飼い主
「久しぶりじゃねえか・・・・・タロ」
その声に、視界が全て灰色に変わる。
まるで呪いの言葉をささやかれるようだ。
「11年振りか・・・ タロ・・・」
(その名で呼ぶな!!!)
青ざめた顔で、体が震えている事を悟られないように睨み返すが、目の前の男は涼しい顔で自分より頭一つ分は低い位置にある虎太郎の顔を見下ろしていた。
こめかみにヒヤリと汗が流れ落ちる。
男は虎太郎から一瞬も視線を反らさずに、射ぬくように見つめ続ける。
「なんて顔してやがる。まさか、俺の顔を忘れたとでも?」
忘れたかった。忘れたかったさ。
忘れられたらどんなに楽に生きることができたか。
でも、・・・忘れることはできなかった。
恐ろしい、獣が残したあの恐ろしい記憶が、それをさせてくれなかった。
凶暴な野獣。
虎太郎を抑圧し支配し続けた恐怖の塊。
友人だったはずの虎太郎をペットのように扱い、自分は“タロ”の飼い主だと言い切った男。
――― 京極龍成(きょうごくりゅうせい)!
俺を無茶苦茶に蹂躙し尽くした獣。
なぜ、お前はまた俺の前に立っているんだ。
「感動の再会に、言葉も出ねえってか。まあいい。キャンキャン吠えるよりは大人しい方が調教もしやすいしな」
(調教・・・だと・・・)
昔と何も変わらぬ下卑た台詞を、人前で平然と吐く。
本当に最低な男だ。こんな奴に自分の人生を無茶苦茶にされて、しかもまた昔のように自分を縛り付けようとしている。
(また俺を苦しめるつもりなのか・・・)
座敷で宴会に興じていた黒服達は、京極組の跡取りである龍成の一挙一動をその場に控えて静観している。だがきっと奴が一言命令を下せば、一気に虎太郎に向かって押し寄せ袋叩きにでもするのだろう。奴らの眼はすでに敵を見る眼だ。それは暗く濁っていて常人の目付きでは無い。
廊下に立つ酒屋を、猜疑心剥き出しで敵視していた。
そんな誰もが動けずに緊迫した状況の中で、唯一チンピラ君だけがキョロキョロ眼と首を動かしている。組の一員と言えども軽々しく口を聞くことも許されないような組織の大物と、さっき出会ったばかりの田中と名乗るボケた酒屋のアルバイトが、何故か睨み合ったまま対峙しているからだ。
(何なんだ、何が起こってるんだ!なんで皆動かねえんだよ・・・・・・・なんかやべえぞこれって。田中、てめえは一体・・・何モノなんだ。なんであの人にあんなに睨まれてんだよ!!)
ケンジは自分が睨まれているわけではないのに、京極龍成の眼にビビり上がって全身が硬直し情けないほどガクガク足を震わせた。そして永遠に続くのかと思われた臨戦態勢下の凍りついた空気は、次に訪れた静寂を破るドスの利いた声によって砕かれ動き出した。
「来い、 タロ。 また飼ってやる」
「なっ!」
その言葉に恐怖を感じると共に、怒りがこみ上げてきた。
(飼ってやる・・・ だと!)
「自由時間は終わりだ。今度はしっかり首輪を付けてやるからな。覚悟しとけよ」
「っ・・・・」
11年前の惨めな自分が頭をよぎる。
それは夢も希望も自分の心も失いかけていた、灰色の世界に漂っていた哀れな飼い犬。
もう、あんな世界には戻りたくない。
あんな目に遭うなら死んだ方がましだとさえ思った。
そして本当に・・・
もう、心は死んでいたのかもしれないけれど。
あのときの自分は壊れていたのだから。
遊び過ぎて壊れたおもちゃ。
それでも、こいつは俺を解放しなかった。
だから、逃げたのに。
生と死の境を駆け抜けた11年前のあの日。
血と煙硝の臭いがむせかえるあの場所で、倒れた仲間を抱えた虎太郎は心の中で叫び続けた。
もう一緒には居られない!
