ハルヒSSの部屋
涼宮ハルヒの戦友あっぱー 3-2
「私……結末が如何なっても必ず消えるの……知ってるよね?」
そう、少女は呟いた。何故か影が薄く見えるのは……部屋の光源が原因では無かった様に思う。

何も、言い出せなかった。言える筈も無かった。そういう風に朝倉を仕立て上げたのは他ならぬ俺だったから。
「キョン君を憎んでる訳じゃないの。ううん。むしろ感謝してる。けどね」
其の顔に張り付いた笑顔は、けれど古泉の其れとは似ても似つかない。無理をしているのが俺にだって丸分かりで。
「……怖い……の」
間にテーブルを挟んでいなかったら、過ちを起こしていた。間違い無く、抱き締めていた。恋愛感情とは違うけれど。何だろうか。
そうしなきゃいけない気がした、とでも言えば分かって貰えるか?
「死んじゃうのがね。凄く、怖い。ずっと。キョン君が私達の前から姿を消して、いなくなっちゃったって思ったら、耐えられなくなって」
父親が泣いている娘を抱き締める、ってのも似ているようで少し違う。
少なくとも、俺は目の前の少女が異性だって理解していて。
「なんで、キョン君も居ないのに、生きているんだろうって。そう思った。生きてる意味が無くなっちゃったのかも知れない、そうも思った。凄く怖くなった。生きてる事も。死んじゃう事も」
朝倉に恋愛感情をちらっとでも抱いちゃいないと、言ったら嘘になる。だけど、信じて貰えるかは分からないけれど、今、コイツを抱き締めたいと思ってるのはそういう感情からじゃない。
「結果的にはキョン君はこうして帰ってきてくれたんだけど。自覚しちゃったら、凄く怖くて。一人で寝るのとか……凄く……『苦しい』って言うのかな、こういうのって」
俺はソファから腰を上げた。
「ねぇ、キョン君……自分でも、もう、よく分からないの。何がしたいのか。何を望んでいるのか」
テーブルを迂回する、其のたった数歩の距離がやけに長く感じた。
「死んじゃうの、怖いよ」
腕の中に包み込んだ、少女の身体は酷く小さく、でも妙に暖かかった。

朝倉は、確かに此処に生きている。
身勝手に産んで、身勝手に殺す。
……また、一つ俺は、自分の罪を自覚した。とても柔らかく、そして妙に暖かい罪だった。
まるで、生きている様な。……其れは甘い匂いがした。

何も声を掛けてやれない俺は、只震える身体を抱き締めた。そんな事しか出来なかった。
助けてやる、と。何故、俺の口は告げられないのだろう。
こんなに喉へと指令を出しているのに。神経回路が繋がっていないみたいに、俺の喉は呼吸以外を放棄した。
何故、告げられないのだろう。其れが嘘であっても。其れでも構わないのに。

どれだけ、そうしていただろう。離れたのはどちらが先だったか、そんな事も分からないくらい俺の頭は真っ白だった。
このハグは何だろう。恋愛よりももっと原始的で。親愛よりももっと直接的な。
「なんか、変な事言っちゃったね。ゴメン。……ありがと」
朝倉に感謝される謂れなんざ無かった。やりたいからやった。其れだけだったし、朝倉をこうも追い込んだのも俺自身だったから。
責任も取れない俺には、こんな事しか出来ない。
「ゴメンな」
呟く。数十分振りに出した声は、少しだけ震えていた。
「俺の所為で……お前は」
「其の先は言わなくても良いよ」
直ぐ傍にソイツの顔が有る。どちらかが数センチでも近付いたら、確実に何かが如何にかなっちまう距離。だから決して狭まらない数センチ。
吐息が掛かる。何でか色っぽい事はこれっぽちも頭に無かった。こんだけの美少女を抱き締めているってのに。性的な何かが麻痺しちまったのかも知れん。
けれど、こんなのも、悪くない……よな。

