†ロイエド*奥の間†
『断ち切れない蔓−@』R18……シリアス系
「大佐、どちらへ…」
ホークアイに声を掛けられてマスタングがひく、と顔を引きつらせて立ち止まる。
「いや…」
くる、と向きを変えて自席へと戻ると、深く椅子に腰掛けた。
「………」
頬杖をつき、思い出すのは昨夜の事。
きっかけはほんの些細な戯れ。
『……あんたといると疲れる』
エドワードがため息混じりにこぼした一言に、マスタングは言葉を失ってエドワードを抱き締めていた腕を解いた。
いつもの気恥ずかしさからくるエドワードのなじりであればそのまま組み敷いていただろうが。
「………」
マスタングは手元の書類をめくり出しながら小さくため息をつく。
「あ――!!もう!やめろよ!」
エドワードがベッドから跳ね起きた。
「何だ、照れるような事もないだろう」
エドワードの腕を引っ張りながらマスタングはクスクスと笑う。
エドワードがマスタングの家にいるようになって数ヶ月が経つ。
毎日顔を会わせるというのはエドワードからしたらおかしな気分だった。
朝起きるとマスタングが隣で寝ている。マスタングが仕事に行くのを見送って軍から委託された自分の仕事のために図書館に行ったりするが、一日に一度はマスタングのいる軍部に顔を出すから結局一緒にお茶を飲んだりする。
帰ればそのうちマスタングが帰って来る。
とにかく、一日も離れない状態が続いているのだ。
調子が狂ってしまうのも仕方ない。
マスタングは自分が側に居るのを手放しで喜んでいるのが見てとれるから、どうにも口を挟めなかったのだが。
「どうした?」
「ちょ、やめ…」
腕を引っ張ってもエドワードがおとなしく収まってくれそうもないので、マスタングは身体を起こして肩に掛かっている毛布ごとエドワードを抱きかかえて顔を寄せた。それをエドワードが身をよじって嫌がるがそれはいつも事だからマスタングは気にもせずエドワードの耳元に唇を寄せ舌を這わせた。
「やめ、ろって!」
「…ん?嫌なのか?」
「万年発情期に付き合ってらんねぇっつんだよ!」
ぐぐ、と顔を押され、マスタングは困ったように笑う。
「よく飽きねぇな、マジで」
「飽きないね、君が相手なら」
エドワードはマスタングの言葉にぞわぞわ、と寒気を感じながら肩を落とす。
「行ってらっしゃいのキスだのおかえりなさいのキスだの、風呂に一緒に入るだの………」
「基本だろう?新婚には」
「な!バカかよ!新婚…!?意味わかんねぇ!!」
そうか?とマスタングは首を傾げて身体をそらそうとするエドワードをより抱き込む。
そして頬をわずかに紅潮させているエドワードに口付けようとした時。
ふ、と表情を変えてエドワードが呟いた。
「…あんたといると、疲れる」
声音が低い。
マスタングの胸にちり、と冷たい音が響いて、そのまま腕の力を抜いた。
エドワードが下ろした髪をガシガシとかきながら毛布を払いのけベッドから出る。
その後ろ姿が何とも言い様もない冷えた空気をまとっているから、マスタングは掛ける言葉が出なかった。
* * * * * * * * * * *
「あら、エドワードくん。今日は遅かったのね」
部屋の前で立ち止まっていたエドワードの後ろからホークアイが声を掛けた。
「あ、うん…」
「大佐なら執務室にいるけど」
「…いいよ、今日はみんなとお茶飲みたいだけだから」
「……そう?」
ホークアイは不思議そうに首を傾げながらもドアを開けてくれた。
ちら、とエドワードが執務室の方を見たが無言で他の面子の揃った部屋へと入って行く。
「今日は…」
ただいまも言わずに、お帰りも言ってくれないエドワードの後ろでマスタングが上着を脱いだ。
「………」
エドワードはソファに足を乗せた体勢で本を膝の上で開いている。
今日軍の図書館から借りて来た随分と分厚いもので、マスタングが残業を終えて帰って来てもそう読み進んではいない。
ため息とともにマスタングがソファに上着を投げた。
そのまま背もたれに両手をついてエドワードを覗き込む。
「どうして私のところに来なかったのかね」
「……」
エドワードが一瞬だけ活字から視線を外し、でもマスタングを見る事なくまた活字へと戻る。
「別に…」
すでにシャワーを浴びたらしいエドワードからは湯上りの香がして、マスタングは問い詰めるよりも抱きすくめたい気持ちに背もたれについた手に力を入れる。
でもエドワードの周りには確実にそれを拒む空気が漂っていて、マスタングは出来ずにたたずんだまま。
「…………」
