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「あ、わり」

 ぴりぴりぴりと、青い掌の中が鳴いた。短く断りを入れてから、彼はなんの遠慮もなしに電話にでる。聞き耳を立てることはいくらなんでも無粋の境地だろうと思いながら、無駄にしゃっきりと背を伸ばして、幾分か氷が溶けて色を変えた琥珀を喉に流す。
 うまくない。人は何か嫌なことがあると、これに逃げる。その典型スタイルそのものに異議を唱えたい。唱えたいけれど、テンプレートに自ら当てはまってみた自分が何か苦言を呈す資格などないということは分かっているし、そもそも誰に投げかければいいのかもわからないのだ。
 気に食わないことばかりおきる。悪い予感ほど的中する。食道を通って胃に落ちる熱い塊が笑っているようにさえ思える。「おまえはそういう星のもとに産まれてきたのさ。いつかおいしい思いができる筈だなんて、そんなぬるいこと考えるんじゃねえ。底辺は底辺らしく、間男は間男らしく、負け犬は負け犬らしく、這い蹲ってな」と。


「ああ、お前も適当なところで早く帰れよ。新婚の癖に朝帰りなんてロクな噂立たねえぞ」


 不意に耳をついた言葉に、耳がぴくっと動いたのを自覚する。まさかその電話の向こう側にいるのは、「ぼくたちわたしたち」のぼくの方ではありませんか。ちょっとお電話変わって頂いてよろしいでしょうか、おたくに言いたいことは山ほどあるんだ。あのこのこととかあのこのこととかあのこのこととか。口には出さない。
 何の話をしているのかは、大体想像がついた。あのお堅い旦那のことだ、お偉いさん達との飲み会に駆り出されたは良いけれども、どうも居心地が悪くなって、トイレだとかなんだとか言って抜け出してきたんだろう。
 そしてどうにもならないのに、絹糸より細いライフラインに縋りついた、と。
「はは、あー、あのおっさんじゃあ、逃げ切れんのは難しいかもなあ」
 声と言うよりは音。柔らかな音だと思った。特に愛想笑いのところ、何も楽しくないのにそうやって、短く音を切って吐く。愛想が具わっているような人格だとは思えないけれども、と疑問視しながら盗み見た横顔は、胸をざわつかせるのには充分だった。



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あきゅろす。
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