「最初に言ったよね。私は感謝してる、って。アレは嘘じゃないんだけどな」
左手を伸ばす。少女の顔に残っている涙の通り道を拭ってやって。
「だから、之はエラー。只の……エラーなの、きっと。明日にはいつもの私に戻ってる……うん。約束するよ」
左頬。右頬。ごしごしと。朝倉はくすぐったそうに笑った。
眼を赤くした侭で、だけど彼女は笑った。気丈に。
女ってのは強い。強くて、優しくて。母性って言うのか? 俺達が惹かれちまうのは、案外こんな所なのかもな。
「ベッド、一緒してくれなくても良くなっちゃった……かな」
なんだよ、其れ。これでも少しだけ……其れも已む無しかと思って、緊張してたんだぞ。
「已む無し、って何? 失礼しちゃうんだけど。……ただ、其の代わり……ね」
「其の代わり?」
答えの代わりに朝倉の顔が数センチ、近付いた。いとも容易く、俺が破れない其の距離が埋められちまう。
ほんの一瞬。俺の唇に何かが触れて。離れて。
「……ホントに、大丈夫になれちゃったかも」
少女が驚愕を表情に露(アラ)わにした。其の仕草はコミカルで、俺は思わず噴出しちまった。

俺の生涯二度目となったキスも、やっぱり色気とは無縁だった。

「本当に、大丈夫、なのか?」
「うん。大丈夫。だから、キョン君は後ろを見てみた方が良いかも」
朝倉が悪戯っ子みたいに笑う。……後ろ? そういや、何故だか急に部屋の温度が下がった気がするんだが……オイ、真逆!?
「凄い満面の笑みよ、彼女」
朝倉から跳ねる様に腕を放して、距離を取る。首をゆっくりと後ろに回した。嗚呼、見たくない。だけど、見ないと更にマズい。
「……お邪魔だったカ・シ・ラ?」
其処には魔姫ならぬ鬼姫と化したハルヒが居た訳だが。
……この世界に……更に閉鎖空間が発生、とかは無いよな? 無いんだよな、古泉ィッ!?



四つの月が直線で並ぶ。俺はハルヒに連れ出されて館の外へと出ていた。視界にちらほらと松明の明りが上がっている。防衛部隊の皆さん、ご苦労様です。
「あの娘、アンタの何?」
「いきなり直球だな、お前」
こちらに向けて仁王立ちのハルヒを取り敢えず無視して、俺は手直に転がってた石塊に腰掛けた。街中に自然と転がってる類の大きさでは無いから、其の辺の壁の欠片だろう。
ちらりと見回しただけでも相当数の壁が役に立たない瓦礫と化している。今日有ったっていう戦いがどんだけ激しいモノだったかは容易に想像が付いたが、実際は其れを上方修正して余り有るって感じか。
「何、って言われてもな……」
俺は石塊の上で考える人のポーズを取った。案外、楽じゃないな、この姿勢。
「娘……ってのが一番近い……のか?」
「はァ!? アンタ、其の年で子持ちなワケ!?」
うぐ。痛い所を。
「其れとも、何? すんごい若作りとか童顔とかそんなので、実年齢は四十間近です、とでも言い出す気!?」
「無い無い。其れは流石に考え過ぎだ、ハルヒ」
「だったら何よ? 戦災孤児でも引き取った? あら、マァご立派ね。自分とそう年も違わない相手にあんたみたいなのが何を出来るのか、って話なんだけど!!」
「義理の娘、って訳でもない……事もない、のか?」
うーん。なんて説明すれば良いんだろうな。確かに娘ってのはやや語弊が発生するが、しかし、其の表現が一番近いんだよなぁ。
大体、アイツは俺の娘であると同時にお前の娘でもあるんだが。ま、そんな事を言っても通じないだろうから、口には出さないけどな。
「別な言い方をすると……仲間、か?」
「なんで疑問系なのよ。でもって、アンタは仲間とあーいう事しちゃうんだ」
突き刺さるジト目。何だ? 何で俺は浮気を疑われている夫の様な心境にならねばならん?
「……アレは……其の、親愛の証と言うか……」
「シ・ン・ア・イ?」
だから、其の眼で見るのを止めろ。俺は無実だ……って、あーもー。何でしどろもどろに弁解しなきゃならないんだよ!?

