ハルヒSSの部屋
古泉くんの戦友
「戦争、か」
少年は煙草を灰皿に押し付けると忌々しげに運命共同体の男を睨んだ。
「はい。先日、とあるダンジョンで魔王城の周りの結界を消す術を手に入れました。つまり、我々の側から攻め込む手段を得た訳です……が」
男の隣に立つ宇宙人少女が懐から宝珠を取り出す。玉座に座る少年は其れを心底つまらなそうに見ると、顎をしゃくって無言の内に続きを催促した。
「さて、自国領を攻められる可能性を知った魔王は如何動くでしょうか。其れが賢明な王ならば。自国を侵される前に攻め込む可能性の有る国に攻め込む余裕を奪い去るだけの打撃を与えるでしょう」
「ふん。……やってくれたな、古泉」
「僕達と同じく、こちらに『来ている』のに一人だけ高みの見物なんて許されると思っていましたか、会長?」
古泉一樹は微笑を浮かべた。一方の少年は玉座に背を預けて本日四本目の煙草に火を点ける。
「あら、私も居るんですけど?」
会長と呼ばれた少年の傍に付き添うように立っていた緑髪の少女が首を傾げる。古泉は少しばかり微笑に苦々しいものを混ぜた。
「すいません、喜緑さん。しかし、規定事項と考えて如何か巻き込まれて頂ければ幸いです」
真実を言えば。古泉は口で言う程、表情に見る程眼前の二人を巻き込む事を心苦しいとは考えていなかった。
この二人が自分達と同じ様に向こう側の記憶を保有しているならば、何らかの形でいずれこの事件に関わってきただろうと踏んでいたからだ。
そして、其の予想は正しかった。否、男自らの手で其の予定を繰り上げたのだから、正確に言うならば「正しくした」と記述するべきか。
「つまり、魔王の軍勢が……間借りしているとは言え、現状は『俺の国』であるキタコウに攻め込んでくる、って事か」
「話が早くて助かります」
玉座の男は口から溜息とも判かない煙を一度大きく吐き出すと、天井を見上げるのを止めて古泉に向き直った。
「具体的な話をしろ」
「無論です。……ですが、其の前に」
少年は玉座から目を背ける。シリアスを貫くのは頗(スコブ)る付きの超能力者とは言えこの辺りが限界だった様だ。よくよく見ると彼の肩は、身体はずっと小刻みに震えていた事に玉座の少年も気付いただろう。

「すいません。着替えてきてくれませんか?」
「喜緑君! コイツを不敬罪で引っ立てろ!!」
「却下です、会長」

今日も今日とて、王はかぼちゃパンツに白タイツの出で立ちだったとか、旧知の人間のそんな姿は幾ら日頃から訓練を積んでいた古泉一樹と言えども笑いを堪える事が出来なかったとか、そんな話は蛇足でしかない。

「ドレスシャツにジーンズ」
「……長門さん、玉座に座るには余りにラフ過ぎる服装を揶揄したい気持ちは分かりますが、先程に比べればかなりマシなのでツッコミは無しです」
「……了承した」
少女に耳打ちする際に頭の上の猫耳か本来の位置に有る耳か、どちらにすれば良いのだろうと少し古泉は悩んだ。
「で? 具体的には俺に如何しろと言うんだ、お前は?」
玉座に再度腰掛けた少年が手元のポケットから煙草とライターを取り出そうとする。が、喫煙用具一式を着替えの際に「間抜け王様服」の中から回収する事を忘れた事に思い当たり諦める。
「先ずは、僕達にこの国の何処のどの部隊で有っても動かす事の出来る特権を頂きたい」
「……この国でも乗っ取る気か?」
無論、少年にとってみれば冗談だ。そんな事をした所で古泉一樹という少年に何の得も無い事を承知の上での発言だった。
「そうですね。暇が有れば考えます。……と、言葉遊びは之くらいで良いでしょう。僕が言いたいのは、ですね」
喜緑絵美里が微笑みを崩さないのを見て、そんな仕草が自分に幾分に似ているな、などと下らない事を考え、そして直ぐに其れを意識から追いやる。
今の古泉一樹には何よりも優先すべき仕事が有る。大切な仲間の帰る場所を守る、という大切な仕事が。

