死神
嗜虐の時から解放され、意識が戻るまでどれだけの時間が経ったのだろう。
全身が倦怠感に苛まれ、体が布団に沈みこむような錯覚に捕われている中で、意識が深淵から浮上する。
重い瞼を開けると同時に四肢の感覚も甦り、体のいたる所がジグジグと急激に痛みを発した。
「っ、てぇ・・・」
痛みにかすれた声を漏らすと、覚醒した虎太郎は誰かが自分の傍に居る気配を感じた。
痛くて首を動かすのもままならず視線だけを横に向けると、そこには座して虎太郎を見下ろす怜悧な顔があった。
薄暗く静まり返った部屋に浮かぶその顔は・・・
(ああ、・・・こいつは・・・)
(―――――――――― しにがみ だ。)
死者を迎えに訪れた死の使いを、虎太郎は知っていた。
死神は力なく横たわる虎太郎と視線が合うと、無表情だった顔を少し緩ませ、口元に柔らかい弧を描いた。
「よかったです、目覚めて。 ・・・綾瀬 虎太郎」
「し、い・・・がみ」
(なんで椎神がいるんだ!)
11年前と変わらぬ麗容なその面持ちで、虎太郎の名を呼んだ椎神(しいがみ)に驚き起き上ろうとしが、体は本人の意に反して少しだけしか起き上がらず、手を差し伸べて来た椎神に体を支えられてしまった。
「ぃ、っう・・」
背中と腕に椎神の冷たいスーツの感触がダイレクトに伝わる。
虎太郎は未だに裸のままであった。
腹と下肢の部分に布らしき何かを掛けられているだけの状態で、布団の上に横たわっていた。
「・・・昔みたいにコータって、呼んでもいいですか?」
「!」
「いいですよね、コータ」
その呼び方は苦しい過去の思い出を彷彿させる。
「コータ」と親しげに呼ぶこの男がどれだけ自分に屈辱を与え、多くの物を奪ったのかを虎太郎は忘れてはいない。虎太郎は返事もせず顔をそむけ、当然のように体に触れている椎神から離れようと体を捻った。
「うっ・・!」
「無理をしないでコータ。・・・傷にひびく」
1人では起き上がることさえできない虎太郎を、傷ついた体を労りながら背中を支えて抱き起こす。布団に上半身を起こすと、ズルリと体から横に滑り落ちた黒い布地を椎神は手に取り、衣服を身につけていない虎太郎の体の中心を隠すように再び掛け直した。
黒い布地と思っていた物はスーツだった。仕立ての良い重みのある厚手の生地で、肌触りはとてもいいものであったが・・・。
(これ・・・上着)
椎神はジャケットを羽織っているし、もちろん自分の物でもない。ではこの上着は・・・。
虎太郎はスーツに触れた手をビクリと止めてはっとした。
(これって、りゅ、せ・・の・・・!!)
「っ・・・!」
掛けられていたスーツの正体に、龍成によって与えられた凌辱の記憶がまざまざと甦った。
(そうだ・・・俺は、俺はあいつに!)
狼狽した目に映るのは、裸体に残る無数の傷痕。
右足の先は渇いた血がベッタリとこびり付き、シーツのあちらこちらに鉄色に変色して乾ききった血痕が染みついていた。
血まみれのシーツに、流した血量と傷の深さを思い知る。
自分の、このあまりの惨状に体が震え血の気が下がる。
痛む両腕で自分の体を掻きむしるように抱きしめ、絶望に打ちひしがれた。
「痛かったですね・・・・コータ」
椎神は震える虎太郎を、傷が痛まないように優しく抱き、小さい子供をあやすように言った。
「もう、若は・・・・・龍成はいませんから、落ち着いて」
(獣が・・・いないって・・・本当に・・・?)
やっと・・・解放されたのか。
あの、野獣から・・・
あの・・・地獄のような時間から。
やっと・・・
それは真実の解放でないことくらい虎太郎には分かっていたが、傷ついたこの体で今また目の前に獣が現れたら、それこそ地獄の続きが始まる。
獣は先刻蹂躙し尽したはずの獲物を、再び嬉々として手にかけることだろう。
「もっ、お・・・俺」
(帰りたい!)