「大体、俺が誰とキスしようが誰と付き合おうが、お前に何の関係が有るんだよ、ハルヒ?」
「そうね。確かにあたしには関係無いわね。でも、勇者が爛れた性生活を送っているとなると相手にするあたし達の方が馬鹿らしくなってくるのは何故だと思う?」
知るか。そんなんはそっちの勝手な心象であってソンナモンまで俺が気に掛ける義務は無い。
之でも色々と一杯一杯、ギリギリの綱渡りしてるんだよ。義務だけじゃなく余裕も無いんだ。
「つまり、あたしが言いたいのは!」
ダメだ。何を言っても通じそうにない。こういう時は放置に限る。ハルヒと一年以上を共に過ごした上で手に入れた経験則がそう言ってる。
「あんたは曲がりなりにも勇者なんだから、其の呼び名に恥じない行動をしなさい、って事なのよ」
「へいへい」
俺は夜空を見ながら生返事をした。赤青黄緑。四色の月が壊された街に四色の影を落とす。松明の橙が其処に重なって。夜だというのに、ちっとも暗いとは思えなかった。
「だから、仲間とは言え異性を相手にそういう事をするのは少なくとも勇者を引退してからに……って聞いてんの!?」
「あー? 嗚呼、聞いてるよ」
「嘘。全然聞いてないじゃない!」
ハルヒが俺のローブを掴み上げる。痛ぇな。お前、馬鹿力なんだから少しは加減しろ、バカヤロウ。とかなんとか抗議を試みようとした訳だが。
服の襟首を掴んだ侭の少女は俺の顔をぼうっと見て、心此処に有らず、と言った表情をぶら下げてやがった所為でタイミングを逃しちまった。

「……んだよ?」
「あんた……何処かで会った事無い?」
ハルヒはぼんやりと、そう呟いた。

「此処最近じゃなくて……何だろ、もっと昔」
問い掛ける、ハルヒの表情は何時かのデジャヴ。制服でない事を除けば、まんまあの時のリフレイン。
……向こうの世界を覚えてやがるのか? いや、違う。コイツは世界改変の中心で、こちらの世界に合う様に「完璧に」記憶を造り替えられている可能性が高い、ってーのを古泉だったか長門だったかから聞かされた。
だったらあっちの事を覚えている筈は無い。無い……筈なのに。
だけど、そう思えない。覚えている訳では無いのかも知れないが。其れでも100%失っている訳じゃない。
このハルヒは……やっぱり俺の知っている「ハルヒ」って事か。
「変な事言ってるのは分かってる。だけど、あの山の上で逢ったのが初対面だとはなんか思えないのよ」
俺の思案顔を如何取ったのかは知らないが、少女は困惑を瞳に乗せてそう言った。ちらちらと、俺の顔を見る。
「誰かに似てる、とかじゃないのか?」
「そう言われればジョンに少し似てるかも知れないけど、でも年齢的にね……」
ジョン=スミス。魔王か。そりゃ似てるだろうよ。俺の予想が正しければソイツは……と、そんな事よりも。
「だったら、きっとどっかで逢ってんだろ」
「え? どっかって何処よ? あたしあんまり魔王城から出た事無いんだけど?」
引きこもりか。いや、尻尾とか有るし、仕方無いのかも知れんけども。阪中みたいに「人間世界に興味は無い」ってヤツって線も考えられるか?
「だから、どっかだよ。もしかしたら、この世界じゃ無いのかも知んねぇし」
もしかしなくとも、だが。そう心の中で付け足す。
「ハァ? あんた、運命の恋人とか信じるクチ? 気持ち悪。悪い事は言わないから早目にそういうのは捨てて、年相応の落ち着きを身に付けなさい?」
落ち着き。ハルヒにそんな事を言われる日が来るとは思ってもみなかった。人生何番目かの屈辱だ。五指に入るとまでは言わないが。

「なぁ、ハルヒよ」
俺は未だにローブを握る少女の手を杖で軽く叩いてやる。いい加減に首が絞まってるんだ。降ろしてくれ。
「そんなに滑稽か? 夢想するってのは、そんなにイケない事かい?」
「其れは……」
「こうだったら楽しいかも知れないな。結構じゃないか。そう思ってるヤツが居るから、世界はきっと面白いんだと俺は思うよ」
「でも、実際はそんなの夢物語じゃない?」
俺はニヤリと笑った。そんな夢物語を、こうして叶えちまう神様が其れを自覚してないってのは、何の皮肉だよ、全く。
まぁ、良いさ。自覚が無いからこそ、って面も無い訳じゃ無いしな。だったら、俺みたいな、其れを知っている奴らは。
「そうでもないね」
嘘にしか聞こえない真実を口にしてやるんだ。飛びっきりに意地悪な口調で、誰が聞いても嘘八百にしか聞こえない現実を。
「見えないし、聞こえない。けれど、ソイツは確かに存在する。存在して、俺達を突き動かす。俺達は夢の尖兵。お前みたいなのが夜毎着想する、どうしようもない夢物語」
教えてやるんだ。信じて貰えなくても構わない。そんなのは大した問題じゃない。大切なのは真実を恐れずに口にする事。
「お前にどうしようもないんなら、俺が貰ってやる。貰って、叶えてやる」
世界はお前が知らないだけで、確実に面白い方向に回っていたんだ。
お前が、そうさせているんだよ、ハルヒ。
「手始めに、先ずは魔王だな。絶対無敵、究極無比。結構じゃないか。お前らがせせら笑う『只の人間』が」
ハルヒの白い喉が上下に動く。四つの月に照らされて、其れは艶かしく俺の目に映った。
「其れを打倒する夢物語、見たくはないか?」
まるで勇者みたいな台詞だと思った。だが、悪くは無いな、とも思ったんだが。
之を成長と呼ぶのか如何かはさて置いておいて、な。