ソファの背についた手の力と肩の力を抜いてマスタングはエドワードに気付かれないように、しかし長いため息をついた。
しばらくは、聞く耳もないだろう。
そう思いはするものの、意地っ張りなエドワードをまるっきり放っておくのもあまり良い手ではない。
こうしている間だって、実は何で抱き締めて来ないのかなんて拗ねた思考を巡らせているかもしれない。
でも昨夜のあれはかなり本気だったはずで、やっぱりマスタングは今のエドワードの表も裏も読み切れずにいる。
「夕食は、とったのか?」
「冷蔵庫にあんたの分、入ってるから勝手に食えば?」
問い掛けたのに返事を返すはめになり、マスタングはエドワードには見えない背後で困り果てた顔をして口元を指でトントンと叩いた。
「………明日は…夜勤なんだが」
「……」
ぴく、とエドワードの肩が動いた。
「あ、そう」
「………」
大佐という立場上、部下たちのように順番に夜勤があるというわけではない。
マスタングが夜勤につく、それだけ仕事上で重要な事案を抱えているという事だ。
「だから、明日はのんびり過ごせばいい。私の帰りは待たなくていいのだから」
「前から待ってたコトなんかねぇよ」
「……そうか。なら今日は先に寝るから、失礼するよ」
ひどく他人行儀に言いながらもぎゅう、と胸の奥が締め付けられる。
触れたい、抱き締めたい気持ちに苦い顔をして、わずかな間をあけてマスタングが寝室へと向かう。
「シャワーは浴びてきているから、……おやすみ」
「………」
返事もなく視線すら上げないエドワードに切なそうな瞳を細めてマスタングは寝室に入ってドアを閉めた。
「………」
今夜、エドワードはこちらに来て眠るだろうか。
そんな不安が頭を掠め、また痛い鼓動を感じる。
何故エドワードがそれほどつれないのか。
もう、昨夜からの一日でつれないなんて軽いものではない事が身に凍みて、どうしようもない感覚が芽生えて来る。
自分と居ると疲れる。
それはハッキリしたものではないが、ある意味別れを切り出す常套句だ。
エドワードがそう考えているとは思っていないが、現状をうまく回復出来なければどう転ぶかわかったものではない。
「…………エド…」
表情を無くした表情が尚の事マスタングの苦しい葛藤をあらわにし、胸に掛かる想いを吐き出すように、マスタングは片手を額に当て大きく息を吐いて肩の力を抜いた。
このままズルズルと床に座り込んでしまいそうだ。
あれを、彼を、手放す日が来るというのか…。
やっと、やっと二人で過す時間を手に入れたというのに。
やはり、ひとつ処に立ち止まる事など彼に求めてはいけないのだろうか。
「…私の……」
エドワード。
天を仰ぎ、口に出せずにマスタングは力無く苦笑した。
「私の……か」
それはエドワードが怒り狂うほど恥ずかしいらしい言葉で、マスタングにとってはこの上なく悦に浸る事の出来る魔法のような言葉。
誰のものでもない。
私だけのものだ。
「……そうだな……別れる事になるくらいなら、適度な距離は必要か」
たとえそれが自分に不安と寂しさを運んで来るとしても、彼が生き生きとし、自分と会う時にまた嬉しいと感じてくれるなら。
「大人は……疲れるよ、エドワード」
ずっと、片時も放さず側に置いておきたいと願う事を押し込める。
ふ、とマスタングが唇だけで笑み、扉から離れ寝仕度を始めた。
パタンと分厚い本を閉じてエドワードはぎこちなく寝室の方へと視線を向けた。
「…………」
マスタングは結局、自分に触れてこなかった。
いつもならどれだけつれない態度をとったとしてもうっとうしいほど擦り付いてくるのに。
「………」
昨夜の自分の言葉がよほどショックだったのかもしれない。
エドワードは小さく口元を尖らせ寝室を睨み付けた。
疲れると思ったのは本当だし、自分の時間が欲しいと思ったのも確かだった。
仕方ないじゃないか。
いわゆる他人とずっと一緒に居るなんて慣れない。
恋人だろうと言われたって、それは別だ。
別だ、と思う。
「………どうすっかな」
かしかしと頭をかきながら顔をしかめる。
今夜、寝室に行ってマスタングと一緒に眠るか。
「また一人でショック受けそうだしなぁ…」
マスタングのあの様子では朝自分が隣で寝て居なかったら、静かに確実にショックを受けてズドーンと落ち込むに違いない。
ソファに膝を抱えて深く座り、エドワードは顔を傾けた。
今日一日まともに顔を会わせずに過ごしてみて感じたのは、それが心地よくなかったというコト。
朝は勝手に出てきたし、昼も一人ブラブラと街中を歩いて適当な店で食べた。