「魔王の先遣隊による蹂躙を僕達で片っ端から潰していこうと思うんですよ。謂わば『火消し』ですね」
「たった五人でか」
「キョン君が居なくなった事は未だ報告していなかった筈なんですが」
「舐めるな、古泉。其れで……精神的な柱を失ったお前達に其れが出来るのか?」
王の危惧は少年にも理解出来た。一人を失った事で加速度的に自分達が死に急ぐ事を、彼は危険視しているのだろう。
「ご心配無く。……僕達はたった五人では有りませんから」
古泉の言葉を、隣の少女が継いだ、滑らかに。
「彼は必ず帰ってくる。約束した。彼は約束を必ず守る」
「信頼、ですか?」
喜緑が同僚の予想外の言葉に不思議そうな顔をする。古泉は首を振った。
「そんなに格好良いモノでは有りません。之は……そうですね。どちらかと言うと……」
くすり、少年が笑う。釣られてもう一人の少年が口の端を上げた。年の割に気付きが良過ぎるのが二人の少年の共通項だった。

「経験則でしょうか」
古泉はしかし、自身の口から出た曖昧な言葉に反して其の予測を頑なに信じていた。

ヒーローは殺しても死なないからヒーロー。「出」を決して外さないからヒーロー。
何時だって期待に応えてみせるからヒーローなのだと。
古泉一樹という少年にとって「彼」はそういう意味で、紛れも無くヒーローだった。其れを少年自身が確信するのはもう少し先の話になるのだが。

「住人の避難、完了しました」
城塞都市トクシン、執政官用館二階執務室。少年は窓際で風と共に報告を受けた。
「分かりました。ご苦労様です。さて……では、貴女も急いで逃げて頂けますか、市長?」
元の世界では自分のクラスの学級委員長をやっていた少女に古泉が告げる。少女は少し悩んだ末に首を振った。
「いいえ。私にはこの都市を任された人間として、結末を見守る義務が有ります」
責任感の強い少女だと古泉は感嘆する。しかし、少女が恐怖を抱いているのは一目瞭然。其の両足は震えていた。当然だ。今から、この都市は戦場になる。
この場に残り、戦闘に巻き込まれれば死ぬかもしれない。そんな分かり易い、想像するに容易い恐怖の仮定を前にして、其れでも見て見ぬ振りを出来る程彼女は年老いていなかっただけの話。
「其れは困りますね」
本当に困っているのか。言葉が嘘にしか聞こえない微笑みを少年は浮かべていた。
「市長に任されたのは街の体裁では有りません。貴女が守るべきは、最後まで見守るべきは其処に生きる市民達の行く末です。
其処に住む人さえ生きていれば、街は一年経たずに甦るでしょう。つまり、住人こそが『街』です。王ならばそう言うと、僕は思いますよ」
我ながら似合わない綺麗事を論じていると思う。しかし、人を動かすのに一番役に立つのは感情論だとも彼は知っていた。
彼自身も、其の感情とやらに動かされた一人なれば。
「建造物としての街を守るのは我々軍人に任せておけば良い。貴女は、街の本質を……戦えない人々を守って下さい」
少女が年相応の表情で笑った。少年に少年の仕事が有る様に、市長には市長の仕事が有る。そんな当然の事すら、混乱して見えていなかった自分を自嘲する様に。
「……分かりました」
「結構です。避難に利用した百五十の兵は、其の侭貴女の管理下で働かせて下さい。新兵ばかりだそうですが、避難誘導くらいには役に立つでしょう。其れに、若者程理想を守りたがるものです。
其の手に戦う術を持たない市民の命が懸かっていると思わせる事にさえ成功すれば、彼らは一糸乱れぬ統率で動く筈です。そして、そう思わせる事が貴女には出来ると、信じているから彼らを託します」
少女が手を伸ばす。古泉は意図する所を察すると、其の手を握った。
「出来れば、彼らには剣を握らせないで下さい。血生臭い役をするのは、其れを生業とする事に慣れ切った、僕達職業軍人だけで良い」
「善処します」
握った手はどちらからともなく離れた。時間が無い事は純然たる事実だったからだ。
「御武運を」
「この若輩に出来る限り。貴女と其の市民が帰ってくる場所をこの手で守ってみますよ」
古泉は最後まで偽りの言葉を続けた。

