不和(1)
「コータ。怪我の具合どう?」
購買部で弁当を買う千加を待っているときだった。あれ以来、顔を合わせてもほぼ無視を通していた椎神が、こちらの都合などお構いなくいつものように声をかけて来た。ご機嫌伺い。今日もそんなものだと思い、顔も見ず適当に返事を返す。
「普通」
「そっけないなあ。私はともかく龍成を無視するのは感心しないね。たまには話してやってよ。ハンガーストライキもいい加減解除しないかなぁ」
(誰がわざわざ餌付けされに行くかよ。それに・・・)
それに自分に妙な感情を向けているかもしれない奴のところに、わざわざ出向いて行くはずもなかった。車での出来事を許してはいない。
会うたびに一貫して不機嫌な態度を取っているのだから、こっちが怒っていることは分かっている癖に、ふざけて茶化しに来るこいつにもいい加減腹が立って来たので、千加が並ぶ列に行って追い払ってもらおうと思いシカトした。
「本当に連れないなぁー。ま、いっか。またね」
もっと絡んでくると思っていたのに、あっさりと手を振って椎神はくるりと背を向けた。
「あ、そうだコータ。あの子・・・佐藤さんて言ったけ?」
「・・・・・・・・え」
ぎょっとして顔を上げた。
椎神の口から突然出た名前に驚いた虎太郎は、去って行く椎神の後ろ姿を凝視した。そんな虎太郎の視線を背中に感じているだろう椎神は、歩みを止めることなくそのままスタスタと去っていく。
「かわいい子だね。あんまりかわいいから・・・ふふっ。ちょっといたずらしちゃった」
少しだけ振り返った椎神は、綺麗な顔に天使のような優しい笑みを浮かべて、衝撃的な言葉を残して行った。
何て言った・・・
椎神は今、何て。
――― かわいいから・・・いたずらしちゃった
何で椎神が佐藤さんの事を知ってるんだ!
あまりの愕きに、雷に打たれたような衝撃を受け虎太郎はその場を動けなかった。
「おまたせーこたろー。ごめんね待たせちゃって。今日いつもより混んでてさ」
「あ・・・・あいつ・・・」
「どしたの?ちょっと、こたろー!」
千加をその場に置いたまま、虎太郎は走り出していた。もう見えなくなった椎神の後を追って。
「椎神!」
食堂前のエントランスでやっと椎神に追いついた。大声で呼びとめた虎太郎に食堂の入口にいた生徒達の視線がいくつか集まる。しかし椎神の言葉に混乱して無我夢中で追いかけてきた虎太郎には、そんなものは目に入らなかった。
「久しぶりにランチでもどう?好きなものをごちそうするよ。コータ最近ちゃんと食べてるかどうか心配してたんですよ」
「どういうことだよ!」
「何が?」
「とぼけんなよ!・・・さっきの、どういう意味だ」
ああ・・・と、わざと思い出す素振りをして椎神は、肩で息をする虎太郎にふんわりと笑いかけその優しい顔とは裏腹な、悪魔のような言葉を楽しげに紡いだ。
「・・・まあ、そうですね。感想としては私の好みのタイプじゃなかったですけどね」
「お前!」
「そんなにムキにならないでよ。ちょっとキスしてみただけ。たいしたことじゃないでしょう」
「なっ・・・!」
キスした?
椎神が。
佐藤さんに・・・・・。
「女ってしたたかだよね。誘ったらすぐにフラフラ付いてくるんだもん。ねえ、あの子本当にコータと付き合ってるの?あ、もしかしてまだキスもしてなかったとか?だったら、悪いことしたかな・・、」
「椎神てめえぇ!」
エントランスに虎太郎の怒声が響き、それと同時に乾いた衝撃音がパーンとその場に鳴り響いた。
「おい遠野っ!」
「はあい?」
虎太郎に置いて行かれた千加は弁当片手に虎太郎を探していたが、大声で呼び止められてのんびり振り返ると、クラスメイトの必死の形相が眼前にあり少したじろいだ。全力疾走で走って来た様子のクラスメイトは、ゼーゼー肩を上下させながら、苦しそうな声で喉を詰まらせ慌てて話を切り出した。
「あ、綾瀬が椎神とやり合ってる!」
「えぇ!何それ、どう言うこと!」
「わかんねぇ、でもエントランス今すげえことになってて、あいつらやめろって言っても聞かなくて」
千加はエントランスに向かって駆け出していた。
目指す場所にはすでに人だかりができていて、ざわつく人垣を掻きわけて前に出ると、虎太郎がそこにいた。
「こたろー!!」
パシーンと乾いた音が千加の耳に届いた。虎太郎が椎神に殴りかかるが、椎神はその拳を手の平で受けては払いのけ、攻撃を簡単にかわしている。拳の衝撃を受ける高い音に、拳を受ける手もそれ相当の痛みを感じているだろうに、椎神の表情は苦痛に歪むどころか、口の端を軽く上げて笑みを作っていた。
「怒ってるの?あんなどこにでもいそうな、つまらない女がいいんだ」
「うるせえ!」
必死にその顔面を狙っていると言うのに、さっきからかすりもしない。椎神は笑いながら軽くステップを踏み踊るように立ち振る舞い、虎太郎の攻撃を払っていなす。まるで遊ばれているようだ。
「飼い主の目を盗んで、恋愛ごっこして楽しい?」
「お前には関係ない!なのに・・・そんなひど、」
「コータはまだ子どもだって思ってたけど、随分色気づいて来たよね。嬉しいよ」
