幸福
「あ・・・」
梅雨の晴れ間。ベンチに座っている2人は、どこから見ても初々しいカップルだった。
テイクアウトしたドリンクカップのふたにストローを刺そうとした佐藤さん。小さく発した声に視線をやった時は、もうストローは地面にポトリと落ちた後だった。
「貸して」
虎太郎は自分のカップからまだ口を付けていないストローを引き抜き、佐藤さんのカップに突き刺した。
「はい」
「あ、あ・・・・・ありがとうございます」
それだけの事に美里は顔を赤らめる。そしてそれを見た虎太郎も同じように照れて顔を真っ赤にする。似た者同士のこの2人は、付き合ってはいるもののまだ互いに名前を呼び合うわけでもなく、もちろん「好きだ」とも告白し合ったわけでもない。互いの友人が「付き合いは順調だね」と毎日交際をほのめかすものだから、自然と自分達はそういう関係にあるのだと思い込んでしまっている事もあった。
要は、付き合っていると周りから認識されていても、本人たちは友人という域を何も脱していない、かわいいお子ちゃまなお付き合いが続いているのだ。
落したストローは紙袋の中に入れてカップのふたを取り外した虎太郎は、そのまま直に口を付けてゴクゴクと飲んだ。
「コーラ・・・好きなんですか?」
「え、ああ・・」
「いつも飲んでますよね」
「うん。俺コーヒーとか、苦いのだめで・・・」
「わ・・私も・・・苦いの苦手です・・・」
だいぶ話せるようになってきたけど、佐藤さんは相変わらずぎこちない。でも、そんなところにときめいてしまう自分がいる。
「この間の英語の課題・・・ありがとうございます。全部・・・合ってました」
「ほんと?よかった。間違ったこと教えたんじゃないかと思って」
「いいえ、いいえ。そんなことないです。沙紀もすごいって言ってました!英語が得意だなんて尊敬します。私なんて全然だめで」
「あ、実は今日さ、午前中部活で・・・」
俺のことをすごいなんて言ってくれる佐藤さんは薄ら桜色に頬を染めていて、でも目が合うと直ぐにあたふたと視線をそらしてしまう。それは自分も同じなのでこのままではいけないと思っているし、もう少し緊張をほぐしてあげたかった。だがその方法が自分には皆目見当が付かない。気の利いたことも言えないし、どうすればもっと打ち解けてくれるのか、笑ってくれるのか、うまくリードできずにいる自分が男としてかっこ悪いなと思うときもある。千加いはく「慣れるしかないんだ」と言うことなので、なるべくいっぱい話して互いの距離を縮めることに専念した。千加だったらこんな時、上手く話を盛り上げるんだろうな・・・。
今日の出来事を話しながら、部活の話なんかで退屈しないだろうかと心配になりつつ時々相槌を打つ佐藤さんに笑顔を見せると、佐藤さんも恥じらうように笑顔を返してくれる。そのときできるえくぼがかわいくて、そのやわらかそうな淡い桜色の頬にできたくぼみに触れてみたい衝動にかられ、そんなことを考えてしまう自分にドキドキした。部活の話をしながら、心では触ってみたいなどという不純なことを考えてゆでダコになっている自分はバカじゃないだろうか。
少しでも火照った顔を冷却しようと、コーラの氷をガリガリと噛んで煩悩めいた頭を冷やそうと試みた。
「怪我、早く・・・治るといいですね」
「え・・・・・うん。ありがとう・・・」
「あまり・・・怪我しないように・・・、あ、でもケンカは三悪さんだから止めることはできないんですよね」
佐藤さんはこの怪我をケンカが原因だと思っている。説明できない怪我だからそう思ってくれていることは都合がいいんだけど、嘘をついていることが心苦しかった。
「え!いや・・その・・・うん」
「ご、ごめんなさい!私、何も知らないくせに生意気な事言いました・・・」
「ううん・・・う、うれしいから、その・・・そんなふうに、心配してくれて・・・・」
ふと、お互いの目が合った。
パチパチと瞬きする佐藤さんの目はくるんと丸くて、長いまつげが緩やかなカーブを描きかわいらしさを一際際立たせていた。いつもは目が合ったら恥ずかしくて直ぐにそらしてしまうのに、今はその澄んだ瞳に魅せられて目を離す事が出来なくなっていた。
キラキラ優しく輝くその瞳は、今まで見た誰よりも綺麗だと思った。
「もう・・・なるべく、ケンカとかしないようにするから」
「・・・はい」
会話が弾まなくても、いっぱいしゃべらなくてもいいと思えた。今が、この瞬間が嬉しくて楽しくて幸せで仕方がない・・・
怪我の事を心配してくれて、こんな何も取り柄のない自分のことを気遣ってくれる佐藤さんが・・・・・・愛おしい。
