蒼谷騒然(1)


冷房が効く閉め切った教室の中にまで、うるさく鳴きわめく蝉の声が聞こえてきそうな7月初旬。テストも終わり夏休みまであと2週間余りだと思うと、自然と気持ちは弾み気も緩んでくる。手の包帯も随分前に解け、かさぶたの後もなくなり白く新しい皮膚が薄く張り付いたようになった左手はほぼ完治していた。

夏の予定に心を馳せて自分達の計画を語り合う、そんなのんきな昼休みだった。




「芝ピィィィー!ろ、廊下で・・・き、き、京極が呼んでる!」
「何だって!」

先に反応したのは千加で、その声にクラス中の目が一斉に廊下に向けられた。視線の先にはポケットに手を突っ込んで壁に寄りかかり、すでに虎太郎をロックオンした京極龍成の姿がそこにあった。


(めっ・・・・目を合わせたら・・・・殺られる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)


虎太郎と話をしていた芝ピー友の会の面々は、そのあまりの禍々しい目つきに「ひぃ!」と声を上げ一瞬で目を逸らした。

「おい、綾瀬っ!何だあの京極の目つきは。お前達まだ仲直りしてなかったのかよ!」
「え、いや・・その」

「悪いことは言わねえから、早く謝りに行けって!あんなに仲よかったんだから、芝ピーなら京極だって許すって」
「何でこたろーが謝らなきゃいけないのさ、悪いのは極悪ツインズの方なんだよ!」

「遠野だって目ぇ付けられてんだからな。お前も一緒に詫び入れた方がいいって」
「冗談じゃないよ、なんで僕があいつらな・・」

クラスメイトが虎太郎と千加の身の危険を案じている最中、教室の後ろの扉がバンと大きな音を立ててスライドした。もう2週間はまともに顔を合わせていない龍成が、痺れを切らしたのか教室のドアをブチ開けて入って来のだ。
水を打ったように静まり返った教室には、冷房のゴーという排出音だけが際立って聞こえる。




「タロ、面かせ」




地を這うような重苦しい声に、教室はピシッと凍った。暑さなど忘れて背筋には冷や汗が流れ落ちる。

「こ、こたろーはきっ、京極と話すことなんかないんだからね。出てってよ」
「うるせえサル。用があるのは犬だけだ。来ねえってんならここで躾てやってもいいんだぜ」


(躾けるって・・・まさか)


龍成の眼は不気味な笑みを湛えていた。他の者には凶悪に見えるその眼が虎太郎には違った色を湛えて見えてしまうのは、龍成を警戒しているからだ。
人目があるのに、果たしてそんな妙な暴挙に出るだろうか。躾けるなんてただのはったりじゃないだろうか。
無視しようかと思ったが龍成ならTPOなんて考えずに何をやらかしてもおかしくないと感じた虎太郎は、迷った挙句閉ざしていた重い口を開いた。




「何の・・・用だよ」

久しぶりに龍成に向かって開いた口はうまく動かず、声は喉にひっかかったようなかすれた声だった。


「付いて来い。1人が怖えなら、サルも連れて来たって構わねえ」


皆が見ている前で「怖いなら」などとバカにされた虎太郎は、恐怖に負けまいと威勢よくガタンと音を立てて椅子から立ち上がり、先に出て行った龍成の背中を睨みつけながら後を追った。



「ぼ、僕も行くよ!待ってこたろー」

京極が無駄に放つ圧力にしばらく動けなかった千加は、はたと正気に戻り慌てて後を追った。千加が出て行くと、教室は再び沈黙した。








人の行き来が激しい靴箱前のエントランスホール。ここなら何が起こっても助けを求めることができる。通り過ぎる生徒たちが、何事かとチラチラ2人を伺う。いつもなら人目を避けるが、今回は他人が注視する今の現状に虎太郎は内心ホッとしていた。
龍成は壁に寄りかかって虎太郎に振り向き、さっきと同じように鋭い目で睨みを利かせている。しばらくそうして不遜な視線を受けていると、見飽きたのかようやく龍成が口を開いた。




「タロ、てめえどういうつもりだ」


ギロリと見つめる冷たい目には不機嫌極まりないといった感情が読み取れる。しかし自らは関わらないと決めた虎太郎は、黙ったままその場に立ち尽くすことで、自分は話す意思がないことを態度で明らかにした。

「だんまりかよ、昔みてえに・・・・・・噛みついたらしゃべりだすかもしれねえな」



――― 噛む!