ふふっとバカにしたように笑う椎神が虎太郎の繰り出す拳を受けたかと思うと、即座に手首を掴んで動きを止めた。逃げ回っていた椎神が自分の腕を掴んだので、これなら逆に殴りやすくなったと、虎太郎は包帯を巻いた反対側の手で椎神の頬を狙った。
しかしその手も難なく掴まれ、そのまま壁際に両手ごと押しつけられた。
「そういった感情に目覚めること自体は素晴らしいことだと思うけど、相手はちゃんと選ばないとね」
「そんなの、お前に指図されることじゃねぇ、くそっ、手放せ!」
「飼い犬に手を噛まれるよって忠告したのに、放し飼いなんてするからこういうことになる。私だったら、分かった時点で鎖付けて監禁ものですよ。ほんと、甘やかすのも大概にしてほしいですね」
感情のこもらない声。だがおそらく心の中では怒りがふつふつとわき起こっていることをその言葉から感じる。そんな押し殺したような声で自分をとらえる尊大な男は、綺麗な表情を崩さずに言った。
壁に貼り付けられたように押さえこまれた虎太郎の顔に、鼻の先が触れそうなくらい顔を近づけた椎神の双眸は、先の細いダガーのように虎太郎に突き刺さった。
「コータもさ、いい加減飼われてるって自覚持とうよ」
「俺はそんなんじゃねえって言ってるだろ!」
「ふうん。そういう態度はよくないね。分からないなら躾なおしてあげるよ、今度は私がね」
椎神の細めたダガーが冷たく虎太郎を見据え、その眼に気を取られた刹那、
「ぐわぁっ!」
息が止まり、背中に激しい痛みを感じた。
「こたろーっ!こら椎神、こたろーを放せ!!」
椎神は虎太郎の首を片手で締め上げそのまま壁に背中を叩きつけた。虎太郎は両手で首を掻き椎神の腕を外そうとするが、手の力は強くなる一方だった。ギチギチと締め上げる椎神の手によって気道だけでなく血管も絞められ、そこで血液がせき止められたようにドクドクと体の中で渦巻く音がする。
掴まれた首は血液が溜まり焼かれるように熱いのに、手足の先は血が巡らずチリチリと痺れだんだんと冷たくなっていくのを感じた。
「ぐ・・ぅあ・・・・」
「コータ。最近避けてたのって、怒ってたからだけじゃないでしょう?」
「・・・っ・・・・・ぐあ」
「ねえ・・・・・・・・・龍成のこと。分かってるくせに知らんぷりなんて、あんまりじゃない」
絞め付けられた苦さのあまり椎神の声が遠くに聞こえ出す。その機能しなくなってきた聴覚に、なぜかその言葉だけが飛び込んできた。
――― 龍成のこと・・・・
その言葉が息苦しさを更に増幅していく。認めきれなくて心から追い出していたことをここに来て椎神に突き付けられた。
「嫌なことからはすぐに逃げるよね。コータのそういうとこ・・・・・昔から全然変わってないよ」
「うぐ・・・・あ・・」
首を絞める手に一層力がこもる。そんなに太くもない腕のどこにこんな力があるのか、力を込めた椎神の腕には筋が浮き上がり、骨がギシギシと軋むような音を立てて虎太郎の首を絞めつけた。
「あんまり言うこと聞かないと、本当に首輪付けちゃうよ」
「こたろーを放せ!」
千加は虎太郎の首を絞め付ける椎神の腕に掴みかかろうとしたが、椎神の空いた手が向かって来た千加の胸ぐらを軽く掴み、そのまま乱暴に後ろに放り投げた。
「うわっ、いて!」
「邪魔しないでくれますか?」
「お前、こたろーに何やってんだよ、放せよ!」
痛む尻を擦りながら千加は、未だに虎太郎を苦しめ続ける椎神に声を荒げた。
「君は・・・・・思っていたよりも邪魔ですよ。よくもコータを唆してくれましたね」
「唆すって何だよ!」
「女ですよ。くだらないことをしてくれたものです。こんなに舞い上がって、見ているだけで苛々します」
「・・・なっ・・・・何でお前が・・・」
千加は冷水を浴びたように唇が震えた。どうして椎神はそれを知っているのか、いつからばれていたのだろう。何をどこまで知られているのか、千加は自分を蔑んだように見る椎神の冷めきった眼に慄いた。そして今、なぜ椎神が虎太郎をこんな酷い目に合わせているのかもその言葉で理解した。
「それくらいにしとけ」
ざわつくエントランスに落ちた低い声に、その場が一気に静まり返る。群衆の中からゆっくりとした足並みで現れた威厳と威圧感を漂わせる男は、ここにいなかった最後の三悪、京極龍成だった。
椎神の手が虎太郎の首から離れると、虎太郎は壁に寄りかかったままズルズルと力なくその場に滑り落ち、ゲホゲホと喉を押さえて苦しげに顔を下げて喘いだ。そんな虎太郎を一瞥した龍成は椎神に視線を戻し、淡々と言葉を発した。
「・・・何してやがる」
「心配しなくても、傷ひとつ付けてませんよ。ちょっと話をしていただけです」
「首絞めてか」
「飼い主の代わりに躾を施しました。あんまり聞きわけがないものですから」
椎神のしたことに特に苦言も言わず、龍成はえずく虎太郎に視線を移した。歩幅の広い龍成は数歩でしゃがみこむ虎太郎の元にたどり着き、立ったまま首を押さえむせる虎太郎に手を差し伸べた。
「立て、タロ」
「っ・・・く・・」
虎太郎はガンガンと頭痛がする頭を軽く振って、軽いめまいを覚えながらその眼を開いて自分に影を落とす体の大きな男を仰ぎ見た。
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