見えない傷
焦点の合わなかった虎太郎の瞳が、上から押さえつける龍成の視線と合った。
あらがう力がスーッと抜け落ち、ゼイゼイ鳴る喉から出ていた声も治まり、口をパクパク動かしているが叫びすぎてかすれた喉からは声が出ないようだった。
落ち着き始めた様子の虎太郎は数度瞬きをして、今度は本当に龍成が目の前に居ることを自覚することができた。



「・・・りう・・・せ」
「俺だ、分かるか」

「ん・・・・・・」




ああ・・・またあの夢を見たんだ。




額に浮かぶ汗を拭き取ってくれる龍成の腕に、紅い線がいくつもついている。それは自分が掻きむしって付けた傷だと分かっているので、またパニックになったことを知った。突発的に起こる衝動を抑えることのできない自分が怖かったし、毎回のように龍成を傷つける自分も嫌だった。

「ごめ・・・おれ・・・また」
「気にするな。そのうち夢も見なくなる」



額に張り付いた前髪を掻き分けようと、頭上に伸びた龍成の手が顔に触れた瞬間!!

「っ・・・」

その手の感触に怯えビクッと全身をこわばらせた。唇をきつく引き結び、くぐもった声がのどの奥で鳴る。


自分の怯えたしぐさに龍成の手が退いた。


体に触れられるのが怖い・・・・・・・・・そう感じるときがある。
触れられて大丈夫なときと、今みたいにびくついて拒絶してしまうときがあり、自分でそれを制御することが出来なくなっていた。




それは心に負った見えない傷。




「ご、ごめん」
「いや・・・・・・すまん」
「りゅ・・・せは、悪く・・・ない。・・・おかしのは・・・・俺だから」



見えない傷と必死に戦おうとする虎太郎。
心に残る痛みと恐怖。
覚醒時にはパニック障害、そして日常では身体的な接触障害が見受けられ、それは軽度ではあるが発作を予測することは不可能だった。
暴行が残した精神的な後遺症は、どんなに龍成が傍にいてもすぐには治すことができない。長い時間と自分自身がその恐怖を乗り越えることしか打ち勝つ方法は無い。
あんな目にあったんだから気持ちが落ち着かないのは当然だと、亀山先生もそう言った。だから虎太郎自身も、しばらくはこんな自分に悩みながらも嫌なことは早く忘れようと、努力しようと自分に言い聞かせてきた。いつか忘れられるはずだから。


虎太郎の心に落ちた深い見えない傷は、同じように龍成や周りの人の心にも暗い影を落とした。






まだ蒸し暑さが残る八月下旬。

ようやく1人で動き回れるようになった虎太郎は、山城邸の縁側に座ってボーッと庭の芝生を眺めていた。
静かな夕暮れ時。
秋を告げる虫の声だけが耳にうるさく聞こえる。しっとりと汗ばむ肌に不快感を覚えて、暮れていく赤い夕日をじっと見つめていた。



「ちょいといいか」
「わっ!」

足音も立てずに急に聞こえた声に驚き声がしたほうを見ると、そこには亀山先生がタバコを咥えて立っていた。

「すまんすまん。驚かせてしまったか」
「あ・・・・いえ」

正直びっくりした。足音なんて全然しなかったし。だいたいこの家の人は気配を殺して人に近づいてくる人が多くて困る。今の自分にはそれが少しきつかった。できれば今から傍に行きますよ〜と足音を立ててやってきてほしい。




「体調はどうじゃ。まだ、夢を見るか」

俺の横に座った先生は、庭の景色を見ながらタバコの灰を地面に落としてまた咥えた。先生はタバコの吸いすぎじゃないかな。お医者さんなのに変なの・・・
何も答えず先生の吐き出すタバコの煙をじっと見ていると、その様子を怪訝に思った先生はタバコを縁側の端に擦りつけポイと庭に捨てた。