軍の食堂よりまともな味だったのと言うのに結局味気無かった。
夕飯だって、本当は待っていようかと思いはしたが、とにかく丸一日は別行動が取りたかったから唸りながらもマスタングの分はえい、と冷蔵庫に押し込んだ。
「……これで明日、夜勤だってよ…」
ふん、と拗ねた声を出してエドワードは膝に顔を埋めた。
自分が始めたのに、何だか回りまでもそれに合わせるように傾くのが感じられてきゅ、と胸が痛む。
「………」
しばらくもぞもぞとソファの上で居心地が悪そうにしていたエドワードは、急にガバッと顔を上げてソファから飛び降りる。
「っあ―――っ面倒くせ……ッ」
ぐぐ、と両腕を伸ばして自分を叱咤してそれでも気乗りしないような足取りで寝室へと向かう。
「………」
寝室のドアノブに手を掛け、エドワードはふと浮かんだ思いに、サァッと背筋が冷えた。
「……有り得なく、ねぇしな…」
マスタングのように幾多の恋愛を潜り抜けて来た大人としては、エドワードが本気で自分との事に疲れたのだと感じた場合。
逆にエドワードからしたら思わぬ方へと転ぶコトがある。
「……う、ん――…」
少し沈んだ気持ちになりながら、エドワードはドアを開けた。
ベッドではマスタングが横になっている。
「………」
ベッドサイドの椅子に放り投げたように掛かっているマスタングの軍服に手を乗せ、エドワードはこちらに背を向けて寝ているマスタングを見つめた。
「………ばぁか」
マスタングのシャツを近くの洗濯物のバスケットに投げ入れ、エドワードは勢いよくドスンとベッドにダイブした。
「――!?エド…?」
急な衝撃にマスタングがビク、と肩を揺らして意識を浮上させた。
声を掛けたエドワードからは返事はなく、ゴソゴソとベッドの中で体勢を整えようとしている。
「枕」
「……」
ばふ、と毛布から顔を出したエドワードは不機嫌全開で枕を要求してきた。
「枕!」
「あ、ああ…」
つまり腕枕のコト。
甘えているというにはあまりにデカい態度にマスタングは押されながら腕を渡してやると、エドワードはぐり、と背中を向けてその自分専用の枕に落ち着いた。
「………おやすみ」
「ぅん…」
いつものように抱き込まれる事はなく、マスタングの指が優しく髪を撫でた。
もしかしたら変わらず触れて来るかもしれないと天の邪鬼な期待をしていたエドワードは、小さくため息をついて瞳を閉じた。
マスタングにはその姿がとても切なく映っているとは考えていなかったから。
* * * * * * * * * *
マスタングが夜勤だから。
「ふん……」
エドワードはテーブルに山程の参考文献を積み上げた。
「こんなもんだろ」
マスタングがいるとちょっかいを出されて中々読み進められないでいた物ばかりを集めて持って来ていた。
テーブルを占領しうずたかく積まれた古ぼけた本を見つめ、いかにマスタングの存在が自分の勉強の妨げになっていたかを実感しエドワードは辟易とした顔をする。
「やっぱ、邪魔じゃねぇの?あれ」
ちょっと、本気で考える。
「さて、と」
手近な物を手に取り、エドワードはカチリと頭のスイッチを入れ替えた。
とにかく、少しでも読んでおきたいものだらけだ。
明日からまたマスタングが家に居る事を思えば今日は気合いを入れて読むべし。
「…………」
でもそれは、マスタングの態度がつい先日までのものと同じだという前提のもとで。
エドワードは表紙を開いた本を膝に乗せ、天井を仰いだ。
「………」
ふう、とため息をもらしてエドワードは視線を戻す。
考えても仕方のない事はとりあえず、おいておこう。
そこからのエドワードは渇いた地が洪水を飲み込むようにひたすら文字を追い続けた。
同じ体勢で居続けるとアチコチ痛くなるから時折本を片手に部屋の中を歩き回る。肩を回したりストレッチをしたりしながら、それでも活字からは目をそらす事なく読み耽る。
頭が、気持ちいいくらいにその知識にのめり込み満たされていくのが自分でもわかった。
宵の口から読み初めて食事など摂る事もなく、真夜中の鳥が遠くで鳴き始めてもエドワードは次の文献へと手を伸ばした。
一冊が読み終わる少し前に次を引き寄せ、まったく休みもしない。
とうとうさすがの渇地も湖を産みそうなほど満たされた頃、エドワードにも眠気が襲ってきた。
「ふぁ…何時だよ…」
最後の方はストレッチすら忘れ、ソファに文献を置いて絨毯に座り込んでいたエドワードが読み終わって絨毯に積み上げた本に肘をついて時計を振り返った。
日付はとうに変わっていた。
「んげ…」