「……無理よ。無理に決まってんじゃない」
ハルヒは溜息を吐きながら、俺の服から手を放した。
「あたしが言うのもなんだけど、アイツは化け物よ」
そう言う少女の力を俺は目の当たりにさせられている。其のハルヒが言うに事欠いて化け物、であるからして……魔王ってのはどんだけハイスペックなんだよ。
「そうね……一人であたし達他の魔族を全部相手にして其れでも笑ってる様な奴よ。ま、アイツの自己申告だから真偽の程は分からないけど。でも、嘘を言っているようには見えなかったわね」
……マジか。そりゃ俺みたいなのにとっちゃ迷惑な話だな。
「マジよ。国木田が昔、一度だけ魔王に立ち向かったらしいんだけど、相手にすらして貰えなかったって有名なハナシ。あたしよりも一個だけとは言え位階が上の国木田が、よ」
……魔王補正と言うかハルヒ願望実現能力補正と言うか。恐るべしだ。この場合恐ろしいのは魔王其の人よりも補正に関して、なんだが。
「分かった? アンタみたいなのがアイツを倒そうなんて真実、夢物語なのよ。八柱の一柱を虫の息で漸く倒した程度のキョンには、如何足掻いても勝てっこ無いの。最初から、立ってるステージが違うんだから」
「だから、諦めろってのか?」
なぁ、ハルヒ。何度も聞いちまってるから、そろそろ耳タコだと思うんだが、な。
「違うだろ。お前は、そういう奴じゃない筈だろ?」
思い出せよ、涼宮ハルヒ。お前は、どういう奴だった? 思い出せないなら思い出させてやる。何度だって、教えてやる。
お前が頼んでもいないのに根気強く俺に教えてくれたように。
そして、色んな事を諦めちまってた俺の、其の直ぐ目の前で。鮮やかな手際で一つ一つ確実に世界を面白く変えていった少女に成り代わって。
俺がお前に伝えてやる、「涼宮ハルヒ」に成り代わって。
「諦めろ、って言葉な。俺の知っているお前なら絶対に言わない筈なんだ。今のお前は其れを忘れちまってるみたいだから、俺が教えてやる」
俺はハルヒの両肩に掌を置いた。
「お前、『諦める』って言葉は好きか?」

少女の瞳の中に月が映り込む。赤青黄緑、四つの色が黒に混ざって。
「昔の俺は如何か忘れちまったが、今の俺はこの言葉が大っ嫌いだ」
瞳の中に宇宙が見える。
「なぁ、ハルヒ。『夢は必ず叶う』って言葉は子供っぽいと笑うかい?」
頼むぜ、神様もどき。夢は叶わないなんて言い出さないでくれよ。
お前がそんな事を言い出したら、俺達はこれから何を信じて生きていけば良いんだ?
ハルヒは下唇を噛んで何も言わない。コイツは知っている。魔王の力を。だから俺の言葉を信じられない。そんな事は分かってる。だけど。
お前さえ信じてくれれば……神様が背中を押してくれるなら、世界だって敵に回せるんだ、俺は。
「……信じられないわ、悪いけど」
「だろうな」
「アンタを信じるに足る証拠が無いからね」
証拠……証拠ねぇ……。
「ご大層な事なんか誰だって言えるのよ。要は中身が伴ってるか如何か。あたしの話、なんか破綻してる?」
「いや、お前の言う通りだ」
だけど、お前に疑われた侭じゃ勝てるモンも勝てん。ハルヒ補正が後付出来るか如何かは知らんが。其れでも無いよりはマシだって事は俺でも分かる。
応援は多い方が良い、ってか。
「しょうがないな……」
俺は左手をハルヒの肩から外して頭を掻いた。
「何が?」
「分かった。信じさせてやるよ。今、ぱっと出せる証拠みたいなのは無いが。必ず、信じさせてやる」

たった一人の女の子に夢を見せてやれなくて何が勇者だ。そうじゃないか?