市長が部屋から出て行く。入れ違いで入ってきた少女は微笑みを浮かべていた。
「此処に残りたがっていたわよ、あの娘」
朝倉涼子は目の脇で歩き去っていく市長を見送りながら、そう言った。

「立ち聞き、ですか」
趣味が悪いとは言わない。元々の世界での古泉は其の「趣味の悪い事」を仕事としていたようなものだったからだ。
「理想に殉じたがるのは少年少女の常ですが、出来ればクラスメートのそんな姿は見たくありません。居ても邪魔にしかなりませんし、丸め込んで正解でしょう」
「其れは本音? 其れともそんな言葉すら建前?」
少女が楽しそうに笑う。古泉も釣られて、こちらは自嘲気味に笑った。
「どちらでしょう?」
「嘘ばかり。よくすらすらと出て来るものね。役者って言うのかな、こういうの?」
褒められているのか、貶されているのか。恐らく両方なのだろう。そして、そんな事は如何でもよかった。彼は報告を促した。
「朝倉さん、帰ってきた所早々に済みませんが本題に移りましょう。……如何でしたか、彼らは?」
問われて朝倉は、部屋の中央に鎮座する議論用の大テーブル上に置かれた周辺地図の上にチェスの駒を並べた。
其の並びに、少しだけ古泉は感嘆し、また失望を抱く。前者の理由は少女が配置する駒の種類を選び戦局をより的確に示した事に起因し、後者の理由は自分の予想を悪い形で外した事からだった。
「敵の動きは速いわ。事前に聞いていた古泉くんの予想よりも侵攻してる」
「そうですか。偵察、ご苦労様です」
古泉は苦笑しながら、地図上のナイトを擦(サス)った。
「……なるほど、この世界はあくまでゲームを基にしただけという事ですか。ゲーム其の侭といかないのは……統率する将がプログラムに従うだけの木偶ではなく、思考しているから……なのでしょうね」
「この分だと昼過ぎには……やってくるわよ、この街に」
早い。少年は舌打ちする。国王率いる本隊が救援に来るのは二日後。其れまで持たせられるか。否、持たせなければならない。
「今、キョン君はこの街に向かっている。少なくとも彼が帰ってくるまでは、この街を蹂躙される訳にはいかない……」
少年の独り言を聞いて、少女が苦笑する。
「長門さんも朝比奈さんも。そして、君も。信じてるのね、キョン君が生きてるって。必ず、帰ってくるって」
言われて地図に落としていた眼を上げた。少年は口の端を上げている。
「当然です。疑う余地すら有りません。他の誰でもない、彼ですから。……其れとも、真逆(マサカ)貴女は疑っていらっしゃるのですか?」
「少しだけ」
朝倉涼子は……少なくとも其の名前で呼ばれるこの少女は彼ら程「少年」との付き合いが有る訳ではない。確証を持つには如何しても前例が足りなかった。
手放しで信じる事の出来る彼らが羨ましく、同じ事を自分には出来ない事が少し、悔しい。
眼を伏せる少女から地図に眼を戻すと、古泉は呟いた。
「でしたら良い事を教えてあげましょう」
「何?」
続きを促された少年は話し出す。まるで自分の武勇伝を語る様に。
「悪い予感を裏切る事にかけて、彼の右に出る人なんて僕は之までに見た事が有りません」
なれば、今回も。彼ならばきっと暗い運命を何食わぬ顔で裏切ってみせる。
古泉の其れは祈りにも似ていた。