それは覚悟していたのだが、あと数十分もすれば明るくなってくる。
睡眠なんぞ一日くらいとらなくても平気なのだが、エドワードはまだ夜の内だとわかると急に布団が恋しくなった。
朝になっていたなら気にもしなかったのだが、眠っていい時間帯だというのがどうしてもあの柔らかい毛布を欲して堪らなくなる。
「ん―……」
最後の抵抗とばかりに薄目の本を掴んでエドワードは寝室に向かった。
半分は読めた。
だからあとはこれくらいでいいか。
急激に瞼が重くなって、何だか腹の虫も鳴いているようだったが、ともかく、ベッド。
飯は朝食えばいい。
寝室のドアを預けた体重で押し開け、眠る気満々の身体は足元がおぼつかない。
「ん――……ぉわ……」
よろけた拍子に洗濯用のバスケットの取手に足が引っ掛かって、エドワードは勢いよく倒れ込んだ。
バサリと、中身が顔に降ってくる。
「いっ…てー……」
したたかに頭を打ったエドワードは昨夜自分が放り投げたマスタングのシャツに顔を覆われている事に気付いて嫌そうにそれをぶん、と振り払った。
「………」
振り払って、まだ掴んだままのシャツ。
「………」
じっとそれを睨んでいたエドワードはおもむろに立ち上がってシャツを持ったままベッドに飛び込んで大きなため息をついた。
「はああ〜あ!!」
そのまましばらくシーツに顔を埋めて黙り込む。
いつもなら、待っていれば帰ってくる相手。
「っ別に明日になったら帰ってくるわけだし……ッ」
誰に言い訳をするわけでもないのに思わず口に出てしまって、またシーツに沈む。
毎日、毎日顔を会わせている事が疲れたと言ったのは自分なのに、何だか物足りなさを感じる。
一緒に住み始めた頃だって、忙しいマスタングが明け方まで帰って来ない事はよくあった。
仕事だからと、あまり気にしてなかったのに今日は何だか勝手が違った。
「うん〜?」
ごろんと仰向けになり、エドワードは意味不明な自分の心持ちに疑問を投げる。
しかし、それで眠れないほど恋する乙女心など持ち合わせてはいなかった。
「寝よ……」
やっぱり口に出してしまう事に多少イラッとしたものの、手元のシャツを引き寄せエドワードはそのままの体勢で眠りへと落ちていった。
知らぬ間にマスタングのシャツを抱え込んだ事など気付かないくらい一気に睡魔に捕われながら、エドワードが静かに寝息をたて始める。
次第に朝焼けに空が染まる頃、そっと、次の夜まで会えないはずのマスタングが、部屋の鍵を回すなど思いもよらぬまま。
「…………これは」
どう捉えたら一番良いのだろう。
マスタングは疲れた顔を緩ませてベッドで何も掛けずに丸まっているエドワードを見下ろしていた。
正確には、マスタングのシャツにくるまった、エドワード。
リビングに大量の本のタワーを見つけ苦笑したマスタングはまさかこんな可愛らしい姿を目にするとは、かなり予想外だった。
自分がいないのをここぞとベッドのど真ん中で大の字に寝ているとふんでいたのに、まぁ、真ん中を陣取っているにはいるが、自分のシャツにくるまってスヤスヤと寝ているなんて思いもよらなかった。
「ん―……喜んで、いいんだろう、な…」
あれ程冷めていたというのに、この光景はどうしたって期待をもたせる。
マスタングは上着を脱いでベッドの脇まで椅子を引いてくると、背もたれに両腕を乗せ顔を傾げてエドワードを眺めた。
呆れたような、優しい笑みを浮かべ、自分のシャツに懐いている恋人を見つめ、数日ぶりに幸せな気分に浸った。
今夜の帰宅は、この後また午後から出勤するための仮眠、せっかく休むなら徒歩圏内の自宅の方が良いだろうと判断したもので、予定外だった。
だからこそここ最近の嫌な空気に捕われていたエドワードの気の緩んだ様子を見れたのだが。
「………」
しばらく静かにエドワードを眺めていたマスタングも、朝から仕事をしてまた午後から山のような書類と軍議に追われる身としてはそろそろ眠った方が良いと、伸びをしながら立ち上がった。
さて、エドワードをどうしたものか。
「………この姿を崩してしまうのは実にもったいない」
身体を深く折ってエドワードの顔を覗き込む。
あまりに健やかな寝顔にマスタングが嬉しそうに微笑んだ。
「ん………」
ぴく、とエドワードの身体が動き、ころんと寝返りをうった。
まさしく大の字になったエドワードがベッドの半分以上を占領した。
「参ったな」
苦笑しながらシャツのボタンを幾つか外し、マスタングがぎしりとベッドの端に腰を降ろす。
「ぅ…ん」
「………また随分と可愛い声を出して」
誘っているのか?
