が出て来ないのは、まあ、俺の仕様だな。
「なら、行きましょう、キョン君」
「あー、腕を引っ張るな。どうしてそんなに元気なんだ、いちひめは」
ハルヒじゃねえんだから。そんな強引なキャラだったか? 古泉の因子を持っているって設定はどこへ行っちまった?
「分かってませんね、キョン君は。女の子がファッションショーをする時、一番見せたい相手って誰か知らないんですか?」
「悪いがそういう方面には疎いんだ」
これは本当。
「だから、知らん」
でも、これは嘘八百。
そんなんはちょっと頭を捻れば分かることだ。でも、そういう事を口に出さないで貰えたら、と。……まあ、いいけどさ。

さあさお立会い。カメレオン少女のファッション・ショウ。
「どうですか?」
試着室の薄い布がスライドした向こうからは白いワンピースに鮮やかな水色のジャケットを羽織る美少女のお出ましだ。
さっきまで来ていたプリントTシャツにパンツルックも良かったが、これはこれで女性らしさが滲み出て来る感じで悪くない。
まあ、それだけではなく数着のコーディネイトを俺は見せられた訳だが。正直に言おう。何を着ても似合うとか、この女、まさか超能力者か?
「超能力者です」
「だったな、そう言えば」
「でも、キョン君。何を着ても『似合ってる』と言うのはどうかと思います」
「え? なんでだ?」
実際、本気で心の底から嘘偽り無しにそう思っていたのだが。
「つまり、それは私からすれば『真剣に見てくれていないんじゃないのか』とか『キョン君は私に興味がないんじゃないか』とか」
「あのなあ……」
余り俺にレベルの高い要求をするんじゃありません。婦人服売り場の試着室の前で待っているだけで、俺はソワソワして落ち着かないってーのに。
無茶振りだろ、うん。
「それに、見てないなんて事はねーよ。何を着ても着こなしちまういちひめが悪い。俺に違ったコメントを求めたいならそのスキルを外して来いっつの」
……つーか、俺に寄越せ。足は長い。体は細い。でも出る所はきっちり出てやがるとか、なんだ、そのモデル体型は。
ああ、「古泉」だもんな。
「ふむ……今のキョン君の言い分を総合しますと」
「ん?」
「私に興味が有る。いえ、私の体に興味が有ると、そういう事で良かったですか?」
「曲解にも程が有る!!」
……あれ? 俺、今セクハラされてないか?
「滅相も有りません。それに、キョン君も年頃ですから。異性に興味が有る事を恥じ入る必要は有りませんよ?」
間違いない。この女、俺をおちょくって楽しんでいやがる。
「……俺はその台詞に対してなんて返答すれば良いのか教えてくれるか?」
マジで。分かるヤツが居たら今すぐここに飛んで来い。谷口。国木田。こんな時、男ってのはどうすれば良いんだ?
……いや、谷口はマズいか。アイツがこんな状況に放り込まれたらだらしない顔をする事しか出来んだろうし。国木田ならしれっと受け流すんだろうが……あれってどうやるんだろうな。
「機関御用達のホテルにでも電話を掛けておきましょうか?」
「要らん!」
急展開にも程が有る! なんだ? 俺の感情なんか置いてけ堀か? 大人の階段ってのは三段抜かしどころかエレベーター付きなのか!?
「ふふっ。冗談ですよ」
「いちひめ、お前なあ……もっと年相応のジョークにしたらどうだ?」
ブラック過ぎる。違った。真っピンクだ。
「そうですね。幾ら私が特殊な生い立ちの持ち主でも、それでも中身は普通を夢見る恋する乙女ですから」
「自分でそういう事を言っちまうかい」
「言っちゃいます。だから、こういう事はやっぱり段階を踏みたいと言うのが本音です。今のは、キョン君をからかう以上の意味はありませんよ」
全く悪びれずにそんな事を言う少女。頬に微笑まで浮かべやがるからやたらと始末に悪い。
俺には未だ恋愛とかそんなんは早いのかも知れんとか、そんな事を思ったところで誰からも文句は来ないよな、コレ。
さて、少し話は変わるが、ショッピングセンターってのはエアコンディションが良い。当然だな。折角来店した客を逃がさないように快適な空調をされているモンだ。
外に比べて少しだけ暖かいここは、けれど秋も初旬。そんな時期にエアコンが動作している事から外の気温ってヤツも察して貰えるだろうか。
可愛いくしゃみを聞けなくなるのは少し惜しいが、そんなこんなで俺は少女にストール(って言うのか?)をプレゼントしてやった。
「一生大事にします」
「せんでいい。適当に使え。適当にな」
「家宝として先祖代々受け継いでいきます」
「一々重たいな、チクショウ!」
まあ、でも。少女が喜んでくれた事だけは、鈍い俺にも分かった。本気で喜んでくれたのは、ああ、とても嬉しかったとも。