「だから、俺を見てろ」
神様に夢を信じさせる役目なんざ、俺には荷が勝ち過ぎる気はするが、其れがハルヒなら話は別だ。
「お前が見ていてくれるなら。確信させてやる。夢は、叶うと」
荷が重かろうと何だろうと、この役目は俺にしか出来ない。
「そんな夢物語を、俺を通じてお前に見せてやる」
だったら、やってやる。押し付けられた訳でも、仕方無しにでも無く。
「夢は……必ず叶うんだ」
お前がそう、望むなら。

「此処でお別れよ。護衛はもう必要無い筈よね」
「嗚呼」
ハルヒは俺から身体を離した。
「啖呵……切った以上、守りなさい」
分かった。必ず、守る。
「あんたの言葉を信じた訳じゃないわよ」
分かってる。
「ただ、面白そうだから。其れだけなんだからね」
だから、分かってるって。
「……見てるから」
嗚呼、見守っていてくれ。
「……あたしに期待させた、責任、取りなさいよ」
しつこいな、お前も。なんならまた呪印でも付けていくか? ……って、冗談だ。だから、そんな「良い事思い付いた」的な笑顔を止めろ。こっちに近付いてくんな。
「おい、何考えて……」
「静かにしなさい。少しでも動いたら……こ、殺すわよ?」
お前は今先刻「期待してる」って言った相手を一刀両断する気か、バカヤロウ。
ハルヒの顔が徐々に近付く。マジかよ。また、この展開か。
今度は前よりも少しばっかしタイムリミットを長めにしてくれると助かるんだが。ほら、魔王討伐って勇者探しよりも余程ハードルが高いと思わないか? って、聞いちゃいねー。
「眼を……」
あ? 何て言った? パードゥン?
「……や、やり難いから眼を閉じなさい」
……なんでだよ?
「何でも良いじゃない! ほら、さっさと閉じないと死刑よッ!」
分かった分かった。死刑は嫌だからな。
「はいよ……これで良いのか、ハルヒ?」
「そ、其の侭じっとしてなさい!」
「アイアイマム」
ったく、前に呪印を付けた時にはまるで俺の事なんざ眼中になかった曲(クセ)して。如何いう風の吹き回しかね。
眼を閉じる直前のハルヒのどアップは少しいつもよりも朱が差していた気がしたが……イヤイヤ、気の所為だ、気の所為。あのハルヒが、んな分かり易いリアクションしてくれるようなら最初から俺は困ってないとかそんな……。

結論から言うと、俺の唇に乗った柔らかい物は冗談でも幻でもなかった訳だが。

「……」
「眼を開けても良いわよ」
「……何してんだよ?」
「呪いよ、決まってんじゃない」
……今のが?
「そうよ。今回のはあんたにも印が見えないけどね」
なら、お前には見えるのかよ。
「さぁ、如何かしら?」
……顔、赤いぞ。
「此処があっついのよ。松明の焚き過ぎじゃない?」
あー、もう、分かったよ。分かった分かった。
「期待は確かに受け取った。そういう事で良いんだな?」
俺の言葉にハルヒは、100%太陽の恵み充填完了、みたいな笑顔で頷いた。