「其れで、具体的に如何する気だ?」
この都市の本来の守備隊長が古泉に問い掛ける。
「貴方なら、如何します?」
「野戦を仕掛ける。この辺りの地理に関しては我々に一日の長が有ろう。都市を蹂躙させない為にも、必要最低限の警備を残して外で戦うべきだ」
「成る程」
古泉は隣に座る鶴屋を見た。少女はやれやれとでも言いたいのだろう、両手を少しだけ挙げて小さく「お手上げ」のポーズを取った。
「朝倉さん、敵の数を教えて頂けますか?」
事前に古泉は聞いている。だから、この報告は自分の為ではない。
「八百。一緒に偵察に行った長門さんが数えたから、ほぼ間違い無い筈よ」
少女の口から出た数に男が顔を覆った。
「もしも、貴方の意見通りの手を用いたとしましょう。守備隊の半数は市長に託しましたので、残り百五十。之から更に街の警備を引きます。少なく見積もっても四十は必要でしょうね。
では残りは百十。彼我戦力差は七対一。手練を残したとは言え、野戦となると……一人で七を相手にするのは分が悪いと言わざるを得ないでしょう。
強襲しようと、精々で一人頭二人を倒した辺りで形勢を立て直され……之以上は言わなくても分かりますか?」
古泉に相対する男が奥歯を噛む。
「ならば、如何する?」
搾り出すように呟いた言葉に、少年は頷いた。
「野戦がダメならば篭城でしょう」
「篭城!? はッ! 篭城か!」
男は憤りを隠さない。当然だった。自分の背には百五十の兵の命が懸かっている。簡単に、其の責務を放棄するわけにはいかなかった。
「何処に篭城する!? 何処に篭る城が在る!?」
「お気に障ったら済みません。しかし、如何にも勘違いなされているようなので言わせて頂きます」
古泉は地図上に白いポーンを並べながら言葉を紡いだ。
「僕らの仕事は敵を蹴散らす事ではありません。時間を稼ぐ事です」
「分かっている」
「加えてもう一つ」

「僕らの仕事はこの身を盾として未だ逃げ続ける住人を……命を守る事です。決して、只の建造物を守る事ではありません」
守備隊長は自分よりも年若い筈の少年の言葉に、其の裏の確固たる信念を見て押し黙るしかなかった。

「この街の造りを最大限利用します。彼我戦力差は五対一。一人で五匹を相手にするのは無謀でしかありませんが、二人で一匹を十回相手にするのは無理な話ではありません」
ゲリラ作戦。古泉の提案は古今を問わず数に劣るものが取ってた中で最も有効な手段だった。
「先ずは正門を開け放ちます。この街は城壁に覆われてはいますが、危険なのは其の城壁に頼り切る事です。幾ら堅固とは言え人の手による物ならば壊せない道理は無い。
もしも城壁に穴を開けられ、予想外の方向から攻められれば、其処から命令系統は一気に崩壊するでしょう」
「……正門を自ら開け放つ事で、逆に相手の侵攻ルートを固定する、という訳か」
男は髭を触りながら、若年の指揮官が動かす駒を見つめる。
「そうです。容易く侵攻出来る場所が有れば、城壁を力尽くで破る必要は無い」
洪水と堤防を引き合いに出すまでも無く、水路が有れば其処に水が流れるのは摂理。
「そして、入ってきた敵は三々五々に別れての侵攻を余儀なくされる……」
城塞都市。其の名前の由来は街中に張り巡らされた迷路の如き石壁。其れは街を覆う城壁の様に堅固と言う事は出来ないが、しかし破るには骨の折れる代物だった。
「元よりの住人ですら道に迷う事が珍しくないと聞く街です。道は尽(コトゴト)く細く、敵が一時に雪崩れ込む事は不可能かと」
古泉は男の指す先に駒を置いていく。
「つまり、城はこの街其の物と言えます」
「この街の守備を任された俺の前でこの街を戦場に、廃墟にすると言うのか」
男が睨む。古泉は言葉の奥に有るであろう、男の心を信じて笑った。
子供の頃、誰しもヒーローに憧れた。其の少年だった誰もが持つ、過去を信じた。
「ええ。もう一度言います。我々が守るべきは物ではありません」