薄笑いを浮かべたかと思うと寄りかかっていた壁からグッと体を起こし、虎太郎に一歩近づいて来た。それだけで空気がざわりと揺れ動く。相手を威圧するオーラを背負う龍成を目の前にして、知らず知らず虎太郎は後ろに一歩後退していた。

「呼んでも来ねえしな、俺は飼い主のはずなんだが。一体何が不満なんだ?」
「・・・」

「怖いくせして平気で噛みつきやがる、かわいがってやったツケがこれかよ」

「怖くなんか・・・ない」

言い返してしまった自分にしまった!と思ったが、どうもこいつらにバカにされると自分はカチンと来てしまう。椎神達は虎太郎の微少なプライドが傷つく部分を知り尽くした上で、効果的にそこをくすぐって遊ぶのだ。

「そうか?声が震えてるぞ。顔色も悪い。どうせろくなもん食ってねえんだろう」

餌を与えていた飼い主としては、逃げた犬の食生活が気になるとでもいうようないい方に、反抗心がふつふつと生まれて来る。

「怖いならどうして逆らう。大体てめえは、何をそんなに怒ってるんだ」
「お前だってどうせグルなんだろう!」

「何がだ?」
「とぼけんなよ!」

半袖のカッターシャツから延びる日に焼けた太い剛腕を、胸の前で組んでゆったりと構える龍成は、不機嫌に眉をひそめて興味なさ気に答えた。

「ああ、女の事か。ありゃぁ椎神が勝手にやったことだ。俺は関係ねえし他人の女には興味もねえ」

やっぱり龍成も知っていたんだ。佐藤さんの事を。自分が必死になって隠していたことを、何もかも知られていることに虎太郎は焦りを隠せなかった。そして龍成は続けてショッキングな言葉を表情も変えずに虎太郎に与える。



「てめえが女とセックスしようが何しようが、そんなことはどうでもいい」

「なっ・・・」



飛び出した慣れない性的なセリフに言葉が詰まり、羞恥からかじっと見つめる無遠慮な視線から慌てて目をそらす。彼女とは手を繋ぐことが精いっぱいな虎太郎は、美里のことでそこまでふしだらなことを想像したことが無いだけに、龍成の言葉があまりにも汚いものに思えてしまって慄いた。

「タロがやりてえことを好きにすればいい。ただし・・・」

その言葉の先が気になって下からゆっくり視線を引き上げると、射るような鋭い視線とかち合ってしまい目を離すことができなくなった。そして蛇に睨まれた蛙のように固まった虎太郎に、龍成は専制者のように憮然な態度で言った。


「俺が呼んだら何を置いてもすぐに来い。それができねえってんなら、犬のてめえに自由を与えるつもりはねえ」

あくまでも龍成は虎太郎を下僕として扱う態度を変えようとはしない。自分の思うままに動かない犬が気に入らず、力で屈服させようとする強者にありがちな奢った態度だった。

「何勝手な事言ってんだよ・・・お前達とはもう、関係ないんだからな。あのときそう言っただろ」

「本気でそんなこと言ってんのか?」

「あ、当たり前だ。お前はもう友達じゃない。だから金輪際俺に構わないでくれ」

その言葉にはいろいろな意味合いが含まれていた。友達としても、美里の事も、そして、あのことも・・・
長年共に過ごしてきた奴らをこんなにも簡単に切り捨てようとする自分は、他人から見れば情の薄い人間だと罵られるかもしれない。でも、こいつらはそれなりの事を自分に強いてきた。そして自分だけならともかく、大事な人にまで危険が及ぶかもしれないと思うと、どちらを取るかなんて考えなくても分かることだ。
俺は美里さんと一緒に居たい。こんな奴らのいいなりになんかなりたくない。こいつらが付きまとう限り自分に本当の自由は訪れない。だからこれで終わりだと、言い切ったのだ。逆らったことのない龍成に。震えながら、怯えながらも・・・怖くても気持ちで負けるわけにはいけない。
美里を守ると決めたのだから。




ゆらり・・・と黒い眼が揺れたかと思うと、口角を引きあげた兇悪な顔で龍成が口を開いた。



「そうか。そこまで言うなら仕方ねえか。なあ、タロ。その女、そんなに具合がいいのか?一度拝ませてもらいてえなぁ。今度会わせろや」
「汚い言い方するなよ!誰がお前なんかに・・・あの子に近づいたら、お前だって許さない!」