そうさ。其の笑顔こそ俺の知ってる「涼宮ハルヒ」だよ。
漸く会えたな。……おかえり、ハルヒ。


「……あんたは、あたしを、知ってるのね?」
ハルヒが呟く。俺は頷いた。
「……って言った所でお前は信じないだろうが」
「信じるわけないでしょ?」
だよな。いや、まぁ良いさ。そんなんは信じようが信じまいが無意味だ。
本当に信じて欲しいのは別の事。お前はちっぽけなんかじゃない。言ってやりたいのはそんな事。叶わない夢なんか無い。教えてやりたいのはそんな事。
「……って言いたいんだけどね……」
「ぁん?」
「何と無く信じてみても良いかも知れない、って思ってんのも確かなのよ。……こら、そこっ、笑うなっ!」
「ソイツは無理な相談だろ、ハルヒ……くくっ……くくくっ……そっか、そっか……くくっ、あははははははっっ!!」
喉の奥から哄笑が後から後から湧いてきた。心の底から、可笑しかった。
あのハルヒが「信じる」ってか。いつもあんだけ役立たずと罵っている相手を……俺を。
曖昧さを嫌う性質を持つアイツが、何だって理屈を捏ね回さないと気が済まないアイツが。「何と無く」なんて其の口で言うモンだから。
「笑うな、笑うなっ! 笑うなって言ってんでしょうがぁっ!!」
ハルヒが俺に詰め寄る。首に鋭いナイフの様な爪が当たった。首筋からつう、と粘り気の有る液体が流れていく感触。だけど、そんなんじゃ今の俺は止められない。笑って、笑って、笑った。
上下する喉が何度も爪に抵触して血がだらだらと流れるのが気持ち悪かったけれど、其れにも直ぐに慣れちまう。
否、感覚なんてとっくのとうに麻痺しちまってたんだろう。あんまり綺麗な星空だから。
すぐ傍にハルヒの顔が有る。耳の端まで真っ赤にして、まるで幼女みたいにむくれているけれど。
そんな表情を俺が可愛いと思ったのだって、きっと夜の所為だ。
嗚呼、そうさ。だから今から俺がハルヒにしでかそうとしている事も、きっと俺の意思じゃない。
人の狂気を呼び覚ますって言われてる月が、四つも空に浮かんでいれば、俺でなくともトチ狂っちまうモンなのさ。
そう、思おう。思い込んで、身を任せてしまおう。真実に気付いていても、気付かない振りをしてしまおう。ベッドの上で頭を抱えて転げまわる役は、明朝の俺に回してしまえば良い。
今だけは……全てに素直になっても良いよな。見てるのは、月だけだから。
俺は一歩、踏み出した。
「ッ!?」
俺の動きに合わせて、爪が引く。だよな。今のお前は俺を殺す気なんかこれっぽちも持ち合わせちゃいないんだしさ。
だったら、こんなギラギラしたモンは邪魔なだけだろ? 違うか、ハルヒ?
俺は少女の腕を掴んだ。其の侭、左手をレールに沿わせるようにして滑らかな肌に這わせていく。肘上から、指先へと向けてするすると。
「ストップ。それ以上手を動かすと怪我するわよ。言っとくけど、切れ味はそこらの鈍(ナマク)らよりずっと良いんだから」
「……だったら引っ込めろ」
抑止を聞かず手を掴む。下手な握手みたいに。ソイツの爪は気付いた時には既に引っ込んでいた。器用な奴だと感心する間も無く、俺の指は半自動的に動いて。
ハルヒの頑なに閉じた指を開かせる。ゆっくりと、丁寧に。空いた隙間に一本づつ指を入れていく。四つの隙間に四つの指はしっくりと馴染んだ。
その形はまるで祈りを捧げている様で。
「恋人繋ぎ、って言うらしい」
「ふざけんな、馬鹿! なんであんたとこんな真似しなくちゃいけないのよ!?」
「だったら今すぐにでも振り解いたら如何だ? お前の力なら簡単な筈だ」
「や……やってるわよ!!」
言葉とは裏腹にハルヒの右手は俺の左手を拒まない。むしろ逆に握り返してくる。借りてきた猫の様に、おっかなびっくり。少しづつ、力を入れて。細く白い指が閉じていく。
「あんた、なんか魔法を使ったんでしょ!? あたしが知らない間に! ひ、卑怯よ! 男なら正々堂々……」
その言葉は続かなかった。否、続けさせなかった。
「ハルヒ」
名前を呼ばれただけで身体を分かり易く跳ねさせる。……きっと、コイツも月に酔っちまってるんだろうな。悪魔っ娘らしいし、もしかしたら俺よりもそういうのに敏感なのかも知れない。
「……少し、黙ってろ」
二人の間で握った手が邪魔だった。静かに其の手を誘導して下ろさせてやる。
少女に触れていない、もう片方の手から杖が取り落ちた。ハルヒが、其の手を欲して、俺が其れに応えたからだった。
「こ……こんなのオカしいわよ! あ、アンタは……ゆゆゆ勇者でッ! あたしは魔族の……ひひひ、姫なのにッ!!」
顔を真っ赤にして俯いている、少女を愛しいと思った。何の冗談でもなく、本気で。
朝倉に抱いたのとはまた別の想いが胸に去来する。この感情を恋愛感情と呼ばないで他に何と呼ぶのか、俺は未だ知らない。
「ハルヒ……俺、先刻言ったよな。黙ってろ、って」
これ以上、俺達の間に言葉は要らなかった。ハルヒは何も言わずに顔をあげて俺の意思を酌んだ。眼をこれでもかと強く瞑って、唇を硬く結んでいたけれど。
少女は、望んでいる。じゃぁ、俺は如何だ?