「貴方が今、心から守りたいものは何ですか?」
其れは殺し文句。人ならば拒めない言葉。誰もが其の言葉の卑怯さを知っている。だからこそ、男には笑うしかなかった。
「アンタ……古泉とか言ったか? 軍人が守るのは人じゃない。地面だ。軍人としちゃアンタは如何考えても失格だろう。……が、そんなアンタだからこそ王はお前に軍を統括する特権を与えたんだと思う。
ふん。王も甘ちゃんと言うか何と言うか……だがしかし、この国は国境線よりも命を重んじる……守って死ぬに値する国だった、ってワケだ」
守備隊長は、自分よりも幾分年下の少年の背に自分の命と部下の命を預けるだけの器が有る事を理解して、そして豪快に笑った。
「痛快だ。こんな時だと言うのに笑いが止まらん。良いさ。従おう。俺と、俺の任された百五十の兵をアンタに預ける。
デカい口を叩いたんだ。俺達を見事に使いこなしてみせろ。理想が叶えられるものだと、この頑固な老害に思い出させてくれ」
男の言葉に、少年は一際鮮やかに微笑んで力強く頷いた。

剣が閃く事も無ければ、矢が飛んで来る事も無かったが、しかし其処は戦場だった。
「第四防衛拠点、突破!!」
「同じく第十二、突破されました!!」
次々に執務室に報告が飛ぶ。一つ一つを聞きながら古泉は地図上でペンと駒を忙しく動かし続けた。
「第四防衛拠点を取り返します。朝倉さん、第七に向かった鶴屋さんがそろそろ仕事を終えている筈です。消耗している所彼女には非常に心苦しいのですが、第四防衛拠点への移動をお願いしてきて下さい」
たった今戻ったばかりの強力な駒に休む暇すら与えさせられないのが、彼には苦痛だった。しかし、そんな古泉の心情を理解している少女は文句一つ言わずに頷いて見せる。
「了解したわ」
「嗚呼、もう一つ。其の足で第十二から後退する兵を援護。後ろから兵を回しますので出来れば第十二拠点を取り返して頂けますか?」
我ながら人使いが荒いと古泉は思う。けれど、仕方が無かった。夜になれば蹂躙は一時的にとは言え沈静化するだろう。其れまで粘らなければならない。何をしても。
「朝比奈さんを借りていくわね!」
朝倉涼子はそう叫んで執務室を出て行く。鶴屋が怪我をしていれば確かに朝比奈の力が必要となるだろう。そうでなくとも撤退する第十二拠点防衛部隊には怪我人が出ている筈だ。
古泉は其処まで考えて朝倉を引き止める事を止めた。そして、地図を再度見下ろす。
「一番の激戦区に長門さんを回したのは正解でしたね」
第一防衛拠点、と書かれた箇所には白のルークが置かれている。其の駒だけは戦端が開いてからも一度と動かした事は無かった。
少女がどれだけの奮戦をしているのか、地図を見ているだけの自分には分からない。しかし、不動のルークは何故か赤く見えた。
「……消耗戦や防衛線の類は僕らには向いていない。今更ながら思い知らされますよ」
飛び出して行きたい衝動を必死に堪える。自分以上にこの場での指揮官をやれるだろう人間など居ない事を彼は強く理解していた。
「出て行けば、救えるでしょう。何人かは。ですが、何十人の死人が出る……」
少年は悔しそうに唇を噛んだ。仲間の危機に身体を張れない己を憎む。
もしも、自分達の内の誰かが傷付いたと報告が有ったら。古泉は駆け出しただろう。駆け出した所で遅過ぎると知りながら。
其の報告だけは幸運にも未だ無いのが、救いだった。
「如何か……死なないで下さい、皆さん」
彼には、無垢な修道女の様に祈る事しか出来ない。

