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 フェイトを送り出して眠りについたカフカが目を覚ましたのは、翌日の昼前だった。太陽はすでに真上に近いところまでさしかかっており、少々の口の渇きと寝苦しさによって目を覚ましたのだ。
 タオルケットをはねのけ瞳を擦りながら体の節々を伸ばすと、寝すぎによる気だるさが今日という一日を台無しにしてくれることを約束してくれる。もちろんそれに逆らうなんてバカな真似はしない。カフカは魂まで抜けていくかのような大あくびとともに再び目を閉じる。

「あ、起きた?」

 ところが思いがけない人物に声をかけられ、三度目を擦る。

「どうしてここにいるんだ?」

「どうしてって……ここはわたしの執務室なんだけど?」

 寝ぼけてるの? とでも言いたそうな顔のフェイトは苦笑いを浮かべた。
 タバコを手に取ったカフカは、指をさす彼女に従って換気扇の下へ足を運ぶ。

「いつ帰って来た?」

「うーん……そんなに経ってないかな? ほんのついさっきだよ」

「帰ってきて早々に仕事か……オレも見習わなきゃならないな」

「そんなこと欠片も思ってないくせに」

 くるりと椅子を回して、彼女は仕事に戻った。

「思ってるさ、そう……欠片ほどには」

「その欠片ほどの労働意欲は、いったいどれくらいに相当するのかな?」

「せいぜいコーヒーを淹れるくらいだな」

「それじゃあ、おねがいしようかな?」

「ミルクがない、やめとけ」

「ふふっ、冷蔵庫の中を覗いてみて」

 やれやれ、とカフカはタバコを流しに捨てると冷蔵庫から彼女が出先で買ってきたのであろうミルクを取り出した。サーバーからカップへコーヒーを注ぎ、そのうち片方のカップにミルクを入れる。そして悪魔のように黒いコーヒーが天使のような色に変っていくのを確認するとミルクを冷蔵庫へしまい、彼女の下まで運ぶ。

「ありがとう、やっぱりこっちの方が好きかな? ほんとは苦いのあんまり得意じゃないんだ」

 ミルク入りの方を受け取ったフェイトは、ひとくちそれを飲んでぺろりと唇を舐めた。そして困ったように眉をしかめながら、

「でもそう言ったらカフカ君にバカにされそうで」

「べつにバカになんてしない」

「ほんとに?」

「ああ、ほんとだとも」

 よかった、と彼女ははにかみながら手を温めるようにカップを回す。

「ゆうべも思ったけど、カフカ君のコーヒーはおいしいね」

「サーバーにあった残りを温めなおしただけだ。味は最悪だろう、飲む人間の舌が腐ってないなら」

 これが相応しい飲み方だと言わんばかりに、音を立てて下品にコーヒーを流しこむ。舌が腐り落ちそうなほどまずいコーヒーを。
 フェイトはしばらく落ち着きなく辺りを見渡した後で手元のカップに視線を落とし、思いついたように口にした。

「…………ミ、ミルクの配分量が絶妙だって言いたかったんだよ。この色がさ、……と、とにかく完璧な色合いだ」

「そうか、そいつはありがとう。ところでそのコーヒー、ゆうべ見たキミの尻の色にそっくりだ」

 その発言は、ぷしゅっという奇妙な噴出音とともにカップに口をつけていた彼女の、その口周りをコーヒーまみれにしてくれた。口と言わず鼻からもコーヒーを滴らせる様はなかなか愉快だったが、淑女にふさわしい振る舞いとは言えないだろう。それに絨毯も汚れる。
 カフカは肩をすくめて立ち上がり、彼女に問いかけた。

「布巾がほしい? それとも雑巾? 洗面台?」

「ぜんぶ!」

 顔を真っ赤にし、涙目で咳き込むフェイトに言われるがままとりあえず洗面所に飛び込む。けれど、残念ながら洗面台は気軽に持ち運びが可能な代物ではないらしかった。これではもしものとき、たとえばコーヒーを噴出したときなどには不便で仕方がないだろう。カフカは洗面所から顔を出して彼女にその旨を伝えた。