(ここから早く逃げたい!!)
「かえ・・・・る」
抱き寄せる椎神の腕を押しのけ、布団に手をついて立ち上がろうと試みるが、よろけてまた椎神の腕の中に体が落ちた。
「無理ですコータ。それにこの怪我じゃ・・・・ご両親が不審に思うでしょ」
(・・・お前達が・・・・お前達がやったくせに何を今更!)
虎太郎は怒りに眉を吊り上げ椎神を睨みつけたが、椎神は怯むこともなく平然とし怒る虎太郎に笑顔さえ向けている。そんな椎神は頭に来るが、確かに今の状態は家に帰ることをためらわせるものがあった。
配達に来ただけなのにこんな動けないボロボロの体で帰ったら、何があったのか問い詰められるに違いない。衣服で隠せない口と首の噛み傷、そして拘束された手首の傷は、転んだでは通用しないだろう。それに右足の傷・・・これは医者に行かないと治りそうにない。
「医者を呼んでありますから、治療を受けてください」
首は襟の高い服を着れば隠せるし、手首も袖の長いシャツを準備してくれると椎神が言うので、家に帰してくれる気はあるのだと分かり少し安堵した。このまま以前のように監禁されるのではないかと、虎太郎は恐れていたのだ。唇の腫れと足の傷は何か適当な怪我の理由を考えておくと、こともなげに椎神は言った。
―――――― 昔と同じ。
こうやって椎神は何事もなかったように龍成の暴力を肯定し、後始末を施す。
何もかも計画的で、用意周到で抜かりが無い。
優しそうな顔の下に、龍成と同じ残忍な性を隠し持っているのに。
麗質な外面や巧みな言葉に騙されて、周りの人間は嗜虐される虎太郎に気づかない。
虎太郎が心の中でどんなに助けを求めても、誰にも届かない。
こんな行為を受けて、しかも溺れてよがる自分がいるなんて・・・・・口が裂けても誰にも言えることではなかった。
「治療、受けてくださいね」
「・・・・・・・・・分かった」
返事を聞いた椎神は虎太郎の体からゆっくり腕を放し、布団の横に座り直して乱れた虎太郎の長い前髪を自然な手つきで撫で上げた。
「かわいい顔が台無しですよ。前髪・・・あとで切ってあげましょうか」
(こんな奴に、髪の毛の1本だって触られたくない!)
口を聞くのも嫌だった虎太郎は、眉をしかめて言葉少なくボソリと言った。
「・・・医者。・・・・・・・・早く呼べ」
「はいはい。相変わらず嫌われていますね。コータのこと、私はこんなに好きなのに」
ふざけてちゃかすのは椎神の十八番。人の嫌がることしか言わない。こんな奴にいつまでも付き合っている義理などない。服を要求して今すぐにでも帰りたいが痛くてろくに動けもしない体だ。医者に見せるしか帰る方法はないようなので、仕方なく了承して催促までした。そんな虎太郎に椎神は上機嫌で笑いながら言った。
「じゃあ、その前に・・・」
椎神は立ち上がり、ポケットから何か白い物を取り出す。
それを広げギュッと手に装着するのを見て、虎太郎は目を見開いた。
(そ・・・それって・・・・・・・まさか!!)
虎太郎は見覚えのあるソレに顔を引きつらせ、体を強張らせた。
(・・・や・・やだ。あれ・・・は・・・・・・・・・・・・・・いや・・・だ)
右手にビニル樹脂のゴム手袋をピッタリと装着し終えると、小さなチューブをポケットから取り出し、虎太郎を見つめて椎神は楽しげに言い放った。
「さあ、膝をついて・・・・・・・脚を開きなさい」
椎神の目が薄っすらと細められ、恐れ震える虎太郎をうっとりと恍惚のまなざしで見つめる。
「きれいにしてあげるよ。コータ」
死神の冷笑を含んだ狂喜の言葉が、虎太郎の鼓膜に落ちた。
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