窓の向こうでは幾つもの火の手が上がっていた。味方が上げたものか、敵が放ったものかは分からない。石造りの街は火事で打撃を受ける事は無かったが、しかし、其の煙の下で自分の仲間が戦っているのは容易に想像が付く。
廊下から慌しい足音が聞こえた。間を置かず伝令役の兵士が室内に走り込んで来る。
古泉は再度地図に眼を落とすと、彼の報告を待った。
此処が、自分の戦場だ。そう言い聞かせた。剣も矢も見えずとも。土埃や血煙とは無縁でも。其れでもこの地図の上では人が命を削っている。
「だ、第五防衛拠点、崩壊ッ!!」
紫の返り血に鎧を染めた兵士が息を切らして叫ぶ。古泉は私情を努めて断ち切ると、其の静かな戦いを再開した。
強く噛みすぎた下唇から、赤い液体が滴って地図に落ちる。

「日が落ちるまでの辛抱にょろッ! さぁッ、動けるんならあたしに続くっさァッ!!」
少女は大斧を振り下ろし、自身の三倍は有ろう魔獣の腹を抉り取った。一拍遅れて切り口から血が飛んだが、其れが眼に入るのも構わずに跳躍する。
倒れ込む魔獣を踏み台に、鶴屋は駆けた。一度だけ目叩きをして視界を取り戻すと、開いて直ぐに其の眼に映り込んだ獣へと雄叫びを挙げる。
顔を拭う事さえ出来ない、息吐く暇の無い戦場。其の渦中に少女は居た。
「絶望は見ない! 前を向く! あたし達が流す血溜りは沼さッ! 越えられれば抵抗も出来ない人達が犠牲になる!」
斧を振り翳すよりも接敵の方が早く、又、相手の攻撃モーションの方が早い。
しかし、少女は足を止めなかった。否、止める事が許されてはいなかった。自分の救援を待っている人達が居る。一秒でも早く、自分は此処での仕事を終えて次の場所へ向かわなければならない。
立ち止まってなど、いられない。
「ならば、どれだけ血を流しても立ち上がるのが男の子ってヤツだよッ! そうっしょッ!?」
獣が小さな身体に向かって爪を伸ばす。其の爪は硬質の何かに防がれた。
大斧。其の刃の腹を持って受け止められたのだと、其れの本能が気付いた時には其の頭は上から砕かれていた。
鶴屋は生温い肉の中から血だらけの腕を引き抜くと、吼えた。粉砕した頭蓋骨の欠片に引っ掛けたのだろう、右腕から痛みが走る。しかし、彼女は少し顔を顰めただけで立ち止まる事だけは決してしようとはしなかった。
「立ち上がるっさッ! あたし達は盾にして剣ッ! 汚れれば汚れる程、誰かが助けられる事があたし達の誇りじゃないのかいッ!?」