「アー……すまない、とてもクソッたれなことに洗面台は持って行けそうにない。コーヒーを鼻から滴らせた人間はいったい今までどうしていたんだろうな。そうだ、もしここにハンマーがあって明日からのキミが洗面台がないなんて文句を言いださないのなら――」

「もういい!」

 涙とコーヒーでぐしょぐしょになった顔のフェイトが洗面所に飛び込んでくる。思わずのけぞりそうになるほどの迫力だったが、カフカは蛇口をひねって彼女を出迎えた。
 顔を乱暴に洗う彼女の下に置かれた洗面器、そこに濁った水が溜まっていく。茶色に紫が混じり、さらには黒と赤が混じって酷く毒々しい色へと変わっていく。

「ほら、こいつで顔を拭けよ」

 顔を拭くものを求め彷徨っていた彼女の手にタオルを握らせる。

「ん、ありがとう……」

「さっぱりしたか?」

「うん、おかげさまで……って、ぜんぶカフカ君のせいだよ!」

 ギュッとタオルを握りしめたフェイトが両腕を振り上げ抗議する。
 カフカはそれを払いのけ、彼女の額に貼りつく濡れそぼった前髪に指をやった。

「寝不足なのもオレのせいか?」

「それは……違うよ。べつにカフカ君のせいじゃないよ」

 フェイトは俯き、カフカの指は宙に置き去りにされる。
 化粧が落ち、露わとなった彼女の顔に浮きでた濃い隈。16歳の少女が夜も眠れぬ日々を送っているのだとしたら、それはきっと春の嵐のような激しい恋に落ちたのだろうと普通は考える。あるいは冬の雷にでも打たれたような予期せぬ失恋でもしたか。
 しかし彼女の方はそのどちらでもなさそうである。おそらく世間一般の16歳の少女にはもっとも縁がなさそうな理由からだろう。

「執務官補佐は……」

「え?」

「直属の上司である執務官に、いったいどれくらいの意見が許されてる?」

「うーん……それぞれの執務官次第なんじゃないかな? 大抵の執務官はパートナーとして頼りにしてるけど、兄さんもそうだったしね。でも、執務官全員がそうというわけでもないみたい。中にはただの秘書扱いする人間もいて、しょっちゅう執務官補佐を変えて小ずるいことをやってるって聞いたことがある……同じ執務官としては情けないことこの上ないけど――」

「もういい、そこからはたぶん査察官の仕事だ。そのうち捕まえることを祈っていてくれ、オレのかつての同僚たちがな」

 悩ましげに、腹立たしげに唸る彼女を遮ってため息を吐きだす。

「キミは、そう……キミがどれくらいの意見を許しているのかってことを聞きたかったんだ」

 その言葉にフェイトは眉をしかめてあからさまな警戒の色をみせた。

「なに? そんなの今さらだよ。カフカ君、今まで好き勝手言ってたしやってたよね? ついさっきだってわたしの顔にコーヒーをぶちまけてくれたしね! これ以上なにを要求するっていうの? わたしを顎で使うとか?」

「それも悪くないな……」

「悪くなくなくない!」

 憤慨した彼女にタオルを投げつけられたカフカは、それを広げて笑う。マスカラやアイシャドー、グロスの跡がぼんやりと浮かんでいるのだ。

「見ろよ、デスマスクみたいだ」

「わたしの鼻はそんなに低くないし、それじゃ平面でデスマスクじゃない!」

 ツンとそっぽを向き、そのまま洗面所を後にしようとする彼女の腕を掴んで引き留める。

「なに? まだなにかあるの?」

 フェイトは掴まれた腕に鬱陶しげな視線を落とし、次いでカフカを睨むように見上げる。

「そうだな、オレはキミの部下だから失礼のないよう言わせてもらおう――クソしてさっさと寝ろ」

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