何故こんな目に遭わなければならないのだろう!
自分は普通なのに!
何も悪いことなんてしていないのに・・・
自分とこいつらでは住む世界が違うと、最悪な状況の中で震えながら思い知った。
心も体も無茶苦茶にされて、その上命までも危険にさらした虎太郎は、これ以上一緒に居れば狂ってしまうと思った。
だから、何もかもかなぐり捨てて、自分は逃げた。
セックスと暴力の恐怖から。
逃げ出したんだ。
二度とこんな思いはしたくない。
(だから、俺は・・・お前の・・・・・龍成のとこには行かない!)
意を決してきびすを返し強く床を蹴り走り出した。どこからでも構わない、まずこの屋敷を出ることだけを考えた。
駆け出したとたん、目の前にガタイのいい男達が行く手を阻む。
背後には獣。
考えている暇は無かった。
姿勢を低く構えて男の腹にこぶしを叩きこむ。
横から掴かみかかって来る男に蹴りを食らわせ、崩れ落ちる男の背に足をかけ飛び、立ちはだかる男達に回し蹴りを決めた。
――― 瞬殺。
進路を塞ぐ4人の男達を瞬く間に片づけた虎太郎は再び駆けだしたが、その先には新たな組員が待ち構えていた。
(くそっ、きりがない。)
ジリジリと足を擦り攻撃のタイミングをはかる。
ミシッ・・・・
すぐ後ろで床のきしむ音がした。
(しまった!!)
振り返ると同時に、顔面に向けてこぶしが向かって来る。
「ぐうっ、!」
顔の前で両腕を交差させ手の平で襲い来るこぶしを受け止めるが、重い拳の力に体ごと後ろに吹っ飛びそうになる。
両足に力を入れ何とか踏みとどまり、数歩退いて距離を保った。こぶしを受けた両手の平がジンジンと鈍い痛みを訴える。
たった一発受けただけというのに。
何という重み。
昔よりもこぶしに重みが増している。
痛烈なパンチ力。
こんなものを顔面に受けたらきっと顔が変形して、一発で意識がブッ飛ぶだろう。
(龍成・・・こいつ、やっぱり強い。)
虎太郎に拳を阻まれた龍成は燃えるような眼をぎらつかせ、獲物を狩る獣じみた低いうなり声を漏らし喉の奥でくっと笑う。
こいつの拳は普通じゃない。
しかも、間違いなく・・・・・レベルが上がっている。
(ただでさえ凶暴なのに、昔以上とか・・・マジかよ!)
赤く燃え上がる狂気の色を浮かべた眼でニヤリと笑う龍成は、機嫌よさげに言葉を吐き出した。
「おもしれぇ」
そう・・・昔からこいつは「おもしろい」と言いながら俺を壊す。
俺を追いつめ、嬲りながら、興奮気味にケンカを煽る。
そのたびに傷つき倒れ、動けなくなった体に容赦なくその牙を落とし凌辱される。
――― 暴力の後のレイプ。
獣はわざと獲物を弱らせて、その苦渋に歪む表情と、そんな中でも刺激を与えられれば悦ぶ獲物の淫らな反応を楽しみながら、己の欲望を際限なく虎太郎に叩き付けた。
終わらない地獄。
執拗に調教され仕込まれた体は、痛みと快感に喘ぎ淫らに蠢く肉塊と化した。
悦びと後悔、むせび泣く心と体に、最後に訪れるのは常に絶望。
そんなことの繰り返しだった。
もう二の鉄は踏まない。
あんなことはもうさせない。
二度と、お前の思い通りになんかならない!
虎太郎は拳を握りしめたが、内心は恐ろしさの方が勝っていたのかもしれない。そんな心の内を見透かすように獣は虎太郎に言葉を投げつけた。
「お前だけだ。 こんなにも・・・・・俺を昂奮させるのは。だから、もっと・・・楽しませろや」
言い終わらない内に、龍成は殴りかかってきた。
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