「あ・・・・」


落ちていくタバコを見て知らず知らずに声が漏れた。漂っていた煙が消えて、目で追っていた煙の灰色の筋が無くなってしまって、そこで初めて先生と目が合った。

「虎太郎・・・」
「・・・・・・・・あ、・・・はい」
「お前さん、大丈夫か?」
「え?あ、ああ・・・・・・なんか、ぼーっとしてて・・・でも・・・大丈夫です」

気が付くと今みたいに一点を見つめていることが多い。それは龍成にも指摘された。
ときどき話の途中で意識が遠くに行って、相手が何をしゃべっているのか分からなくなる。今はタバコの煙に気を取られていた。自分は気づかないけれど、話している相手からしてみれば瞬きもせずに一点をじっとみている様子が異様に感じるらしい。たしかに言われて見ればおかしいんだけど、自分では気が付かないからやめようが無い。それにぼーっとしているときは気持ちが安らぐ。だって何も考えていないから。
これは多分現実逃避。
嫌な事や、考えなければならないこと・・・そんなものを全部どこかに捨て去って何もせずに何も考えないでいたかった。



「まだ、夢は見るか」

「最近は、ここ3日は見ていません」


悪夢を見る回数は日を追うごとに少なくなってきている。2日見ないで次の日に見たり、3日置いてその後見たりと、少しずつその間隔は伸びてきている。それに前みたいに誰かに起こされないと目覚めないような事も無く、自然と悪夢から目が覚めて自分で呼吸を整える事もできるようになってきた。少しずつだがよくなってきているんじゃないかと・・・そう思いたかった。

「まあ、時間が解決してくれる。焦ったからといって治せるものではないからなあ」

「はい・・・分かっています」




「後1週間で学校に戻るんじゃろう」

「はい」

先生は胸ポケットのタバコを探り、トントンと叩きタバコを出した。虎太郎はまたその動きを目で追ってしまう。それに気付いた先生はタバコを咥えて火をつけようとしたところで・・・・やめた。


「あ・・・」


俺の目がまた瞬きもせず一連の動きを追っているのに気づいた先生はタバコを箱にねじこんだ。
時が止まったみたいに視線も思考も止まっていた。自分にとってはそれは心が落ち着く楽な時間だったのに。それを急に断ち切られたような感じがして、がっかりすると同時にそわそわして落ち着かない不安感が胸に沸き上がって来た。
他人から見ればおかしな俺の行動も、今は自分の心を落ち着かせる1つの手段となっていると言うのに。


「・・・俺、やっぱりまだ・・・おかしいのかな・・・」


こんな事で学校に戻れるのだろうか。

多分今みたいに何かにとらわれていないと、思い出したくも無い嫌なことを考えてしまうから、無意識に自分の意識を飛ばしてしまうんだと思う。立ち向かわないといけないのに、目を背けても逃げても駄目なのに。頭では分かっていても心は楽な方に逃避してしまう。

「大丈夫じゃよ。そうやって少しずつ、取り戻していけばいい。無理はするもんじゃない」

「せんせ・・・」
「うん?」

先生が言うように少しずつでいいから以前の自分に、普通の自分に戻りたかった。際限なく痛めつけられてレイプまでされかけて、生きてきた中であんな恐怖は今までに無かった。たくさんの人間に物みたいに扱われて、龍成達の助けが無かったら死んでいたかもしれない。それにもし本当にレイプされていたらこんなものじゃ済まなかっただろう。
そう思うと、助けられた自分はまだましな方だ。だからこんな事くらいに負けちゃ駄目だと頭では思うのに、未だに夢を見る事に怯え触れられる事にも嫌悪を感じる事があって、そんな自分の弱さに毎日嫌気がさす。

「分かってるんです。逃げてばかりじゃ駄目だって。でも・・・・どうしてもダメなときがあって・・・・俺やっぱり、駄目なんじゃないかって・・・」
「そうじゃな・・・だが、虎太郎。お前さん1人じゃなかろう?」

意地らしいほど自分自身を取り戻そうとあがく虎太郎は、亀山医師の目には水中で溺れもがき苦しむ虫のように見えた。もがけばもがくほど暗い水の底に落ちていく。しかし何もしないでいても結局はそのまま溺れてしまう。
今は何をしても苦しむだけ。でもその苦しみを乗り越えなければ以前の自分には戻れない。

「若も、椎神もおる。1人で悩むとろくな事を考えんもんじゃよ」
「・・・・・・」

「そのうち傷も癒える、お前さんには仲間もおる。あまりいろいろとしょい込むな」




(今は苦しむほかない)



それはあまりにもつらい言葉なので言えない。
時が傷を癒すまで虎太郎は耐え、周りの者達は見守る。ただそれを待つしかなかった。




次回・・・「花火散る(1)」

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