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忠犬ソラ公



あんたを、待っています。
あんたが、朽ち果てるまで。




『忠犬ソラ公』





「──ぷはぁっ」

ジロリ、曽良の鋭利な目が、視界の端であがった水しぶきを捉えた。
師の短い髪についた水滴が、光に反射する。未だ気持ちのいい冷たさに浸っているような間抜け面には、だらりと水が伝っていた。

東北へと向かう道程の、とある山中の川原。山に入ってから早々「疲れた」と喚いていた芭蕉に同調したつもりはないのだが、曽良の寄り道の提案に芭蕉は大いに喜んだ。比較的無駄を嫌うことの多い曽良にとっては珍しいことだが、この場所のことは以前知人から聞かされて知っており、興味ついでに寄ってみようと思っていただけの話だ。
実際、立ち寄るだけの価値はある場所に思われた。まるで日本各地の美しい風景を寄り合わせて、そのまま図に表したかのような空間だ。緑濃い、苔の生えた岩の間を透明な水が流れている。遠くの方にある崖の上から水は流れているようだが、その手前にある積み重なった岩から水が湧き上がっているかのようにも見える。川辺に悠然と立つ木々達はそれぞれの枝を伸ばし、水面に斑な影を落としていた。
言うなれば風流。それ以外の表現はしがたい。ただ知人も言っていた通り絶景ではあるのだが、もし観光地にするとしたらあまりにも入り組んだ地にあるし、小さい。贅沢なことにも、曽良と芭蕉以外に他に人はいなかった。


芭蕉は川縁に手をついたまま目を閉じていたかと思うと、また大きくふぅーっと息を吐き出した。それから、思わずと言った風にふふっと笑うと、こちらに顔を向けた。

「曽良くーん!やっぱ顔洗うと気持ちいいよー!君も来いよー!」

師の威厳などこれっぽっちもないのは、いつものこと。
芭蕉はへらへら笑いながら、顎先から落ちる水滴を着物の袖で拭っている。曽良は広げていた荷物の中から水筒を取ると、ため息をついて岩場から立ち上がった。

「僕はいいです。芭蕉さんが顔を洗ったのと同じ水を使えば、余計汚れるんで」

「ひど男っ!!ここ川じゃん!同じ水も何も!」

戯れ言を聞き流し、わざわざ芭蕉がいるところより上流で水筒を川の中に漬けた。
確かに気持ちいい冷たさだ。底が見えるほど澄んでいるし、飲み水にするのにも問題はないだろう。
水を汲んでいる間、川のせせらぎが耳にも心地よかった。芭蕉さえ黙っていれば、いい句も浮かんできそうだ。

「芭蕉さん、煩くしたら投げ飛ばしますよ」

「ひぃっ!最上川再来?!」

「あの時は自ら飛び込んでいたでしょう…おや、」

ぴしゃん。
遠くの方で、魚の尾ひれが水面を叩く音がした。
光の反射でどうも見えづらい。しかしよくよく目を凝らしてみると、川の中ほどに銀色の背をした魚が数匹泳いでいるようだ。
曽良は数秒で視線を元に戻したが、芭蕉は未だに魚の動きから目を逸らしてはいなかった。穴が開くほどじっと、その両方の黒目が川を見据えている。

何を見ているのだろう。いや、見てとれる物質は変わらないはずなのだが、伊達に"俳聖"などと呼ばれている身分でもない。
今この瞬間、芭蕉の目には曽良に見えない景色が映り込んでいるんだろうか。たかが魚といえど、今までの経験を通して言えば、そんな小さなことでも、曽良のいる世界と芭蕉とを切り離す条件には成りうる。
決して介入など出来ないのだ。彼によって言葉にされるまでは、この人の世界を垣間見ることなど一寸たりともままならない。
だからこういう時、曽良は黙って芭蕉の隣にいることしか出来ない。

しゃがみ込んだ体勢だと、余計にその身体は小さく見えた。襟から覗くかさついた肌の首筋や、上から見ると案外長い睫毛やら。こんな川辺の風景なんかよりも、その景色を見ている芭蕉の姿を間近で見れる自分の立ち位置の方が曽良にとっては格好の場所であるだなんて、芭蕉本人はたぶん知らないだろう。
そしてそうすることでさえ、芭蕉の色彩に富んだ世界(曽良はそう思っている)に触れることは叶わないのが悔しかった。
年齢差も、実力差も、埋められない距離が厭わしい。自分の知らない芭蕉の一面が見え隠れする度に煩わしい。
いつもの鉄仮面の下では、ごちゃごちゃとした感情が一層波打っていた。


「…ねぇ曽良くん?」

いい加減川に落としてやるか悪戯に抱きすくめてやろうかなんて思い始めた頃に、芭蕉はすっくと立ち上がった。
芭蕉はハァ、と肩を落とすと、目線だけで曽良の顔をちらりと見た。

「君さぁ……」

唇はその後の言葉を言おうと開きかけたが、音にはならず、芭蕉は口を噤んだ。
曽良は平静を装ってはいるが、芭蕉の一挙一動にはいつも心がざわつく。近いのに。触れられるのに。この人はそんなこと許さないだろう。