「じょ……ジョウネ=ツォモ=テアマスッ!!」
朝比奈の掌から炎が放たれる。真赤な熱のカタマリが瞬く間に二匹の獣を懐中に掻き抱いた。生き物が焦げる臭いと、断末魔。
喉の奥から来る饐えた胃液を飲み下し、少女は自分が殺した生き物を見る。
「朝比奈みくる……前に出過ぎ。貴女はもう少し後ろに下がるべき」
何時の間にか隣に来ていた銀髪の少女が囁くように言った。朝比奈は首を振る。
「もう少しだけですから、私にも戦わせて下さい」
長門は数秒、少女と視線を通わせる。そして「そう」とだけ言った。制止の言葉は二度と出て来なかった。
陽が落ちようとしている。猫人の少女が赤いのは、しかし陽の光だけではない。
服はぼろぼろで、隙間から覗くのは肌の白ではなく血の赤ばかり。
其れだけ見ても、友人がどれだけ痛ましい戦いをしてきたのかが朝比奈の眼に浮かんだ。尻尾の先が千切れているのも見え、そして其れをまるで意に介していない少女の強さを羨ましく、痛く思った。
「私が前衛。貴女は後衛。本来彼がやると考えられるサポートを、貴女にはお願いする」
「任せて下さい!」
少女が誰より信頼しているであろう少年の、一時的とは言え代わりを任された事が、朝比奈みくるには嬉しかった。
自分でも、逃げなければ誰かの役に立てる。其の事を支えに、少女はまた戦場を睨み付けた。

日が落ちて間も無く、戦場の沈静化を報告する兵士が次々に執務室へと雪崩れ込んだ。古泉は息を吐く。自分の仲間に何か有ったという報告は最後まで聞こえては来なかった。其れは安堵の溜息だった。
「やり切った、という事なんでしょうね」
古泉は後の処理を守備隊長に任すと、自らの仲間を労いに夜の街へ出た。

進む程に街の景色が変わっていく。壁に残された爪痕、家の屋根に残された侭の矢など、其れはどれも戦いの激しさを物語っていた。

「何やってるっさ、古泉クン?」
後ろからの声に振り返る。トレードマークの大斧を持たない鶴屋が其処には居た。
「嗚呼、皆さんが無事か如何か……居ても立ってもいられなくなりまして、ね」
携えた松明の明かりに、近付いて来た少女の姿が浮かび上がる。美しい緑髪も、其れと揃いの色をした鎧も、今や見る影も無くなっていた。
古泉は数秒絶句し、そして頭を下げた。
「すいません」
「……なんで古泉クンが謝るのかな?」
「僕一人のうのうと、安全な場所で……本来女性を守るのは男の役目だと言うのに……」
眼に涙が浮かんできそうになる。少年は目を閉じて其の衝動を堪えた。泣いてはならない。自分は泣く事など許されてはいない。
何時もならば、そんな衝動は容易くやり過ごす事が出来た。元々自分は感情に薄く、又、機関の訓練では感情の操作を叩き込まれていたからだ。
なのに、今回は勝手が違った。理由は簡単。
其れが大切に思う者の生死に直結する事だったから。
「顔を上げなよ」
鶴屋は笑った。少年の背をドンと叩く。
「古泉クンが居なかったらもっと沢山の人が死んでた。あたし達だって如何なってたか分からない。君は自分が思っているよりもぜ〜んぜん凄い事をやってのけたんだよっ!」
顔を上げる。感情を飲み込み、引き攣る頬の上に如何にかこうにか微笑みを作る。
「だから、胸を張るっさ!」
古泉が懐から取り出した布切れで顔を拭った少女は、心の底からそう思っているのが誰の眼にも分かる、裏表の無い顔で再度笑った。

「ご無事でしたか!」
元は石壁だった瓦礫を踏み越えた先で少女が三人集まっているのを確認した古泉は、安堵から足を踏み外しそうになった。
「無事って訳でもないけど、皆、命に別状は無い感じかな」
朝倉が言う。朝比奈の膝枕で眼を瞑る長門は、治療を受けている真っ最中だった。
「長門さんの傷も治癒範囲内で済んでます」
「そうですか……其れは何よりです。皆さん、ご苦労様でした」
少年は担いできた袋を地面に置いた。松明を適当な場所に突き刺す。
「ご飯、持って来ましたんで、夕食にしましょう」

