それは幸福
8
「愛してるよ、凪」
その“セリフ”を最後に春臣の中で奏多の役は終わる。
目の前にいるのは先ほどの興奮した様子は何処へやら、いつにも増して感情を無にした千晶がいた。
「もう、いいだろ。早く退けろよ」
グッ、と退かせようと千晶の体を押せば、思いのほか抵抗もなくその体は春臣から離れた。
自分の性器から尻にかけて、どろりとした白濁が伝うようにしてその存在を主張していた。それがただただ気持ち悪くてすぐに洗い流そうと春臣はシャワールームへと向かった。
「起きたなら自分の部屋で寝ろよな」
シャワーを浴びる間際千晶に聞こえるよう大きな声でそう伝えた。それに対する返事はなかったが、そのすぐ後にバタンと扉が閉まる音が聞こえた。
きっと千晶は帰ったのだろう。帰るよう促したのは自分だが素直な千晶の行動に僅かに驚く。
しかし、嫌いな人間がいなくなったことで部屋の空気が軽くなった気がした。
そうして春臣は気分良くシャワーを浴び始めた。サァ、と温かい湯が春臣の体の“汚れ”を洗い流していく。
夜中に目覚めたとは思えないほど、頭は冴えていた。そして、千晶との先程の情事に関しても今までと違い大してショックは受けていなかった。
それもこれも、自分自身が演技をしていたからだろうか。前に演技をすればいいと思い込もうとした時には落ち着かなかった心も、実際に演技してしまえば何のその、いつも通りの自分がそこにはいた。
これは俺じゃなくて“奏多”の物語。俺はそれを演じているだけ。奏多ならきっとこう言う。奏多ならきっとこうする。そう考えながら動けば何も傷つくことはなかった。
― なんだ、意外にいけるんじゃん。
誠太に無理矢理フェラさせられたり、千晶に強制的に自慰させられた時に感じた恐怖感や喪失感などはあまり感じていなかった。
ここまできたら自分の神経の図太さに拍手を送りたくなる。
― といっても、これも全ては京太とともに俳優業を続けるためだ。
あくまでも、これが大前提である。この希望があるからこういう方法でも耐えられるのだ。
「台本なんていらない。俺は奏多にだってなりきってやる」
不思議な高揚感が湧く春臣。前とは違い、今は涙を流すことはなかった。
「また、いるし」
撮影が終わり、ホテルの部屋に着けば案の定そこには我が物顔で椅子に座る千晶の姿があった。
「毎日毎日人の部屋で過ごして、こっちの迷惑ってもんを考えろよ。いい加減、俺のコンディションを崩すようなことをするのはやめてくれ」
「俺に命令しないで。うざいから」
千晶は自前で持ってきたのであろう小説を読みながらいつものように毒を吐く。
そんな千晶の様子を見て、今日も何を言っても無駄だと春臣は掻いた汗を流すためシャワーを浴びることにした。
千晶に扱かれイかされた夜からすでに数日が経っていたが、あの日以来これといって何か嫌がらせをされることはなかった。
− でもだからってこう毎日のように来られるのもきつい。
性的な屈辱を味わわせるような嫌がらせがないのは助かるが何を思ったのか撮影時間以外のプライベートの時間、千晶は春臣の部屋に入り浸るようになった。
今のようにただそばで本を読んでいるだけの日もあれば、外出に付き合わされたり、ご飯を共にさせられたりする日もある。
そういうこともあり京太や他の俳優陣、スタッフは皆千晶が春臣にだけ心を開き懐いているなどと言っていた。しかし春臣からすれば、懐いているじゃなくて監視しているの間違いじゃないか、と言ってやりたかった。
きっと千晶は飽きもせずこちらの弱味を握ってやろうと監視しては画策しているのだ。
− 毎日毎日ご苦労なこった。
言わずもがなそんな千晶のことを考えれば頭の中には嫌味しか浮かばなかった。
貴重なプライベートの時間に他人が常に干渉してくることほどストレスになるものはない。
同居してる時にはなかった千晶の粘っこい、しつこい視線がただただ煩わしかった。
シャワーを浴び終えた春臣は今度は腹を満たそうと帰り際にチェーン店の弁当屋で買ってきた惣菜などを机に並べ始める。
「俺、まだ買いに行ってない」
するとその様子を見た千晶が本を閉じ、じとりとした目で春臣を見上げてきた。
「買いに行ってくれば。俺は買って帰ってきたから、わかる?」
改めて惣菜を指差しそう言えば千晶はムスッとした表情で本をリュックにしまい立ち上がった。
「俺、まだ買いに行ってない」
「だから?」
それはさっき聞いたっつーの、とため息を吐けば千晶は目線を逸らし俯く。
「...ついてきて」
ボソリと一言。お前は壁と話してるのかと嫌味を言ってやりたい程に千晶とは決して目が合わない。
「俺はお前の金魚の糞じゃないんだけど」
そう言いながらも春臣はしょうがなしに出掛ける準備をする。
あくまでも自分は千晶に逆らうことはできない。千晶の様子は変わったがいつまたあの気持ちの悪い行為をされるかわからないのだ。
そうして春臣はここ最近の日課のように千晶と2人で出掛ける。まるで嵐の前の静けさのような、ある意味で平和な日々であった。
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