クスクス小さく笑いながらマスタングはエドワードの投げ出された腕の両脇に手をついて起こさない程度に頬に唇を寄せる。
エドワードがふん、と匂いを嗅ぐような動きを見せ、ぴく、と指先が反応した。
「……ぃさ……?」
「……うん?起きたのか……?」
「……………っこ…」
「……?」
エドワードが肩をすくめ目を閉じたまま呟く。抜ける息の方が多くてイマイチ聞き取れなかったマスタングはエドワードの口元に耳を寄せた。
「なんだい?」
ううん、と軽く首を振って眉をしかめ、エドワードはわきわきと手を動かす。
パチパチと瞬きをしてマスタングは首を傾げた。
「エド……」
「たいさぁ……だっ…こ」
「だっ……………!?」
マスタングはそのまま絶句した。
エドワードの口から出た言葉だとはとうてい信じられない。
いやいや、何かどこか足りないのではないか?
安易に抱っこ、という言葉と捉えるのは早急過ぎる。
ははは、と空笑いで理性を保ちながらもマスタングはもう一度エドワードが口を開くのを息を殺して、待った。
「だっこ、しろ……っつー…の、ばぁ…か…」
「〜〜〜〜〜ッ」
ああっ喜んでいいのか言い返したらいいのかわからん。
マスタングは最近どころか知り合った頃から見たって一番の可愛い寝言に微妙な非難を感じて複雑な顔をして拳を握り締めた。
抱っこしろと………?
抱っこだぞ!?
「…………」
言葉に詰まりながらマスタングはエドワードを見下ろす。
果たして寝言をそのまま良い方へ解釈していいものだろうか。
目が覚めた瞬間、何やってんだ変態、くらい言われかねない。
「どう…なんだ…?」
ごくりと息を飲んで見つめる先は時折、ぅうん、と小さく呟いてこて、と首を返すだけで、もう一度はなさそうだ。
触れたいのはやまやま。
しかし昨夜だって腕枕を要求――あくまで要求であっておねだりではない――してきたが、二人の距離は明らかにいつもより遠かった。マスタングも詰めるに詰められず微妙な間隔を開けていた。
今朝だっておはようのキスも行って来ますのキスもなし。挨拶すらかわさなかったのだ。
戸惑うのは仕方ない。
「…………」
マスタングが困り果てた顔で低く唸り続けていると、不意にエドワードの瞼が薄く開いた。
「…ん………おかえり」
「あ、ああ…」
まだ夢の中のようなとろんとした瞳と口元。
「抱っこ……」
「……本気、か…?」
ここで聞いても信用できないが、もう念を押すしかない。
ひくひくと口の端が引きつる感覚の中でもマスタングはエドワードの返事を待つ。
「ん―……………じゃ、いぃ」
「待て」
エドワードの返事を遮るようにマスタングが慌てて声を掛ける。
「ん〜抱っこ……っ」
「わかったわかった」
マスタングはベッドに乗り上げ伸びてきたエドワードの両腕を引き寄せる。
「バカろいー……」
「………っ」
やっぱり寝ぼけている。
ふにゃりと首を後ろに垂らしてエドワードはくふぅ、と笑う。
「………襲うぞ、エドワード」
「はあ?」
マスタングの苛ついた低い声にエドワードは天を仰いだ状態でふわふわと返事を返す。
「…………」
「襲えば?別に……いつもの事じゃん」
「……………エドワード…」
エドワードの鼻で笑う気配にマスタングが、ぐ、とエドワードの腕をキツく掴んだ。んん、とエドワードが眉根を寄せ眠い目をうっすらと開きそらしていた身体を戻す。
マスタングの諫めるような表情に、エドワードはふん、とそっぽを向き、眠気に任せ甘ったれたあげく相手を蔑むような物言いをした事にちく、と胸が痛む。
あのまま、素直に抱き締められていたら良かった。
「………」
「…もう」
マスタングの声にエドワードはぎく、と身体を強張らせた。
急に表情を変えたあまりに冷たく冷静な声音に、心臓が冷えていく気がした。
「私といるのは………嫌…か…」
「………」
「抱っこしろなどと言うのも……嫌がらせか?……君がもし私を」
「―――――!?」
エドワードはたまらずマスタングに向き直った。
「違……違……大佐、違………っっ」
「無理をさせているのか?もっと自由で居たいか……」
マスタングは困ったような淡い笑みを浮かべていた。
エドワードはマスタングの表情に怯える自分の心臓の音が次第に声をかき消してしまうのではないかと思うほど煩くて思わず叫んだ。
「私と、別れたいか…」
「違う!!!」
「………」
「違う!違う!!何言ってんだよ!バカ大佐何言ってんだよ!!!」
「エド………」
「別れない!!別れない!!……ロイやだ!!」
「……」
「嫌だ……っ何でそうなるんだよ…っっあんた俺の事、放さないって言ったくせに!!それ嘘かよ!?」