静かな、食事だった。誰しもが理解していた。明日は明朝から戦闘が始まる事を。今日は偶々(タマタマ)自分達に死人が出る事は無かった。しかし、明日は如何なるか分からない。
昼過ぎから始まった今日でさえギリギリだったのだ。明日はもっと酷い。
命の保障は、無い。
「僕は、全軍撤退も視野に入れています」
古泉が干し肉を齧りながらポツリと零した。朝比奈が驚いて悲鳴にも似た声を上げる。否定意見が出る事は覚悟の上での発言だった。
「指揮官として考えた結果です。今日の二倍の時間を稼ぐ事が、出来るとは思えない。最悪、全滅しかねません」
そして、自分には「理想の為に死ね」と言えない。甘いなと自嘲するも、其の感傷は撤回出来無そうだった。
「彼が、未だ」
何時の間にか長門が眼を開けていた。古泉は其の真っ直ぐな視線を受け止める事が出来なくて、眼を背けた。
「長門さんの言う通り。彼の帰る場所を守る。其れが僕達の一番の目的です」
「きょ……キョン君は必ず帰ってきますっ! 私達が諦めたら……キョン君、帰る場所が無くなっちゃうじゃないですか!」
朝比奈が涙を浮かべた。まるで自分の代わりに泣いてくれているみたいだ、と古泉は思う。ならば、少女が泣いている分も自分は非情にならなければならない。
「キョン君が帰って来る事に関して疑問を抱いている訳ではありません。僕が言いたいのは、其の前に誰かを失っては本末転倒だという事です」
古泉は一つ深呼吸をして覚悟を決めると、自分を見つめる四対八つの眼を見据えた。
「情けない話ですが、僕には明日を誰も欠けさせずに乗り越える自信が無いんです」
もしも自分が「彼」ならば、違っていたかも知れない。きっと乗り越えて見せただろうと、そう思う。けれど、自分は「彼」ではない。
無力感に、悔しさに、吐きそうだった。
「今日ですら、奇跡と言っても決して言い過ぎではありませんでした」
深い沈黙が場を支配する。松明が風に吹かれて、五人の影を揺らした。
「……生きてさえいれば、キョン君には会えま……」
「静かに」
長門が少年の声を遮った。立ち上がって、頭上の耳を立ち上げる。闇の中から響く音を漏らさず拾おうとしているのが、其の場に居た全員に分かった。
朝倉が息を呑む。
「真逆……新手!?」
腰から外して有った剣の鞘を握る。古泉は反射的に矢を番(ツガ)え、長門がじっと見つめる闇の向こうに狙いを定めた。
程なく、五人の見つめる先から聞き覚えの有る甲高い少女の声がした。

「嗚呼、もうっ! 其処ら中瓦礫だらけで歩き難いったらありゃしないわっ! あ、また何か踏んだっ! 本当にこんな所に居る訳!? 居なかったらぶん殴るわよっ!?」

「え……之って……?」
朝比奈が呆けて言葉を失う。少女の言葉を長門が補足した。
「涼宮ハルヒ」
古泉が注意を促そうとする、其の前にもう一つの声が聞こえた。

「多分な。ってか、別に強要してないんだから何時でも帰ってくれて良いんだぞ、ハルヒ?」

駆け出したのは一体誰が最初だっただろう。
地面に刺した松明を引っこ抜いて古泉が遅れて駆け寄った時には、少年は朝比奈と朝倉の両名によって左右から地面に倒されていた。
「……感動の再会かタックルか、どちらか一方にして頂けると助かるんですがね……」
そんな事を口走る少年の胸に涙が零れ落ちて。バツが悪そうに顔を歪ませる彼に向け、古泉は手を差し出した。

「一足遅かったですね。見せ場は終わってしまいましたよ?」
「開口一番何だよ、其れ。……あー、なんだ。遅くなったな。悪い」
涙は要らない。微笑みは自然と浮かんでいた。
正義の味方は少し遅れてやって来るものだと、誰かが言っていたのを古泉は思い出した。

「いいえ。……お帰りなさい、マイヒーロー」

「ただいま」


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