「……それで、映画を観て二人でぶらぶらして、帰ってきた、と」
「おう」
「……貴方はどれだけ鈍いんですか……」
「へ?」
放課後。教室の掃除当番を終えて、さて部室へ向かおうかと廊下を歩いていたら古泉に拉致られた。
なんでも? 昨日のデートについて聞きたい事が有るとかなんとか。まあ、気持ちは分からいではない。コイツにとっちゃ自分の事と言っても過言ではないだろうからな。
二重人格(正確には違うが、まあ、この表現で良いだろう)ってのも大変だな。……ああ、他人事ですが何か?
しっかし、屋上は風も有って寒い。古泉がホットコーヒー持参で無かったら俺は招きに応じなかっただろうな。
「何が有ったのかを一つ残らず包み隠さず僕に教えて下さい」
古泉は真剣そのものの表情で俺に詰め寄る。……顔が近い!
「お前、プライバシーって言葉を知ってるか?」
「機関に所属する僕には縁の無い言葉です」
……。
俺は機関に所属してねえよ。
「俺のターン。魔法カード、『拒否権』を発動する。二ターンの間、俺はいかなる質問にも黙秘を行う事が出来る」
「残念ですが、そのカードは読んでました。僕はそれに対して罠カード、『カツ丼の招き』を発動します」
古泉は懐から紙切れを取り出す。「カツ兵衛カツ丼一杯無料券」。……用意周到にも程が有るだろ、超能力者。
「お前……馬鹿だろ、実は」
「一姫の身を守るためなら何でもしますよ、僕は」
幾ら格好良い台詞を吐こうとも。その手に握っているのは「カツ兵衛カツ丼無料券」である。
締まる訳など、有りはしないんだが。
「まさか、カツ丼で口を割らないと、貴方はそう仰るのですか?」
……本気で言っているのだとしたら、俺はコイツとの関係について少々見直すべきところが有るのかも知れん。
「……いや、まあ、良いけどさ。お前にとっちゃ他人事じゃ、ないんだろうし。話せんところは絶対に話さないが、だが、あらましくらいなら話してやるよ」
「ありがとうございます」
古泉は俺に向けて深々と頭を下げる。
「十枚綴りだと、どこまでガードは下がりますかね?」
「幾らでも打って来い。全弾被弾して、それでも俺は余裕のファイティングポーズを取ってやろう」
カツ丼に釣られた訳では断じて無い。コイツの、一姫を思う気持ちに胸を打たれただけだ。そうだ。そうに決まっている。
この誇り高い俺が、幾らSOS団の驕りで財布が宙に浮きそうであったとしても、カツ丼の一杯や二杯や十杯で釣られるものか。
「ちなみに、鞄の中には牛丼の無料券も用意して有ります」
「よし、一枚一答といこうじゃねえか」
「それでこそ、貴方です」
「よせよ。俺とお前の仲だろ、古泉」
……。
……後ろめたくなんてないからなっ!


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