エドワードがマスタングの腕を振り回す。
マスタングはただその姿を黙って見ていた。
自分でも驚くほど冷静に。
自分は、エドワードを手放せるはずがない。
焦がれて愛してようやく手に入れた黄金色の子猫。
この子が居なくなったらまともな意識が保てなくなるかもしれないとまで思っていたのに、今泣きながら両手と両足を振り回して感情のままに暴れるエドワードに対して切ないくらい、冷静な自分がいる。
まるで他人事のように。
先ほどまでの浮き立った気持ちも、今までふたりで過ごした幸せな時間も、夢を見ていたかのようだ。
終わりを迎えようとしているのだろうか。
思い合っているのは手に取るように分かるのに。
「ロイ………っロイ何とか言えよ!!俺の事、俺の手、放すのか!?もう絶対戻らねぇぞ!?いんだな!?」
マスタングの態度に対する憤りが瞳から溢れ、エドワードは思い切りマスタングの身体を蹴り飛ばした。
しゃくり上げ肩で大きく息を繰り返しながら、エドワードはマスタングが何か言ってくれるのを必死で祈っていた。
このままでは必然的に亀裂が奥底まで二人を引き裂く。
その思いに耐え切れずにエドワードは両足でダンダン、とベッドを叩き続ける。
「エドワード……!」
「―――!」
搾り出すようなマスタングの声にエドワードがびく、と動きを止めた。
ぐ、と唇を噛みエドワードはマスタングを睨む。
マスタングは眉根を寄せて苦しそうに瞳を閉じている。
「ロイ……ロイ…っっ」
エドワードは自分がこれほどプライドやら羞恥心やらがバラバラと崩れるなんて、愕然としながらも今そんな上辺にこだわってマスタングを失いたくなかった。
自分のとった行動が引き起こした事態の収集がつけられなくてエドワードは悔しくて仕方がない。
「………ロイ」
「私が」
「……」
「君を手放せると思うか?」
「っ―――!」
マスタングは胸を締め付ける独占欲と理性とにふ、と自嘲の笑みに顔を歪ませた。
ぐい、とエドワードの乱れたシャツを掴んで乱暴に引き寄せると、マスタングはそのシャツのボタンが弾け飛ぶほど強く左右に引いた。
「ロ、イ………!?」
「君がどうしても私と別れたいと言ったら、…本当に辛くて、別れたいとしたら……手放す気でいたよ…?君の幸せを願えば」
「………」
エドワードはぶんぶんと頭を横に振り、飛び付くようにマスタングの首にしがみついた。
「でも、……たとえそう言われても……私は君を…この部屋に閉じ込めて練成陣で封印をして」
「……うん……」
「どこにも行かせない。誰にも会わせない…アルフォンスにも。母親の墓参りにも行かせない。君の世界に居るのは私だけ…………そうしてしまいたい気持ちが、怖いよ。……でもそれが本音だ」
「ロイ……」
「君が私をどれ程嫌っても放さない。それくらい私の愛情は、歪み切っているようだな」
「ぅん………」
ため息をつくマスタングに、エドワードは震える唇を静かに動かした。
「それでいい………」
「……」
「あんたが俺を嫌っても……俺は同じ事をするから」
エドワードはぎゅう、とマスタングに抱き付き、鎖のように身体を巻き付かせた。
「愛しているよ……」
「………」
「私の………エドワード…」
「………っ」
マスタングの声にエドワードは身の内から震えがわき起こるのを感じた。
ああ、もう隙間なく刺をまとった蔓薔薇のように彼を閉じ込めてしまいたい。
エドワードは強い力で抱き締められる悦に気絶しそうになった。
「ロ…イ」
「……ん」
エドワードは正しくその蔓に巻かれるようにマスタングに抱かれて意識を手放した。
「………………手放せるはずなど、ないよ…」
この声は届かなくとも。
* * * * * * * * * * *
エドワードが目を覚ました時、ベッドにはマスタングの姿はなかった。
「………………夢?」
しばらくぼやけた頭でエドワードは揺れているカーテンを見つめた。
「………」
夜勤のマスタングがこの場にいないのは当たり前だ。
やはり夢なのか。
「…………?」
耳を澄ますと、水の流れるような音が聞こえる。
昨夜の文献漁りが過ぎた瞳はまぶたが重くてうっとうしい。
でもそれは泣きはらした感もあって、エドワードはハッと顔を上げ毛布から飛び出した。
「………大佐……?」
部屋から出るとバスルームから水音がしている。
どくん、と心音が一度大きく鳴って早くなる。
静かに、ゆっくりとエドワードが廊下を進み、バスルームの前でぎゅ、と手を握り締めた。
「大佐………」
帰って来てたのか。
いつ………。
あれはやはり現実…?
