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隣の芭蕉さん(1)


※現代パロ。大学生曽良×小説家芭蕉
※のだ○カンタービレを読んでいて思いついたネタ(笑)














揺れる、愛しいあの人の姿。
今淹れたばかりの珈琲から立ち上る湯気の向こうで、あの人は本のページを捲る。
二人で夕飯を食べた後、彼はこうして自室から持ち込んだ本を開くのが日課だった。読書の時にしかかけない眼鏡の奥で、色素の薄い瞳は今も忙しなく字を追っているのだろう。もはや定位置になったテレビの前のソファに陣取って、暫くは顔を上げる気配もなさそうだった。
僕はマグカップを載せたトレイをテーブルに置き、少し彼から離れたところで再び思考を巡らせることにした。
穏やかな、二人だけの時間。空間を支配するのは、時計の秒針と彼が本のページを捲る音だけ。
僕の足は無意識に震え、一歩後ずさろうとしていた。この雰囲気を壊す決意をしたのは、一体どれだけ前の話だったか。毎日訪れるこの時間が来る度に僕の心臓は高鳴り、なかなか決意を口に出来ない。
言いたい。言ってしまいたい。この胸に溢れる気持ちを言葉にしてしまえば、きっと楽になれるはずだった。
口にするのはたった一言でいい。彼だってわかってくれるはずだ。
しかし極度の緊張で、目眩さえしてきそうだった。フラフラとした足取りで、彼の座るソファへと近付く。
ああ、触れてしまいたい。柔らかそうな髪。小さな耳。細い首。
彼の容姿の全ては、幾度だって僕の理性とプライドを打ち壊そうとしてきた。
要は、僕は彼のことが好きなのだ。好きなんて言葉じゃ足りない。愛していると言っても過言ではない。僕は気付けば彼のことを考えているし、見ている。勿論、時間が許す限りはずっと。
なのに彼は、僕がどれだけの熱い視線を送ろうが、不審にさえ思わないのだ。彼の興味はいつだって彼の世界の中にしかない。彼の心は、今はその本の中の物語に捕らわれている。
ふざけるな。心底そう言ってやりたいのに、そこは惚れた弱みと言うやつで、何度この時間が訪れようと、その真剣な眼差しを逸らせた例はない。端から見れば、そんな変人の彼に恋をした、僕はきっと哀れなんだろう。
思わず呆れ半分のため息をつくと、本を読んでいたはずの彼は急に大声を出した。

「あぁぁぁぁぁぁっ!!!」

びくぅっ
振り向いた彼は突然のことに驚いていた僕を指差し、早口で喋り出した。

「い、今何時?!」

「えっ…と、21時10分過ぎです」

「ヤバいっ!」

彼はソファから飛び降り、部屋の中をバタバタと駆け回り始めた。

「リモコンどこだよっ!」

「……は?」

「テレビのリモコン!夕飯の時に私話してたでしょ?!今日は21時から"マーフィー湯けむり紀行"の最終回だって!!もう始まってるしどうして言ってくれなかったのさ!本当は録画だってしたかったけど、私録画の方法とか知らないから君にやってもらわないと困っ…」

「ふざけるな!!!」

「登戸っ!!」

横腹にチョップを繰り出すと、彼は有名温泉の名を叫んで床に倒れた。
僕はそのまま彼のシャツの襟を掴み、その体を引きずりつつリビングを出て廊下を通り、ドアを開けた。

「自分の家で見ろ!!!」

「ひど男!!うちのテレビにHDないの君知って…」

ぽいっ
バタン!!

彼を外へ放り出すと、僕はずるずるとドアの内側に座り込んだ。
僕は馬鹿だ。彼が振り向いた瞬間に、少しの期待をしてしまっていた。反省しなくては。彼のことは好きだが、あまり甘やかしているとつけあがる。

「曽良くん曽良くん!曽良くーーーん!!!」

ドアを叩きながら、僕の名前を大声で呼ぶんじゃない。近所迷惑だ。実際、彼のせいで何度大家に小言を言われたことか。
そんな彼はこのマンションで僕の隣室に住む、松尾芭蕉。ひょんなきっかけから彼は僕と知り合い、度々僕の部屋に訪れるようになった。





『隣の芭蕉さん』





その文体は簡潔でわかりやすく、万人が読みやすいながらも、物語は緩やかな緩急を伴って語られ、いつの間にか引き込まれる。
扱う題材はごくありふれた日常の話であることが多いのに、どの話を何回読み直そうとも、いつも新たな発見がある。
曽良が作家"松尾芭蕉"の本に魅せられたのは、中学生の時だった。両親を幼い頃に亡くし、父方の叔母の家に預けられていた曽良は、勉学でも習い事でも、全てを完璧にこなせるよう努めていた。特に叔母夫婦に対し見えを張ろうなどと思っていたのではなかったのだが、全てをこなすことで、優秀な知識人だった父の影に追いつこうとしていたのかもしれない。そうして学校で良い成績を取る代わりに、曽良と同世代の級友との交友は皆無だった。我ながら、つまらない青春時代を送っていたと思う。事務的に、ただ機械のように同じことを繰り返す毎日。そんな日々を送っていた曽良に、叔母は松尾芭蕉の本を紹介してくれたのだった。
本を読み進めていくうち、今まで曽良の目にはモノクロにしか映っていなかった何気ない日常の風景に、鮮やかな色が宿っていくような感覚を覚えた。物語の主人公が過ごす日々は一般のそれと大して変わらないのに、彼の目を通して見る世界は、極彩色に溢れていた。ささやかな変化に四季の移ろいを感じ、人の言葉に耳を傾け、その温もりを知る。
松尾芭蕉の本は、仕事人間だった父の愛読書だった。それを叔母から知らされた時に、曽良は認識した。勉強にいくら勤しんでも、どこか虚しかった。テストで良い点を取っても、ちっとも嬉しくなかった。曽良の知っている父親の面影は、ただ優秀なだけではなかったのだ。父は確かな優しさと愛を持っていた。その父に向ける母の眼差しは、いつも温かかった。直接両親から教わらなかったことを、松尾芭蕉の本を通して、曽良は知ったような気がした。
それからというもの、曽良は文学に興味を抱くようになった。高校では、それなりに気の置けない仲間も出来た。彼らのうちの数人と共に、某有名大学の文学部を志望した。結局受かったのは曽良だけだったのだが、進学を決め、叔母の家を離れることにし、一人上京した。そして越して来たのが、このマンションだった。







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