好き・・・という言葉を超えた、愛おしいという気持ち。
そんな春の陽ざしのような暖かい感情が今、自分の心で芽生え始めている。
ただ一緒にベンチに座って、離れて座るこの距離が会うたびに少しずつ縮まっていることに一挙一動し、でもこれ以上は近づけなくって。手を伸ばせば届く距離なのに、簡単には触れるなんてことができない、特別で神聖なものを感じた。
時々しゃべって、静かになって、車の音とか鳥のさえずりとか子どもの声とかが聞こえて・・・またどちらからともなくぽつぽつしゃべって、それだけであっという間に時間が過ぎていく。
木漏れ日が柔らかい。世界が自分達を優しく包んでくれているような錯覚さえ覚えてしまう。このまま時間が止まってしまえばいいのに。そう切に願った。
――― こんなに幸せでいいんだろうか。佐藤さんはこんな俺で満足してくれているのだろうか。
したいこととか、行きたいところとか無いんだろうか。
もっと笑顔が見たい。
もっと楽しませてあげたい。
もっと・・・喜ばせてあげたい。
誰かのために何かをしてあげたい。胸が打ち震えるようなこんな切ない気持ちを味わうのは初めてだった。
「そろそろ行かないと、電車に乗り遅れたら大変だ」
「あ、はい。今日はありがとうございます」
「あの・・・」
「はい?」
別れ際はさびしくて少しでも長く一緒に居たいので、いつも改札口まで佐藤さんを送ることにしていた。5時には送り出さないと佐藤さんの門限に間に合わない。特に今日は午後からしか会えなかったせいもあって、あっという間に時間が過ぎた感じだった。
公園を出てから電車の時間に間に合うように、でもゆっくりとした歩調で2人は歩き始めた。
「いや・・・毎週って大丈夫なのかなって思って」
佐藤さんの家は厳しい。今日も沙紀さんと会うと嘘をついて出て来ている。本当はもっと会いたいけど佐藤さんのことが心配でそうも言ってはいられなかった。
「だ、大丈夫です・・・さ、沙紀と一緒に居るって言ってますから」
「本当に?」
「ほ、本当です。わ・・私・・・・あ・・・・綾瀬さんに・・・・・・・・・・も・・もっと会いたいです」
「!」
も・・・もっと会いたいって・・・!
「あ・・・えっと・・・さ、佐藤さ・・」
今・・・もっと会いたいって・・・・・・会いたいって言ってくれて・・・
「め、迷惑ですよね」
「とんでもない!!迷惑だなんて、お、俺ももっと佐藤さんに・・・・み・・・・・・み・・・・・・・・・美里さんに会いたいです!!」
「わ、私もです・・・あや・・・・・あ、あの・・・こ、虎太郎さんって呼んでもいいですか・・・」
「・・・うん、うん!」
勇気を出して互いが初めて互いの名前を呼び合った。
みりさん、こたろうさんって・・・
駅までの短い道のり。
・・・・美里さんと俺は、
初めて手をつないで歩いた。
指先だけが触れ合う程度の・・・・その指先が離れてしまわないように、俺はしっかり握りしめていた。
それは・・・・きっと一生忘れないと思えるほどの、
幸福な時間だった。
「ねえ、君」
「・・・・あ・・え?・・・・・・・・・あ、あの」
虎太郎と別れた美里は駅のホームで電車を待っていたが、突如知らない人物に声をかけられた。
「佐藤さんですよね」
美里の前でにっこりとほほ笑む綺麗な青年は、際立った相貌に周囲の女性の視線を一身に集め、にわかにその場が色めきたつ。上品な物腰で近づいて来る青年は、まるでフレスコ画に出て来る天使のような優しい微笑を湛えて、美里の前で立ち止まった。
自分の名前を呼ばれたことと、突然現れた美麗な青年に驚き、目をパチパチして美里は固まった。ホームに降り立った天使は、綺麗な口角を更に引き上げて、その口から発せられた声は低いアルトを奏でるような美しい音色がこぼれ、また周囲を魅了した。
「あ・・・は、はい」
「そんなにびっくりしなくても・・・・・・・ふふっ・・・思っていたよりかわいい反応をしますね」
ホームに電車が入線する警告音がけたたましく鳴り響く。少女のか細い声は警報とアナウンスにかき消された。
「初めまして。佐藤美里さん」
電車が到着してホームは出入りする人であふれかえり、立ち止まったままの2人もその人混みまぎれ、雑踏の一部と化した。
電車が発車した後、さっきの喧噪がうそのように静まりかえりホームは閑散とした。
そしてそこに美里の姿は無かった。
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