言葉は、要らなかった。

キスをして。

「……もう一回」
「分かった」

キスをして。

「……もう一回」
「嗚呼」

キスをして。

「……もう……一回」
「お前が……望むだけ……何度でも」

キスをした。

何度も、俺達の影はくっ付いては離れてを繰り返す。壊れかけた発条仕掛けの人形の様に。一回一回リズムはバラバラ。


まるで探るように唇を重ねて。
まるで歌うように唇を啄(ツイ)ばんで。
まるで恋をするように舌先を委ねた。

月の光の下、高速再生したらきっと俺達は踊っているように見えるんだろうな、なんて下らない事を考えて。すぐにそんな思考は粘着質な音の向こうに消えていく。
今日は星が煌いているから。一緒に居て。そしてキスしていよう。
そんな英詩のラブソングを思い出した。

「……もう、一回」
「……何度だって」

ハルヒの手がキスする度に俺の手を弱い力で握り締めた。其れをしあわせだと思った。其れを永遠だと思った。其れを恋だと思った。
一度も抱き締めたりはしなかった。多分、怖かったんだと思う。溺れちまうのが。全身で相手を感じてしまうのが。其れでも手は繋いでいたかったし、唇は接触させていたかった。
よく、分からない。
けれど、そういうモノなんだとも思った。

「アンタはあたしだけの勇者になりなさい」
「分かった。お前の夢を叶える為だけに生きてやる」

キスをしながら、唇を合わせながら、お互いの口の中に、言葉を紡いだ。
そんな誓いを、月だけが見ていた。



クイッ、と俺の袖を長門が引く。俺は攻撃魔法詠唱を中断すると長門の視線の先を見た。黄色の煙が昼間の空に不自然に上がっている。
「狼煙。全軍撤退終了の合図。私達も速やかに撤収すべき」
「よし、退くか、長門」
俺の言葉に数ミリの首肯を返す長門。これ以上の戦闘は無意味だった。元々、数を減らしたりが目的ではなく、あくまでも俺達の仕事は時間稼ぎだったからな。
少女が小走りに駆け出す。俺は其の後を追った。長門にしちゃ走るのが遅いのは、俺に合わせてくれたんだろう。
ま、正直に言うと、俺は長門の姿が無ければ迷っていたに違いなかった。この城塞都市って奴は古泉曰く戦場となる事を想定して最初からデザインされたらしく、迷路の様に道が入り組んでいたんでな。
俺は走りながら、昨夜の事を考えていた。見守っていると言い残して消えたハルヒの事。そして、ハルヒに対してあんな事をやってのけた俺の事。
何処とも知れない民家のソファで朝比奈さんに起こされた時には頭の中がぐちゃぐちゃだったが、危険を肌に感じない、只言われる侭に移動して機械的に呪文を詠唱するだけの戦場は俺の心からそういうのをさらっと押し流してくれた。
単純作業ってのは気分転換になるらしい。其れが良い事か如何かはさて置いておくとして。
お陰で、今の俺は昨夜の狼藉を思い出した所で殆ど心は躍らない。余りに恥ずかしい出来事過ぎて逆に現実感が薄く、夢だったんじゃないかとも思えた所為も有るんだろう。
俺はぼんやりと、眼では長門の背中を追いながら、頭ではハルヒの表情を思い浮かべていた。
揺れる長門の尻尾が、ハルヒと重なって見えるのは一体如何いった心境が理由だろうか?