伸ばせないで中途半端に上げた手を握り、エドワードは声を掛けるのをためらった。
何と声を掛けたらいいのかわからない。
明け方の幻だったかもしれないやり取りは、結局まとまったのか。
それとも溝が深まっただけなのか。
「………」
エドワードは流れるシャワーの音を聞きながら空ろに床を見つめる。
思いもしなかったマスタングの言葉は、不安をよみがえらせる。
きゅ、とシャワーを止める音がしてエドワードはびく、と後退った。でも、それ以上は動けなくなってしまう。
「………エドワード…?」
カチャリとドアを開けたマスタングが驚いて一瞬眉をひそめる。
その表情にエドワードは言葉が出なくなった。
やはり、行く末は甘くはないようだ。
「…………」
沈んだ面持ちで立ち尽くしているエドワードに、マスタングは少し呆れたようにため息をついた。
ぐい、とエドワードの頭を引き寄せ、慌てて顔を上げるエドワードを両腕の中におさめた。
「………っ」
いつもの、湯上がりの香。
エドワードは言葉のないままぎゅ、とマスタングに抱き付いた。
「……おはようは?エドワード」
マスタングは子供に尋ねるようにわざと柔らかい声を出し、エドワードがむず痒くなるのを誘う。
「………ぉ、はよ……」
「では、おはようのキスは?」
「――!?」
「ん?」
今度は意地悪な笑みを作って耳元で囁く。
腕の中でバツが悪過ぎてどう出たら良いのかわからずにもぞもぞとエドワードが動き、ぴた、と動きを止めた。
「…………………抱っこ」
「…………………ん!?」
思わずガバッとマスタングが顔を上げてエドワードを確認する。
そこには恥ずかしさに口元を歪めてこちらを上目遣いに睨むエドワードの姿。
抱っこ?
今の流れからどうやってそれに着地するのか、マスタングは困惑した。
しかしエドワードの中では話が通っているのか、意を解さないマスタングを不満そうに見上げてくる。
「抱っこしろって言ってんだよ!」
「君ね……」
マスタングは頭痛でもするかのように片手を額に当てた。
昨夜のあれは天使のように可愛かったが、どうだ、この俺様ぶりは。
あれはやはり疲れで見た幻影か。
「しねーの……?」
「―――――」
しかし、次の瞬間ふ、と力の抜けた不安そうなエドワードの声音と瞳に、マスタングは吸い込んだ息に咳き込みそうになった。
どうしてこう、この子は態度といい表情といい、コロコロと変わるのだろう。
マスタングは諦めてくす、と笑みをこぼしバスルームの戸口に腰を降ろした。
「おいで」
「…………」
エドワードが腕を引かれてマスタングを跨ぎ、すとんと膝に身体を落として体重を預ける。
「んん…」
安心した声を出してエドワードが擦り付く。
「何だ、急に甘えて」
「いいだろっ別に…」
「いいわけないだろう?あれだけ私を振り回しておいて」
「…………」
ふて腐れるエドワードにマスタングは少しだけ目元をキツくしてみせる。
どれだけこの数日間もやもやとイライラとさせられたことか。
エドワードは言葉に詰まってぐりん、と顔を背けた。
マスタングが半分裂くように開いたエドワードのシャツが肌蹴て素肌が触れ合う。
それに気付いてしまうととたんに心臓が早まっていく。
ほんの数日前までは当たり前のようにくっついていたのに、改めてマスタングとの密着は切なさと気恥ずかしさを呼び起こした。
「………………ごめん、…悪かった」
「本気で色々と考えたぞ」
「ぅん……」
文句を言われているのにエドワードは上の空なくらいに顔を緩ませてぐりぐりとマスタングに擦りつく。
「私といるのは疲れる、だろう?」
「疲れる」
「――――っっ」
ため息で即答されてマスタングの口元が引きつった。
「……でも居ないと物足んねー…」
「物足りない程度かね」
「………文献読む時間無くなるし、ベッド狭くなるし、あんたが居ても得ねーもん。ウザいだけだろ」
言いながらエドワードは気持ち良さそうにくりくりと頭を動かして撫でろと催促する。
「……ウザい、ね」
マスタングはエドワードの言葉とは裏腹な態度に苦笑しながらもその髪を撫でて唇を寄せた。
「……………」
慣れた手のひらが髪を撫でていく感覚にもそもそとエドワードが落ち着かないように身体を動かし始め、それに気付いたマスタングは軽く唇の片端を上げたが言葉を掛けない。
「ん………」
ゆっくりとしかし確実にエドワードの身体が内から熱くなっていく。
マスタングのなだらかな腕や胸の筋肉と肌触りがエドワードの気を引く。