「ほう。どう許さねえって言うんだ?その震える声で、拳で、てめえに何ができる。随分でかい口叩くじゃねえか」

ジリジリと距離を縮めて来る龍成が美里との関係を揶揄するたびに、大切にしているきれいなものを穢されていくような気がしてならない。不快な言葉ばかりが耳に残り、自分や彼女の事を貶める台詞を聞かせるために呼び出したのかと思うと、龍成も椎神となんら変わらない、初めて掴んだ幸せを脅かす存在でしかなことをただ思い知るだけの辛い時間だった。


「口では何とでも言えるからな。それが本気なら、今ここで証明して見せろ。それができたらてめえが望むように・・・手放してやるよ。できればの話だがな」

「証明って、何を・・・だよ」



「そうだな・・・」


ニヤリと笑うその表情は、虎太郎の嫌う意地の悪い顔つきだった。こんなときの龍成はろくな事を言わない。長年の経験で十分過ぎるほどに分かっている。そしてまさに耳を疑うようなセリフを何でもない事のようにさらりと口にした。

「俺の顔面に一発でも喰らわすことができたら今すぐ解放してやる。それくらいできなきゃ、守れねえぜ。大事なものなら・・・なおさらな」

「なっ・・・」

龍成に拳をヒットさせるなんて。そんなこと・・・
歴然とした力の差。結果の分かっている勝負。そんなことまで仕掛けて自分を隷属させたいのだろうか。なぜ、自分なんかにそこまでこだわるのか、自分はそんな大層な人間でもないのに、どこにでもいる普通の人間なのに。

「できねえなら、てめえの本気ってのはその程度のものだってことだ」
「そんなこと・・・」
「無理か?ならあきらめろ。話はこれで終わりだ」

やる気が無いなら用は無いと言った素振りで、龍成は再びポケットに手を突っ込んで虎太郎に背を向けて歩き出した。

「ああ・・・それと、今日は飯食いに来い。無視しやがったら・・・・・・・・サルの前でこの前の続きでもおっぱじめるか?」

「!」



今までなら嫌がらせと称した躾だと思い「またかよ・・・」と文句を言うくらいで済ますことができたが今は事情が違う。それは危険だと警鐘が鳴る。あの車で押し倒されたゾッとする光景が思い出されて、虎太郎の逃げると言う退路を断つ。それにここで逃げたらもしかして美里にも危害が加わるかもしれない。でも負けたら・・・負けたらこいつからは離れられない。





「ま、待てよ・・・・龍成!」



切羽詰まって呼び止めると龍成はゆっくり振り返って、自分を憎らしげに見据えるしつけ損なったペットと視線をかち合わせた。



「やるのか?」

「・・・・・・・・」



虎太郎はゴクリと喉を鳴らしただけで返事はしない。無言。だが、それが返事だった。



勝てるのか?・・・龍成に。
違う・・・勝たなきゃ・・・・・いけないんだ。何が何でも、こいつに一発ブチ込むしか他に方法なんてないんだ。
逡巡する虎太郎を面白そうに見ていた龍成は、虎太郎に決断させるために驚くべき言葉をかけた。




「ハンデをやろう。俺は利き腕と蹴りは使わねえ」

「おま・・・」

虎太郎など左腕一本で十分だと、獲物を狩る眼に隠微な笑みを潜めてわざと煽った。

「舐めんなよ・・・・」
「舐めてるわけじゃねえ、すぐ片がついたらおもしろくねえだろ。こりゃあ楽しむための工夫だ」

「それが舐めてんだよ!」



心がチクチク痛みを訴えると、こんな怖がりで弱い自分にも人並みにプライドや自尊心があることを再確認できた。いつもならそんな自分を卑下して終わるのだが今はその痛みが、チキンな自分を一歩前へ踏み出させるための小さな起爆剤となった。卑怯だと言われても勝たなければ自分に未来は無い。
ハンデがあるはずの勝負にもかかわらず、すでに虎太郎は追い詰められた心境だった。






「来いよ・・・タロ。楽しませろや」






拳を握りしめた虎太郎は、龍成が構える前にその懐に飛び込んだ。

[←][→]

58/72ページ

[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!