「長門さん! キョン君!」
呼ばれた方を向くと其処にはマイスウィートエンジェルがいらっしゃった。ぴょんぴょんと其の場で跳ねて懸命に自己アピールをしていらっしゃるのが愛らしい。
「こっちです! 着いて来て下さい!」
朝比奈さんが走り出す。元々、スポーツ全般に向いていなさそうなこのお方は、やっぱり簡単に俺と長門に追い付かれた。
「他の連中は?」
「えっと、朝倉さんは『最後の仕上げ』っていうのをしに行きました! 鶴屋さんも其れに付き添っていますので心配は要りません!」
朝比奈さんが走りながら言う。如何でも良いが、少女が太ももを上げる度に一々飛び跳ねる胸部に眼が行ってしまうのは悲しい男の性だよな。
「古泉君は例の急造出口付近で敵が来ないか警戒を続けています! 私達は、今其処に向かっているんです!」
心此処に有らず。朝比奈さんのお言葉も右から左で俺は其の丸い二つの物体に見入っていた。うーん、何時見ても特盛だ。眼福眼福。と、眺めていたら朝比奈さんは何も無い所でお転びなさった。不器用過ぎて逆に器用だな、この人。
「大丈夫ですか、朝比奈さん?」
「うぅ……平気ですぅ……」
「朝比奈さんが走る=転ぶ」のは規定事項なのかも知れない、とか失礼な事を考えなかったと言ったら嘘になる。が、若干緩めとは言え一刻を争うこの状況でのんびりとはしていられないのもまた事実。
「良ければ俺の腕を握って下さい。其れだけで転ぶ事は無くなる筈です」
「あ、はい!」
そうして朝比奈さんは右から俺に、逆サイドから長門に支えられて走り出した。なんか感動のマラソンランナーって画面(エヅラ)だな。


「ご無事で、何よりです。怪我は有りませんか?」
俺達を待っていたのだろう、壁に寄りかかって辺りを見回すニヤケ顔が聞いてくる。其の隣には朝倉と鶴屋さんも既に揃っていた。
SOS団、無事に集合ってか。……無事だよな?
「俺の方は長門の位置取りが的確だったお陰で掠り傷一つ無い。一方的に遠距離魔法を打ち込んでやれたよ」
言いながら長門の頭を撫でる。ザラザラした獣の耳がピコピコと動いた。うん? くすぐったかったか?
「……そんな事は無い」
そうかい。で、なんで続きを望む様な眼で見られてるのかね? 昨夜のハルヒか、お前は? なんてまぁ、口が裂けても言えんけどな。
「結構です」
「お前の方は大丈夫だったか?」
「一寸、キョン君? 古泉君にはこの鶴屋さんが付いていたんだよ? 見くびって貰っちゃァ困るねぃ?」
少女がうわっはっは、と豪快に笑う。良かった、其の感じじゃ俺の危惧は杞憂に終わったみたいだな。
「と言う訳です。さて、如何やら敵は未だにこの第三の脱出口には気付いていないようですし。となれば長居は無用。とっとと退散しましょう」
古泉が親指を突き出して背後を指し示す。元は街をぐるりと囲む堅牢な石壁だった筈の其処には大の大人が二人ほど同時に潜れる大きさの穴が開いていた。
「凄いな、本当に開けれちまったのか……」
「人が造った物なら、人に壊せない道理は有りません」
そう、言って心底楽しそうに頷いた少年は率先して動いた。
「では、脱出します。これから僕達にはもう一仕事残っていますから、この街に留まる必要性は皆無です」
「だねッ!」
古泉の後を追って鶴屋さんが街を出る。其の後を朝比奈さん、長門が続いた。
壁の内側に残ったのは俺と朝倉。
「キョン君、先に行ってくれる?」
騎士鎧に身を固めた少女が俺に向かってウインクする。……オイ、朝倉? お前は外に出ないのか?
「勿論、出るわよ。でも、『最後の仕上げ』の仕上げをしないとね」
そう言って朝倉は短い呪文を詠唱した。内容は……『着火』の魔法。そう言えば先刻から妙に変な臭いが街中に充満していたが……成る程、コイツは油か。
「そういう事。今からこの街は火の海になる、ってワケ。じゃ、危ないからキョン君も外に出ていてね?」
「了解だ」
俺が今にも崩れて落ちてきそうな石壁の穴を潜り終えるか終えないか、って瞬間に背中から熱風が吹きつけた。
「さ、脱出しましょっ♪」
無言で頷く。何時の間にか隣に追い付いていた朝倉と共に街から出る最後の一歩をジャンプ。
石壁の街は直後、炎の壁の街へと其の愛称を変えた。

そして俺達はまるで火遊びをした悪餓鬼集団みたいに、手に手を取って其の街を後にしたんだ。
背後から戦火に照らされながら。これから更に過酷な戦場が待っていると知りながら。其れでも。
SOS団が誰も欠けず、全員揃っているこの状況に六人が六人とも笑みを浮かべていた。
此処にハルヒが居ないのが、俺には少しだけ残念だった。けれど、其れはもう少し後に取っておこう。
全てが終わった、其の時まで。


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あきゅろす。
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