「あ、いいや、やっぱ何でもない。それよりさ、川の向こう。あれ見て」

何でもなかったようなふりをして、芭蕉は川の向こう岸、茂みの辺りを指差した。曽良は気付かなかったが、確かに何か獣のような影が見える。

「…何でしょう?」

「しゃがんだら見えるよ、ほら」

言われた通りにすると、その獣と目が合った気がした。
短い前脚と耳をピンと立たせた、野犬であるようだ。
それ程大きくはない犬だ。すばしっこそうではあるが、その体は骨が浮き出る程やせ細っていた。

「野犬ですね。あれを見てたんですか?」

「うん。君に似てるかな、と思って」

「はぁ?」

思わず声に苛立ちが籠もったが、芭蕉は表情を崩さなかった。その顔は穏やかではあるのだが、笑ってはいない。怒ってもいない。
ただつらつらと、芭蕉は言葉を述べた。

「…あの犬はああ見えて、すごくお腹が空いているんだと思うんだ。でも何も出来ないから、ただ私達を見てるだけなの」

一瞬、芭蕉の言っている意味がわからなかった。
しかしわかってしまうと、それは相当な嫌みにも取れる内容だ。
犬は飢えているんだろうが、ただ平然として、何もせずに佇んでいる。何しろ距離が遠いし、近付けるだけの力も残っていないのかもしれない。だから自分の餌を持っているかもしれない人間を、期待して見ていることしか出来ない。本当は喉から手が出るほど餌が欲しくとも、だ。
芭蕉は犬のことをそのように解釈し、曽良の姿と重ねたらしい。流石に、これだけ隣で見つめていれば本人も気付くか。

いくら芭蕉が鈍いとはいえ、数日前に想いを告げたばかりだ。決死の覚悟だったというのに、結局は答えをぼかされ、何の進展もなかった。その後もお互いに今まで通り振る舞ってはいたが、多少は意識してくれるようにはなったんだろうか。

「いい度胸ですね。僕を犬扱いとは」

「例えの話だもの。それに君の場合、おとなしく引き下がるつもりもなさそうだし」

「それはそうです。あんた、はいともいいえとも言わないじゃないですか。それは、期待をしてもいいということでしょう?」

「…何で、そういうことになるのさ」

芭蕉は呆れかえったような顔をしてまた地べたに座り込むと、片手を川の中で揺らし始めた。


「…悪いけど、私、何も持ってないよ?」

その言葉は野犬と、曽良の両方に向けられたものだろう。
遠回しに諦めろと、この関係を壊してくれるなと、言われているような気がした。芭蕉としては今のままの現状を維持し、出来るだけ穏便でありたいのだろう。
季節の変わり目には敏感なくせに、身の回りの環境の変化を誰よりも恐れている。年相応ではあるのかもしれないが、色恋沙汰に疎いのもそのせいだろうか。"何も持っていない"ということは、それだけ"持っていたものを手放してきた"ということだ。


ぴしゃん。
また遠くで、魚が水面を跳ねた。

曽良は一通り頭の中で今の状況を整理し、考えた。
芭蕉と話せば話すほど、その内面を知り得る。一つ一つの言葉が、余計に曽良を捕らえて離さなくなる。無論、諦める気などは最初から持ち合わせていない。そうでなければ、誰も同性の、しかもこんなおっさんになんか告白しないだろう。
この場所に芭蕉を連れてきたのは正解だと思った。ここへ来て、勝機なら僅かながら見えてきた気がするのだ。野犬などと言ってはいるが、少なくとも、芭蕉は今曽良が近くにいることを許している。
それらを全て踏まえ、曽良はゆっくりと口をひらいた。

「…ねぇ芭蕉さん?あの犬は、別に僕達を見ていた訳ではないのかもしれませんよ」

「え?」

芭蕉は完全に不意を突かれたような表情をしていた。
そういえば、想いを告げた時にも同じような顔をしていた。

「川の魚です。狙ってるんですよ。野犬なら、自分の餌は自分で採るでしょうから。
ただ、今のままでは捕れそうにないので、魚が捕れそうな絶好の機会を逃すまいと、待っているんです」

「それって…」

こういった例えは、おそらく芭蕉に師事しているからこそ出来るものだ。
芭蕉が隙を見せた時や、少しでも弱った瞬間を見逃さない。そこさえつくことが出来れば、芭蕉はきっと、曽良の手の中に落ちてくる。
それが出来るぐらいの自信は出来た。今現在少しでも曽良のことを意識している時点で、芭蕉が難攻不落の存在ではないことは既に明白なのだ。


「僕も虎視眈々と待ってみることにしました。芭蕉さん、噛み殺されないように気をつけて下さいよ」

「と、とんだ野犬を飼ってる気分になったわ!!」

その発言にはムカついたので、背中を蹴って川に突き落としておいた。
言ってやれば、これは宣戦布告だ。芭蕉自身がそうして曽良の元へ落ちて来るなら、いくらでも待ち続けられる自信はある。
また、それだけでもない。言ったからには、芭蕉が望むのなら優しくだって接するし、愛の言葉だって吐いてやる。野犬などとは失礼な話。これからは主人の言いつけを守る、忠犬にだってなってやるのだ。
全ては、芭蕉をこの手に納めるためなのだから。
曽良は川の中でびしょびしょになりながら自分の名を叫ぶ師の姿を痛快に思いつつ、見えやしない忠誠心に堅く誓うのだった。







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