ふ、とエドワードが吐く息は紅潮した顔の熱を下げるようで、マスタングはまだ声を掛けないままそっと髪から首筋を手のひらで撫でた。
ぴく、と反応してエドワードがマスタングの身体に回した腕に微かな力を込める。
「……………そろそろ」
「ん……」
マスタングが囁くように掛けた声にエドワードがきゅ、と唇を引いた。
鼓膜から息が流れ込むような感覚。
嫌でもエドワードの気持ちは高まったしまう。
エドワードがマスタングに回していた腕を戻して手のひらをマスタングの胸元に置き顔を寄せる。すっぽりとマスタングの腕に収まって、言葉を待つ。
さぁ、ベッドで一眠りしようかと。
「そろそろ、ハボックが迎えに来る時刻だ。着替えないといけないな」
「は……?仕事、行くのか?」
驚いて思わずマスタングを振り仰ぎ、エドワードは目を丸くした。
「ああ、そのための仮眠をと思って帰宅したんだからな。…………さて?」
「あ………」
下りなさい、と促すマスタングの瞳は含みをもっている。
エドワードは期待した自分が急に恥ずかしくなってパッと顔を背けた。
何だ、今日は夜勤明けで休みなのだと思ったのに。
「どうかしたのか?」
「別に。どうせ夜になりゃ嫌でもあんたの顔見るんだろ」
「どうかな…」
考えるように視線をそらしたマスタングに、エドワードはもしかしてまた読書の時間をとらされてしまうかもしれない事にほんの少し眉を寄せた。
その拗ねたような表情を横目で見てマスタングはちょっと難しいかな、と答えた。
「あ、そ……」
がっかりした様子なんて見られたくないエドワードが素っ気なく返せば返すほどマスタングには見透かされてしまう。
「明日の夜には戻って来るよ、……多分ね」
「たぶん〜?」
エドワードが口元を曲げてマスタングを睨む。
「何だ、淋しいか?」
「んなわけあるかー!!読めなかった文献ぜんっぶ読んでやるからいーんだよ!」
ふん、とそっぽを向き軽く唇を噛む。
「まぁ、少なくても明後日の夜には帰るよ。今回の事件のかたもつくだろうからな」
「へぇ」
明後日。
そんなに長く一緒に居ないかもしれないなんて思わなかった。
この様子ではランチもお茶の時間もあやしそうだ。
「じゃあ……」
むす、としたままのエドワードが仕方ない、とでも言うようにマスタングの首に腕を回して顔を近付けた。
「さて」
「―っ」
キスくらいしてやるか、とあくまで渋々を装ったのに、マスタングはぐい、とエドワードを持ち上げて床に降ろした。
マスタングが自分のキスをかわすなんて。
エドワードはあまりに驚いてその場に座り込み相手を見上げた。
「いつまでもタオル一枚ではいつあの煩いヤツが来てしまうかわからないからな」
ついでに何を言われるかわかったものではない、と言い残してマスタングはエドワードを置いて寝室へと向かった。
「………………は?」
エドワードは寝室のドアが閉まった後、ようやく声を出した。
「な………」
置き去りにされて、もしかしたら明後日まで一緒に居られないかもしれなくて、少しは悪かったと思うのを態度で示そうとしたのを制止された。
「――――――!!!」
ぎぎぎ、と音がしそうなほどエドワードが赤い顔で奥歯を噛み締め怒りのオーラを発した。
何だ、あれは。
何なんだ。
これがまだ機械鎧の手足だったらゴスッと一発床に穴のひとつも空けようかと言うくらいエドワードはマスタングの態度に腹がたった。
しかしここで抗議をするとか寂しいとか表したら負けのような気がする。
「ぅ〜〜〜〜ッ」
胡座をかいた体勢でうつむき、エドワードは低く長くうなった。
「…………」
吐く息の限界までうなり終わってエドワードは、ふ、と力を抜いた。
自分から作った距離を、自分の都合よくまた元に戻せると考えるあたりがわがままなのかもしれない。
マスタングが自分に甘いのを知っていて、他の誰よりも理不尽なのは自分の方だ。振り回して、怒って懐いて、相手が呆れたらまた怒るなんて、子供より質が悪い。
「…………」
仕方なくエドワードは立ち上がり、もう今日は一日家でうだうだする事に決めて大きなため息をついた。
洗濯でもして、買い物は近所で済ませて、ゴロゴロとしよう。
「ふぅ………」
とりあえずマスタングが寝室から出て来たら入れ替わりで一眠りする。それまでソファで横になっていようかとエドワードが歩き出した。
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